
パラリンピック7大会連続出場に挑む:車いすテニス・齋田悟司
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車いすを操る上腕筋は丸太のようにたくましく、長年の現役生活の苦闘を如実に物語っていた。車いすテニスプレーヤー・齋田悟司は1996年のアトランタパラリンピック以来、6大会に連続出場を誇る47歳の大ベテランだ。2020年東京大会の日本代表に決まれば7大会連続出場となり、車いす陸上選手だった永尾嘉章(よしふみ)氏に並ぶ、日本パラリンピック史上1位タイの出場記録を達成する。
パラスポーツの中でも、車いすテニスの注目度は特に高い。一般のテニスとほとんどルールが変わらないためなじみやすく、国枝慎吾、上地結衣という世界ランキングトップクラスの選手を日本は2人も輩出しているからだ。
その下地を作ったのは齋田と言ってもいい。今ほど環境が整っていなかったパラスポーツ界で懸命に努力を重ね、国枝と組んだ2004年アテネ大会のダブルスで金メダル、08年北京、16年リオのダブルスでそれぞれ銅メダルを獲得している。また、03年、07年の「車いす世界国別選手権」では日本を優勝に導き、03年には日本人選手としては初めて、国際テニス連盟が選出する「世界車いすテニスプレーヤー賞」を受賞した。
3年悩み、公務員を辞めて競技に専念
輝かしい戦績を重ねてきた齋田だが、競技生活のターニングポイントになったのは初出場したアトランタだったと振り返る。
「パラリンピックがどういうものかも分からないままの出場だったので、海外の選手の鬼気迫るストロークに気後れし、シングルス、ダブルスともに2回戦敗退でした」
特に、それまで何度か手合わせしていたデビッド・ホール(90年代から2000年代にかけて主要大会を数多く制したオーストラリアの選手)の変貌ぶりに驚かされた。2回戦の相手だったホールの勝利に対するヒリヒリするような執念に圧倒され、他の国際大会とパラリンピックはこんなにも違うのだと実感した。
このままではいけない。そう思ったものの、当時の齋田は大学を卒業してまだ2年目の公務員で、ラケットを握る時間はほとんどなかった。そんな齋田に二人の人物が手を差し伸べてくれた。一人は現在の練習拠点である「吉田記念テニス研修センター」(千葉県柏市)の吉田宗弘理事長。もう1人は千葉県にある車いすメーカー、オーエックスエンジニアリングの創業者で社長の故石井重行氏で、練習に専念できる「社員選手」としての採用を約束してくれた。
だが当時、パラアスリートが競技のみで生計を立てるシステムは確立されていなかった。もちろん現在でも、プロとして活躍するパラアスリートは少ないが、その頃はまだ、パラスポーツは障害者のリハビリかレクリエーションと考えられ、競技に専念するという発想は誰にもなかった。テニスがもっとうまくなりたい。でも、安定した公務員の職を辞すのもどうしたものか。齋田は毎日のように逡巡(しゅんじゅん)したという。
「そんな僕の背中を押してくれたのが、吉田記念テニス研修センターの理事長でした。『日本人で君のような身長186センチと恵まれた体を持つ選手はいない。君が道を開かなければ、その後誰もチャレンジできない』と…」
周囲は大反対したが、齋田は理事長の言葉に気持ちを固め、生まれ故郷の三重県からオーエックスエンジニアリングがある千葉県に移り住んだ。27歳になる1999年の春だった。
「もっと早くに決断していれば、2000年のシドニーでも結果を出せたかもしれませんが、3年間も悩んだことは無駄ではなかったと思います。後戻りはできないという覚悟ができましたから」
リオパラリンピック車いすテニス男子ダブルス3位決定戦。リターンショットを放つ齋田悟司(右)。左は国枝慎吾=2016年9月ブラジル・リオデジャネイロ(時事)