高田千明・裕士:視覚障害、聴覚障害を補い合って目指す東京パラ、デフリンピック陸上の金
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いつも二人で
妻ははきはきとインタビューに答えながら、時折両手を素早く動かして夫に手話で語り掛ける。夫は妻の手話を媒介に質問に丁寧に答え、必要に応じて周囲の様子を妻に説明する。顔を見合わせて笑ったり、軽く言い合いをしたり、二人の仲の良い同級生のような様子を見ていると、心がほっこり和む。
「二人で半分こずつ」。先天性聴覚障害(ろう者)を持つ高田裕士(35歳)と視覚障害者の千明(35歳)夫妻は自分たちのことをそう表現する。夫は妻の目になり、妻は夫の耳の役目を担っているからだ。
だがこの夫婦、陸上競技で日本記録を持つ日本代表選手だ。千明は、初出場した2016年リオ大会の走り幅跳びT11クラス(全盲)で8位入賞。19年11月ドバイで開催された世界パラ陸上選手権では、リオの記録を24センチも上回る4メートル69を記録し4位に入賞。銅メダルまでわずか5センチ届かなかったが、東京パラ大会代表に内定した。100メートルの日本記録保持者でもある。一方、400メートルハードルで日本記録保持者の裕士は聴覚障害者の大会である「デフリンピック」3大会に出場。つまり、パラ・デフ陸上界のトップアスリート夫婦なのだ。
身体障害者のためのパラ大会には、聴覚障害者は参加しない。裕士が少し悔しそうに言う。
「パラリンピックの知名度はかなり高まりましたが、五輪・パラの翌年に開催される僕らろう者だけが出場するデフリンピックはあまり知られていません。イベントや講演などでもっと啓発活動をしていかないと…」
ここ数年、取材やイベントの要請は千明に集中しているが、「二人で半分こずつ」夫婦は、どこにでも一緒に出掛け、パラリンピックとデフリンピックそれぞれの魅力をアピールし続けている。
強力な助っ人
リオ大会以降、千明には大きな注目が集まる。パラ大会の花形競技・陸上で初出場にもかかわらず入賞、日本人選手がトラック種目で結果を残すのは厳しいこともあって、未完の大器に多くの人が期待を寄せた。そして、前述のドバイの世界選手権でリオを大きく上回る結果を出し、2大会連続出場を決めた。千明が言う。
「4位は悔しかったですけど、東京大会に向けいいモチベーションになりましたし、メダルが確実に見えてきましたから」
千明がリオ以降、一足飛びに飛距離を伸ばしているのは理由があった。全盲クラスの走り幅跳びには、手拍子と声で助走や踏切のタイミングを知らせる「コーラー」と呼ばれるガイドがいる。千明のガイドは、バルセロナとアトランタ五輪400メートルなどに出場した大森盛一(しげかず、47歳)。当初、大森の指導で100メートル、200メートルに出場していたが、そのスピードを買われ走り幅跳びにも挑戦。すぐに才能が開花した。だが、さらに飛躍するためには、走り幅跳びの専門家に教わった方がいい。そう考えた大森は日本記録保持者で2008年北京五輪日本代表の井村久美子(旧姓・池田)に指導を依頼。井村との出会いは千明を大きく前進させた。
「空中のフォームを一から直されました。でも、目が見えないので久美子さんの言っていることがすぐに理解できない。まだ少し見えていた子供時代に走り幅跳びの選手の姿を見ていたならイメージも湧きますが、走り幅跳びなんて見たことなかったですから。久美子さんも私にどう教えたらいいのか、かなり苦労されたと思います」
千明は、井村の言葉に耳を傾けつつ井村がやってみせる姿勢のフォームを手で触って理解した。踏切から着地までの動作をパラパラ漫画に例えるなら、数千枚以上になるはずだと言う。その1コマ1コマを、つま先から指先まで体に覚えさせる作業を繰り返すのだ。
「ドバイでの仕上がりはまだ3~4割でした。夏までには10割に近づけたい」
母の猛特訓とたまごボーロ
「二人で半分こ」夫婦はとても愉快で、つい話に引き込まれてしまう。裕士は耳が聞こえないのにきれいな日本語を話し、千明は目が見えないのに手話を使う。一般的にろう者は発音がうまくできず、全盲の人に手話の習得は難しい。だがこの夫婦は、こうした困難を完璧に乗り越えている。
「それは親の教育ですね」と裕士が言う。聴覚障害を持って生まれたが、幼児の頃は親も障害に気が付かなかったという。「でも2歳の時に、5歳上の姉が茶わんを割った音に僕だけ反応しなかったので、親がおかしいと思い病院に連れて行くと、聴覚障害で生涯治らないと言われたそうです」
以来、耳が聞こえなくても言葉を話すことができるように、裕士の母親は猛特訓を始めたという。口の形で「あ・い・う・え・お」の発音を覚えさせる訓練だ。
「僕自身には訓練の記憶がなく、後から母に聞いた話です。僕は声が聞こえないから、自分がどう発音しているのか分からない。でも正しく発音できると、母はご褒美に(お菓子の)たまごボーロを与えたそうです(笑)」
耳が聞こえなくても一人で生きていけるよう、両親は裕士を厳しく育てた。「耳が聞こえないことを言い訳にするな」と言われ、学校のテストは常に満点を求められた。
両親のおかげで不自由なく言葉を発することができるようになった裕士は、中学・高校と野球に夢中になり、一時プロ野球選手を目指したこともあった。だが、肩を痛め断念。一転、教員を志し、横浜国立大学に入学。入寮する裕士に母はこんなことを告げたという。「18年間、心を鬼にして育ててきたけど、もう何も言いません。自分の人生好きなように生きなさい」
この日を境に母は、燃え尽きたかのように穏やかになり、背中もすっかり丸くなってしまったと言って、裕士は苦笑する。
大学で陸上に転向。持ち前の足の速さと野球で鍛えた体で力を発揮し、4x400メートルリレー、400メートルハードルで頭角を現した。
どちらが先に金メダルを取るか
千明もまた、裕士と同じような家庭環境で育った。3人姉妹の長女として生まれ、5歳の時に、年を重ねるごとに網膜の中心部である黄斑に障害が進む黄斑変性と診断された。黄斑変性はいずれ全盲になる病気のため、両親はかすかに目が見えている間に多くのものを見せ、いろいろなものに触れさせながら、視覚以外の感覚で周囲の状況を把握できるように育てた。千明は両親に度々こんなことを言われたそうだ。「親は子より先に死ぬ。だから今から自分でできることは自分でやりなさい。できなかったら工夫してやりなさい」
自立心旺盛に育った千明は、中学から盲学校に入って面食らった。車で送り迎えされるなど他人の支援を当たり前に享受しているクラスメートが多かった。高校ではあらゆるスポーツに挑戦したが、社会人になると陸上を極めたいと考えるようになり、大森が主宰するアスリートクラブの門をたたいた。
裕士と千明が出会ったのは2006年の全国障害者スポーツ大会。互いの明るさに引かれて08年に結婚、同時に妊娠が判明した。だが、双方の両親は出産に大反対。もし、障害児が生まれた場合、二人には育てきれないという心配だった。だが、それぞれ障害があっても独り立ちできるよう厳しく育てられた二人は強固な意志を持ち、親の説得にも動じなかった。翌年、息子・諭樹(さとき)を出産。今やそれぞれの実家で、孫の取り合いになっているそうだ。
息子は保育園の卒園時に「医者になりたい」と宣言して、一瞬二人を不安にさせた。障害を持った両親に、息子が引け目を感じているのかもしれないと思ったからだ。ところが息子は、「大好きなパパに僕の声を、ママには僕の顔を見てほしいから」と屈託のない笑顔を見せた。
裕士と千明の目下の課題は、どちらが先に息子の首に金メダルを掛けてあげられるかだという。千明は今夏、走り幅跳びに出場、日本記録を持つ陸上100メートルでも代表に内定する可能性が高い。裕士は21年ブラジルで開催されるデフリンピック出場を目指し、400メートルハードルと4x400メートルリレーでメダルを狙う。千明が「幅跳びで5メートルを跳び金メダル」と言えば「僕のリレーの方が可能性は高い」と混ぜっ返し、結論の出ないほほえましい言い合いがしばらく続いた。どちらが勝つか、まず東京大会に千明が挑む。
(本文中敬称略)
バナー写真およびインタビュー写真撮影:花井智子