
亡き弟に誓った東京大会出場への強い思い=パラ卓球・土井健太郎
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いたずらっぽい表情を浮かべて、立て板に水のごとくインタビューに答える。困難を乗り越えてきた強靱(きょうじん)な精神と、大学時代に数学を専攻したほどのロジカルな思考が紡ぎ出す言葉は、聞き手を捉えて離さない。
「僕はただのひねくれ者なんですよ」
自分の性格をそう称して笑ってみせるのは、車いす卓球(クラス5)の土井健太郎(23歳)だ。2019年8月にバンコクで開催されたタイオープンではシングルスで銅メダル、団体で金メダルを獲得した。今後一層の活躍が期待される日本パラ卓球界のホープである。先天性の「骨形成不全」という難病を抱える土井は、車いすに腰掛けた身長が133センチ、体重34キロとかなり小柄だ。
肢体不自由者卓球(パラ卓球)は、障害の度合いによって1〜10に分かれ、1〜5までは車いす、6〜10は立位。数字が少ないほど障害は重い。ルールは健常者とほぼ変わらず、卓球台の高さもラケットも同じだ。車いすでは最も障害が軽いとされるクラス5には、上半身にがっしりと筋肉が付き、パワーやスピードで圧倒的に勝る外国の強豪選手が顔をそろえる。小柄できゃしゃな印象の土井がそんな相手と互角に戦えるのは、ボールの回転を工夫し、コーナーぎりぎりに攻めたり、相手の懐を深く突くなど、ボールコントロールの技術が優れているからだ。
双子の弟の遺骨を肌身離さず
「以前の僕は、努力するタイプではなかった。要領がいいというか…。でも、コツコツ地道に努力するタイプだった康太郎が19歳で亡くなってからは、僕も弟のタイプに変わったかな」。そう言いつつ、土井は首元のペンダントを大事そうに握った。「このペンダントには弟の遺骨が入っているんです。いつも一緒。片時も離したことがありません」
1996年に静岡県富士宮市で双子の兄として生まれた。弟の康太郎と共に先天性の「骨形成不全」だった。骨がもろく折れやすいため、歩くことができない。幼児の頃はおむつを替えただけでも骨折した。土井が明るく笑いながら言う。「高校までに30回以上は体のどこかを骨折していると思います。だから、いつもギプスをはめているような状態です」
弟も同じだった。そのため両親は、常に骨折で痛がる双子の泣き声を聞いていた。ある時、大腿(だいたい)骨を折り、病院で腰から足のつま先までギプスをはめられ、親に抱きかかえられて家の玄関に入ろうとした瞬間、足先がドアに触れてしまい、また違う箇所を骨折。玄関先から再び病院に戻ったこともある。
中学2年の時にはスマッシュを決めようとして、試合中に肩甲骨を折った。「僕と弟はほとんどかわりばんこに骨折していたから、父と母は本当に大変だったと思います。骨折って結構痛いんですよ。子どもの頃は四六時中、どちらかが泣いていたんじゃないかな」
二人で東京大会決勝を目指す
物心ついた時から車いすの生活だった。小学校6年生の時、母に連れられ地元の卓球クラブに入った。車いす卓球にそれほど興味はなかったが、ピンポン球を使って大好きな野球のまねをするのが楽しかった。
中学に入学すると兄弟は卓球部に入る。これが、人生の「第1のターニングポイント」だと言う。「部の顧問が熱心だったのと、名古屋に住む障害者卓球の師匠に出会えたことが大きかった。この二人から教わった技をすぐに弟との打ち合いで試したので、上達が早かった。それが楽しくて、卓球にすっかりはまってしまいました」
だが、要領よく練習をこなす兄と、コツコツ努力を積み重ねる弟の実力差が、高校3年の時にあらわになる。康太郎が一足先に日本代表に選ばれ、国際大会に出場。土井は悔しさを飲み込み、「まあ、康太郎は努力していたから当然でしょ」とうそぶいていた。
そんな土井がそれまでの練習姿勢を改め、真剣に取り組むきっかけになったのが2013年、パラリンピック東京開催が決まったことだった。「弟と『東京の決勝は二人で争いたいね』と、どちらからともなく言葉が出ました。それが僕の人生で第2のターニングポイントですね。何となくうまくなりたいと思って取り組んでいた卓球に、パラリンピックで優勝を競いたいという明確な目標ができたんです。だからこれからは、必死で取り組もうと…」
明確な目標はモチベーションを上げる。東海大学の理学部数学科に入って間もなく、弟と同じ車いすクラス5で日本代表に選抜された。康太郎は同じ大学の情報数理学科。受ける授業は違ったが、早く家に帰った方が夕飯の支度をし、二人で練習に没頭。互いの苦手なプレイを補い合いながら腕を磨き続けた。