
元五輪リレーアンカー・大森盛一:パラ陸上指導者として選手と共に「全力疾走」
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視覚障害アスリートの“水先案内人”
新型コロナウイルスの世界的なまん延で、パラリンピックの開催が1年延びて2021年8月24日開幕と正式に決まった。延期によって今後どんな影響が出てくるか不安は残るが、中止にはならなかったことで、実際に競技場で観戦することを楽しみにしていた人たちは、ひとまず胸をなでおろしたのではないだろうか。
12年のロンドン五輪・パラリンピック以降、パラアスリートに対する注目度が急速に高まった。リオデジャネイロではパラ競技のテレビ視聴者数が41億人を超え、東京パラリンピックのチケットの第1次抽選では、60万枚販売のところ359万枚分の応募があり、約6倍という高い競争率になっている(注:4月時点では観戦チケットは21年原則「利用可」の方向で検討)。
人気の理由は、パラアスリートがメディアやSNSで紹介されるにつれ、彼らの身体能力の高さや、卓越したテクニックに驚き、身体にハンディを負っているからこそ気付かされる人間の潜在能力の高さに、改めて希望を抱く人が増えているからに違いない。
だが障害を持つ以上、健常者のサポートは必要になる。特に視覚障害アスリートには “水先案内人” の存在が不可欠だ。陸上では選手と一緒に走る「ガイドランナー」、投てき競技や走り幅跳びなどでは投げる方向や踏切の位置を声や手拍子で伝える 「コーラー」が重要な役割を担う。マラソンでは二人のガイドランナーが交代で伴走して、選手を安全にゴールに導く。
少年時代のサニブラウン・ハキームも指導
ガイドランナーとコーラーは全く別の役割だが、一人二役をこなすコーチがいる。女子走り幅跳びと短距離100メートルで日本記録を持つ高田千明を指導する大森盛一(47)だ。高田は走り幅跳びで東京パラ出場の内定しており(大会延期でも変更なし)、100メートル代表もほぼ確実視されている。T11(全盲クラス)に出場する高田は、大森に絶対的な信頼を寄せ、「自分の分身」とまで言う。
関東パラ陸上競技選手権大会で(2019年7月東京・町田市立陸上競技場)
「大森さんの指導はとても分かり易く、安心感があります。彼が設定してくれる高い目標を追い続けることで、自分はアスリートなんだという自覚や自信も芽生えた。競技をする上で私にはなくてはならない人です」
大森が高田と出会ったのは、大森が知人の陸上クラブを手伝っていた2006年。08年に大森が陸上クラブ「アスリートフォレストT.C.」を東京世田谷に設立すると高田が入門し、本格的に関わるようになった。ちなみに、男子陸上100メートルで日本記録を持つサニブラウン・ハキームも小学生時代に大森から指導を受けている。
大森が高田と初めて会った14年前を思い起こす。「障害者を指導するのは初めてだったので戸惑いはあったけれど、千明の向上心は人一倍強かった。その熱に引き込まれ、僕ができることは全て伝授しようと思いましたね」
高田は子供の頃から足が速かったが、本格的な指導を受けたことがなかった。そのため手と足のフォームがバラバラだったので、走り方の基本を一からやり直した。大森自身も高田に伴走を求められ、ガイドランナーの技術を学ぼうとするが、これが想像以上に難しかったという。大森自身が五輪で実績を残した陸上選手だったことがその一因だ。
アトランタ五輪・陸上男子1600メートルリレー決勝。アンカーの大森盛一は5位でゴールし、日本新記録をマーク。手前は優勝して喜ぶアメリカチーム=1996年米・ジョージア州アトランタの五輪スタジアム(時事)
“合わせ鏡”のように伴走する
大森は陸上400メートルの選手として1992年バルセロナ、96年アトランタ五輪に出場。アトランタでは1600メートル(マイル)リレーでアンカーを務め、5位に入賞した。その時に樹立した3分0分76の日本記録は、24年たった今でも破られていない。大森の体には世界に通じた走りの感覚が刻まれていたが、その感覚をまず消すことから始めなければならなかった。ただひたすら、高田の腕の振り幅、ストライド、ピッチ、スピードに合わせ続けた。大森が苦笑いする。「何度つんのめりそうになったことか。歩幅を小さくしながら回転数を上げて走るのは、想像以上にしんどいんですよ」
身長差も伴走を難しくした。「身長180センチ超の僕と161センチの千明とでは足の長さ、筋肉の質が大きく異なるから、ストライドもピッチもまるで違う。でも選手と20センチほどのひもで結ばれているガイドランナーは、選手と合わせ鏡のように同じフォームで走ることが求められるんです」
ゼロから走り幅跳びに挑む
大森の懸命なサポートのおかげで高田はスピードを手に入れ、2008年には100メートルで日本記録を樹立。だが世界標準記録にはわずかに及ばず、北京五輪の出場を逃した。同時に妊娠が判明。大森が当時を振り返る。
「出産直後の女性は、一般の人より体力が落ちているし、彼女の両親も現役復帰することに大反対していたので、千明はもう引退するものだと思っていたんですよ。ところが本人はロンドン大会を狙いたいと言って一歩も引き下がらない。彼女のやる気に僕が引っ張られた感じでまたコーチをやることにしました」
二人の二人三脚は緻密さを増したが、健常者の短距離でも分かるように、日本女子は世界レベルに程遠い。短距離走は骨格の差が如実にタイムに現れてしまうからだ。再び日本記録を塗り替えるものの世界標準タイムにはわずかに届かず、ロンドン五輪の出場も逃した。
短距離が難しいなら、走り幅跳びでパラリンピックを狙いたい。高田にそう告げられて、走り幅跳びの経験のない大森は一瞬戸惑った。だが、高田の向上心にはふたができない。長年の付き合いでよく分かっていた大森は、走り幅跳びの研究を始めた。この競技は、1メートル幅の踏み切りエリアまでの助走を活かして、どれだけ跳躍距離を伸ばせるかが勝負だ。
だが、黄斑変性症のため10代半ばに全盲になった高田は走り幅跳びを見たことがなく、具体的に競技をイメージできなかった。「とにかく、なるべく分かりやすい言葉で具体的に説明しました」と大森は言う。「それから実際に僕の体に触らせて、細かい動作を理解させながら、走り幅跳びの基礎から教えました」
高田には踏み切りエリアも、着地する砂場も見えない。着地を間違えたら大けがをする危険性がある。そのため、大森と高田は試行錯誤を繰り返し、スタートから15歩目でジャンプするスタイルを構築。コーラー役の大森が走る高田に「1・2・3…」と掛け声で知らせ、最もスピードに乗った15歩目で踏み切る技術を追求した。こうした練習が実り、走り幅跳びを始めて3年目でリオに出場、8位に入賞した。