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欠端瑛子:「回転投げ」を極めてゴールボールの頂点を目指す

スポーツ 社会 東京2020

視覚障害の選手たちが鈴の入った音の鳴るボールを投げ合い、得点を競うゴールボール。女子代表はロンドン大会で金メダルを獲得するも、リオでは5位。攻撃の柱となるエース、欠端瑛子選手に東京大会に向けた課題を聞いた。

欠端 瑛子 KAKEHATA Eiko

1993年生まれ。横浜市出身。先天性白皮症による弱視で16歳からゴールボールを始める。競技を始めて2年で日本代表になり、2012年ロンドン・パラリンピックで金メダルを獲得。当時ポジションはセンターだったが、その後はレフトが多く、攻撃力に磨きをかけている。父はプロ野球・元横浜ベイスターズの投手、欠端光則(現横浜DeNAのスカウト)。

「スポーツ嫌い」から一転

横浜市生まれで、兄が2人の3人兄妹。生まれてすぐ先天性白皮症と診断された。

「私は生まれた時からメラニン色素がなく、視力は0.05ほど。視界がぼやけています。太陽光線はとてもつらい。それでも子供の頃は、父と兄たちがキャッチボールをするのについて行き、一人でバットを振ったり、ローラーブレードで走ったりしていました」

だが、小学校に入学するとスポーツが嫌いになった。友人らはドッジボールやサッカーなどに興じているものの、自分はボールが見えないため仲間に入れなかったからだ。

小・中学は普通校に通ったが、高校は盲学校を選んだ。将来を見据え、針灸などの専門知識を身に付けようと考えていた。そこでゴールボールのチームに入っていた友人に誘われたのがきっかけで、この競技を始めた。「まさか私がスポーツをするなんて考えもしませんでした。でも、目が見えなくても楽しめるスポーツがあるんだと夢中になった」

ゴールボールは欠端の世界を広げた。18歳でロンドン大会に出場できただけでなく、「視覚障害者=鍼灸(しんきゅう)師」というそれまでの固定概念を払しょくしたのだ。弱視でも打ち込めるスポーツがあるという発見から、大学でも自分が関心のある「モノ作り」に打ち込みたいと横浜美術大学に入学した。

「家族には本当に感謝しています。両親は私が興味を持ったことは何でもやらせてくれたし、そのための環境も整えてくれた。美大に行きたいと言った時も支援してくれました。ただ、本当は木工デザインをしたかったんですけど、電動ノコギリは危ないと諭され、テキスタイルデザインの方に進みました」

有名投手だった父親は「説明下手」

子供の頃から、視覚を補うために日常生活で聴覚や嗅覚を研ぎ澄ませてきた。そのため、他の人が聞こえない音や気配を感知し、驚かれることがしばしばあると言う。「玄関のチャイムが鳴る前にお客さんが来るのは分かるし、家の周辺では街のにおいをかぎ分けながら、一人でスタスタ歩けます」

そんな能力がゴールボール選手として大きく羽ばたかせることになった。フォークボールが得意だった父親の指導も一因ではと聞くと、これはきっぱり否定。 

「父が有名投手だったことを知ったのはずっと後。父が現役で活躍していた頃、私はまだ生まれていなかったし、母もあまり野球に興味がなくて、父の選手時代ことは聞いたことがありませんでした。一度父に投げ方について聞いたことがあるんですけど、説明が下手で言っている意味が分からなかったので『もういい』って(笑)」

2020年への意気込みを問うと、表情を引き締め、力を込めて断言した。

「絶対に金メダル。それしか頭にありません」

残り1年で「回転投げ」に磨きをかけると胸を張る。鋭さを増したボールは無音のままライバル国の守備陣を蹴散らし、勝利への道を一気に突き進むはずだ。

(敬称略)

重さ1.25キロのボールで相手の守備の隙をつきゴールを決める。投球の精度を高めることが、欠端選手にとっての一番の課題だと言う
重さ1.25キロのボールで相手の守備の隙をつきゴールを決める。投球の精度を高めることが、欠端選手にとっての一番の課題だと言う

インタビュー撮影:花井 智子

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