欠端瑛子:「回転投げ」を極めてゴールボールの頂点を目指す
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世界の強豪国に通用する技を
少しハイトーンの声でコロコロと笑い、ふわりとしたワンピース姿から柔らかな雰囲気を醸し出す。だが、ひとたびコートに立てば鋭いボールを相手に放ち、容赦なく守備陣を打ち破る。この二面性を併せ持つのが、視覚障害者競技ゴールボールの日本代表エース・欠端瑛子選手の魅力だ。
2018年10月、2020年パラリンピックの前哨戦と目されたアジアパラ競技大会で、ゴールボール日本代表女子はリオ大会2位の中国を5-3で破り、金メダルを獲得した。日本が挙げた5点のうち3点は欠端選手が奪ったもの。得意技の「回転投げ」で中国の守備陣を翻弄(ほんろう)した。
だが、勝利を手放しで喜ぶわけにはいかないと口元を引き締める。
「私の技はまだまだ世界の強豪国に通用するとは思っていません。投球の精度を上げ、コントロールをもっと磨きたい」
欠端選手が表情を曇らせるのは、19年5月~6月に行われたトレーニング合宿を兼ねたトルコ、スウェーデンでの遠征試合で、納得できるような結果が出せなかったからだ。トルコ大会では2位、スウェーデン大会ではロシアやブラジルに敗れ4位。日本代表は現在、1年後のパラリンピックの代表選考を兼ね、メンバーを固定せずに戦っている。一種の練習試合だが、勝負に負けることがこの上なく悔しいらしい。ほんわかした表情の下に隠し持った負けず嫌いな心根は、かつて“シロクマ君”の愛称で知られ、プロ野球の横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNA)で活躍した父・欠端光則投手の血を継いでいるのかもしれない。
守備力だけでは勝てない
ゴールボール女子日本代表は、2012年ロンドン・パラリンピックで日本団体競技初の金メダルを獲得した。サブとして出場した欠端は、歴史的な快挙を素直に喜べなかった。「ゴールボールを本格的に始めてまだ2年しかたっていなかったので、チームの勝利に貢献できたとは思えない。それが歯がゆかったし、パラリンピックの雰囲気にも慣れず、何が何だか分からないまま表彰台で国旗掲揚を見ていました」
ゴールボールは障害者スポーツ独自の競技だ。バレーボールと同じ広さ(長さ18メートル、幅9メートル)のコートで、アイシェードと呼ばれるゴーグルをした2チーム各3名の選手たちが中に鈴が入ったボールを投げ、ゴールマウス(=ゴール前面の区域)に入ったボールの数を競い合う。鈴の音が全ての情報源で、攻守の判断基準になる。仲間同志の密なコミュニケーションも必要だ。
アイシェードを装着するのは、視覚からの情報を完ぺきに遮断し障害の程度を公平にするため。選手は味方同士の声やボールに入っている鈴の音、コート上のラインの下に張られたタコ糸の凹凸などを頼りにプレーする。守備陣はコートに横たわり、相手の投球技術によって横一直線、あるいは三角形の隊形を作る。一方、攻撃する側は投球する際、自軍で1回、自軍と敵陣の間にある「ニュートラルエリア」で1回、計2回のバウンドをさせるのがルール。
日本の身上は守備力。ロンドンで中国を1-0で破り金メダルを手にできたのは、鉄壁な守りが相手に得点を許さなかったからだ。だが、4年後のリオではトルコや米国など、強豪国の攻撃力が日本の守備を上回った。スピードを増したグラウンダー(=床を転がすボール)が日本人選手の守りの隙間を抜け、力強いバウンドが頭を越えてゴールに吸い込まれていく。日本は5位に沈んだ。
「トルコのセブダ・アルトノロク選手のボールは破壊力がすごかったし、ブラジルの選手たちは、助走し回転しながら後ろ向きになり、自分の股下から投げるという奇抜なスローイングで攻めてきました。私たちの対応は後手に回ってしまったんです」
リオでの屈辱は、日本代表に戦術の大きな変化をもたらした。それまでは3選手がコート横にほぼ一直線で並んで横たわり長い壁を作る「一文字」の守備を得意としてきた。今はウイングが少し下がってセンターの守備をカバーする「三角形ディフェンス」を併用し、相手の攻撃方法によって変幻自在に変えている。また、攻撃面ではグラウンダーに磨きをかけるだけでなく、欠端選手が得意とする「回転投げ」の練習にも取り組んでいる。
「回転投げは、体を素早く一回転させることでボールに遠心力が加わり、ボールの中にある鈴の音が抑えられるんです。ゴールボールは鈴の音を頼りに相手は守備に就くので、その音をできるだけなくすことで、相手の守備をかく乱させます」
欠端の代名詞ともいえる「回転投げ」だが、まだ完ぺきにマスターしたわけではないと首をすくめる。
「ミスすることがしばしば。もっと精度を高めたいと思うし、ゴールマウスの隅を突くようなコントロール力も身に付けたい。重要な試合で実力を発揮できるようにメンタルも強化しなくては」
「スポーツ嫌い」から一転
横浜市生まれで、兄が2人の3人兄妹。生まれてすぐ先天性白皮症と診断された。
「私は生まれた時からメラニン色素がなく、視力は0.05ほど。視界がぼやけています。太陽光線はとてもつらい。それでも子供の頃は、父と兄たちがキャッチボールをするのについて行き、一人でバットを振ったり、ローラーブレードで走ったりしていました」
だが、小学校に入学するとスポーツが嫌いになった。友人らはドッジボールやサッカーなどに興じているものの、自分はボールが見えないため仲間に入れなかったからだ。
小・中学は普通校に通ったが、高校は盲学校を選んだ。将来を見据え、針灸などの専門知識を身に付けようと考えていた。そこでゴールボールのチームに入っていた友人に誘われたのがきっかけで、この競技を始めた。「まさか私がスポーツをするなんて考えもしませんでした。でも、目が見えなくても楽しめるスポーツがあるんだと夢中になった」
ゴールボールは欠端の世界を広げた。18歳でロンドン大会に出場できただけでなく、「視覚障害者=鍼灸(しんきゅう)師」というそれまでの固定概念を払しょくしたのだ。弱視でも打ち込めるスポーツがあるという発見から、大学でも自分が関心のある「モノ作り」に打ち込みたいと横浜美術大学に入学した。
「家族には本当に感謝しています。両親は私が興味を持ったことは何でもやらせてくれたし、そのための環境も整えてくれた。美大に行きたいと言った時も支援してくれました。ただ、本当は木工デザインをしたかったんですけど、電動ノコギリは危ないと諭され、テキスタイルデザインの方に進みました」
有名投手だった父親は「説明下手」
子供の頃から、視覚を補うために日常生活で聴覚や嗅覚を研ぎ澄ませてきた。そのため、他の人が聞こえない音や気配を感知し、驚かれることがしばしばあると言う。「玄関のチャイムが鳴る前にお客さんが来るのは分かるし、家の周辺では街のにおいをかぎ分けながら、一人でスタスタ歩けます」
そんな能力がゴールボール選手として大きく羽ばたかせることになった。フォークボールが得意だった父親の指導も一因ではと聞くと、これはきっぱり否定。
「父が有名投手だったことを知ったのはずっと後。父が現役で活躍していた頃、私はまだ生まれていなかったし、母もあまり野球に興味がなくて、父の選手時代ことは聞いたことがありませんでした。一度父に投げ方について聞いたことがあるんですけど、説明が下手で言っている意味が分からなかったので『もういい』って(笑)」
2020年への意気込みを問うと、表情を引き締め、力を込めて断言した。
「絶対に金メダル。それしか頭にありません」
残り1年で「回転投げ」に磨きをかけると胸を張る。鋭さを増したボールは無音のままライバル国の守備陣を蹴散らし、勝利への道を一気に突き進むはずだ。
(敬称略)
インタビュー撮影:花井 智子