
パラリンピック7大会連続出場に挑む:車いすテニス・齋田悟司
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葛藤を繰り返した末の金メダル
千葉県への移住を決めた時、齋田は5年後のアテネ大会に向け入念な計画を立てた。だがこの間、心が折れそうになったことは何度もあるという。特に海外遠征には苦労した。車いすを操作しながら、競技用の車いす、5〜6本のラケット、着替え、食料品、米、炊飯器など大量の荷物を一人で運ばなければならず、ホテルや航空券も自ら手配。当時は今ほど英語を話せなかったため、行く先々で戸惑うことが多かった。
何よりもがっかりしたのは、コーチの指導の下で懸命に練習したにもかかわらず、海外の試合ではことごとく1回戦で敗退してしまうことだった。
「勝てない試合が続くとやっぱり落ち込みます。するとどうしても、車いすテニスを全うするために、千葉に来た決断は間違っていたのかという思いが頭をよぎる。その度に、一度決断したことは全うしようと自分を奮い立たせる。その繰り返しでした」
そんな葛藤を繰り返しつつも、齋田のテニスはらせん階段を上がるように徐々に、だが確実にレベルアップした。強みは国内最速と言われたサーブと、力強いフォアハンドだ。そして、ついにアテネで金メダルを獲得する。
安定した生活より競技人生を選んだ齋田の決断は、パラアスリートにとって大きな扉を開くことにもなった。競技で生計を立てることができると示したのだ。だが、自分がした選択を誰にでも勧められるとは思わないと言う。
「けがをするかもしれないし、スポンサーがいなくなる可能性もある。気軽に安定を捨てろとは言えません。それに、サラリーマンとして定年まで勤めあげて着実な人生を全うする人よりも、自分の方が頑張っているとか特別だなどとは思いません」
自分は自らが選んだ道を全うする。それだけだと言う。常に沈着冷静に次を見据え、揺るぎない向上心で鍛錬を続けてきた。「アテネ、北京、リオでメダルを取りましたけど、喜んだのは当日だけ。翌日からは次に向かって頭が切り替わっています」。
東京大会には「どうしても出場したい」
小学生の頃は野球少年だった。6年生の時、左足に激しい痛みを感じたが、練習中に捻挫やけがは度々負っていたこともあり、そのうち治るだろうと放っておいた。だが、痛みは引かない。大学病院での精密検査の結果、骨肉種で左足の切断を宣告された。思春期の入り口に差し掛かった少年には、受け入れがたい現実だった。
「切断しなければ命が危ないと言われたんです。でも、左足がなくなった現実をなかなか受け入れられず、『今、自分は悪い夢を見ている』と思い込もうとしていました。でも、朝起きると左足がない。毎日その繰り返しで、事実を受け入れるのに1年以上かかりました」
笑顔が消えた息子を心配した両親が、車いすバスケットチームを見つけ、連れ出して参加させた。やってみると野球で味わったスポーツの楽しさがよみがえった。14歳の時、チームメイト全員で車いすテニスの講習を受けたところ、多くの仲間が車いすテニスに転向。齋田はバスケをやり続けたかったが、メンバーが足りなくなり仕方なくテニスを始めた。
「でもやってみると、ボールがラケットに当たる爽快感やラリーの楽しさにはまりました。選手として活躍したい気持ちはさらさらなかったのですが、大学生の時に日本代表に初選出されました」
それ以来、20年以上も車いすテニス界だけでなくパラスポーツ界をけん引し続けている。また、齋田の感性や英知がつぎ込まれた競技用車いすが開発・生産され、多くの選手を支えている。
「2020年東京大会にはどうしても出場したい。これまで支援してくださった多くの方々に、東京で恩返しをしたいです」
日本人選手の出場枠は男女とも4人。20年6月の時点での世界ランキングの日本人上位選手が選ばれる。その4人でダブルスも組む。齋田のランキングは19年末現在で5位。微妙な位置だ。だが、齋田の信条は「自分で決めたことは最後までやりきる」。これまでもその揺るぎない信条で6回のパラリンピック連続出場を果たし、数々の大会で実績を残してきた。東京大会でもその勇姿が必ずや見られるはずだ。
(本文中敬称略)
バナー写真:千葉県柏市「吉田記念テニス研修センター」で。
撮影:花井 智子