安部公房:混迷の時代にこそ読まれるべき前衛作家
文化 歴史 美術・アート- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
代表作『砂の女』が世界で30以上の言語に翻訳された安部公房は、1993年に死去した際には「ノーベル文学賞に最も近い作家だった」と言われた。死後も国際的な注目を集め、21世紀に入ってから、ドイツ、イタリア、韓国、米国、ベネズエラ、中国、カナダの研究者によって13冊の研究書が出版された。生誕100年の2024年には、文庫本が3冊と写真集が1冊、研究書や特集雑誌が出版された。シネマヴェーラ渋谷で彼が関わった映画の上映シリーズがあり、1973年発表の『箱男』を石井岳龍監督が映画化、評判を呼んだ。神奈川近代文学館では「安部公房展 21世紀文学の基軸」と題した特別展を開催中(12月8日まで)だ。国や時代を越境して読み継がれる人気の秘密は何なのか、探ってみたい。
メディアの越境者
安部公房の人生は、20世紀のメディア革命と共に始まった。1924年3月7日に東京で生まれた安部は、生後8カ月で家族と満州に渡り、父が医師として勤務する奉天(現・瀋陽)で幼少期を過ごした。その年、東京と満洲の大連で始まったラジオ放送は、安部が9歳になると奉天でも聞けるようになった。
40年に単身で東京に戻り成城高等学校(現・成城学園高等学校)に入り、43年、東京帝国大学医学部に入学。48年に同大を卒業したが、医師の道を選ばずこの頃から本格的な創作活動に入った。小説家としてデビューした後、ラジオドラマや新劇の戯曲も手がけるようになる。53年からテレビ放送が始まるや、58年にはテレビドラマのシナリオも執筆し、62年にはテレビドラマの演出や出演もこなすようになった。
その間、安部は新しいテクノロジーを積極的に作品に取り入れた。1950年に発売されたテープレコーダーをいち早くラジオドラマに採用し、出版物の付録として流行したソノ・シートに触発されてキノ・シートという映像ディスクのアイデアも語っている。1973年の演劇集団「安部公房スタジオ」の旗揚げ後、自宅にシンセサイザーを導入し、76年から舞台音楽に使用した。78年に東芝が史上初のワープロを発売してからわずか4年後の82年にはワープロで小説を書くようになった。
また、日本にマイカー・ブームが到来する5年ほど前の60年から多くの自動車を購入し日本全国をドライブした。85年にはジャッキを使わずに着脱が可能なタイヤチェーン「チェニジー」を発明し、西武百貨店で販売した。安部は常に新しいテクノロジーを取り入れるだけでなく、自らも発明したのである。
「消しゴム」で書く作家
安部公房は日本近代文学の主流であった私小説を書かなかった。デビュー作の『終(おわ)りし道の標(しる)べに』(1948年)は難解な哲学的小説で、満州で亡くなった親友の記憶が濃厚に反映されたフィクションであった。その後ガラリとスタイルを変え、名前をなくした男や、繭(まゆ)に変身した男の話などを平易に語る短編集『壁』(1951年)で芥川賞を受賞した。満州から日本を目指す少年たちの冒険を描く長編小説『けものたちは故郷をめざす』(1957年)では、出身地を架空の地名「巴哈林(バハリン)」にして、生まれ故郷などフィクションにすぎないという認識を示した。
浜辺の村に昆虫採集に行った男が、女が一人で暮らす砂穴の家に閉じこめられる『砂の女』(1962年)はベストセラーとなり、1964年の勅使河原宏監督による映画はカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。67年にはフランスで最優秀外国文学賞も受賞している。作家の身辺の出来事を書く私小説とは対極にある、SF的な想像力とリアルな描写の両立が安部文学の特徴である。前衛文学として評価されたことが、世界各国で翻訳されたことの理由の一つとも言えるだろう。
『終りし道の標べに』の新版を1965年に出した頃から、安部はさらに徹底して自らの“生”の軌跡を消去するようになった。初版にあった「亡き友金山時夫に」という個人に宛てた献辞を「亡き友に」と改め、故郷の友を殺しつづけるための記念碑を建てると宣言した。青春期を過ごした満州の記憶を消去したのだ。初期作品集『夢の逃亡』(1968年)に収めた短編には、もともと、聖書や実存主義哲学のモチーフがあり、二人称の「君」への呼びかけも多用されていたのだが、安部はそうした要素を消し去って出版した。「後記」では、作家としての出発が戦後だったことを幸運だったと述べ、「青春がいずれ虚像だとすれば、廃墟(はいきょ)の青春ぐらい、青春にふさわしい条件はないのだから」と結んでいる。安部は虚像としての青春の痕跡を「消しゴム」で消して書き換えることで、本当の虚像にしていったのだ。
現代にも通じる都市へのまなざし
ここで冒頭の問いに戻り、安部文学の国や時代を超えた普遍性、特にその現代性について考えてみたい。石井岳龍監督の映画『箱男』は、その問題へのアプローチを見せてくれている。映画の冒頭では、1973年に生まれた箱男を「新人類のサナギ」と表現し、そこから新しいタイプの人間が生まれ出たことを示す。それは、人に見られずに見る者、つまり、都市に増殖した監視カメラのような存在であり、インターネットにアクセスする匿名の人々でもある。フィルムカメラにこだわり、群馬県高崎市などでロケーション撮影したレトロな風景も背景に使いながら、石井監督は『箱男』を現代的な映像作品として再生した。映画のオープニングでは、安部が撮ったホームレスなどのスナップショットも使われている。石井は安部の写真作品も含めて、箱男のまなざしを現代に復活させたと言えるであろう。
新人写真作家の登竜門である木村伊兵衛賞の選考委員を務め、写真に強い関心を持っていた安部が撮影・現像したモノクローム写真は、新宿、渋谷、ニューヨークなどの都市の片隅に生きるホームレスや冷蔵庫やアーケードゲームなどが転がったゴミ捨て場などを撮影したもので、いずれもアマチュアのレベルを超えるクオリティーの高い作品だ。これらの写真は2024年に出版された『安部公房写真集』で確認することができる。
ナショナリズムや人種主義への嫌悪
南満州鉄道が開発した日本人街と旧来の中国人街が分かれていた満州の奉天での幼少期から、中国人街やその外の荒野の探検を好んだという安部は、生涯、周縁へのまなざしや、異民族への関心を持ち続けた。
エッセー「内なる辺境」(1968年)で、安部はフランツ・カフカをはじめとするユダヤ系作家への共感を表明している。彼はいわゆる反ユダヤ主義について、「本物の国民」に対する「偽の国民」、正統に対する異端のシンボルが「ユダヤ人」だとする。「正統概念の輪郭をより明瞭に浮かび上がらせるための、意識的な人工照明として、ユダヤという異端概念が持ち出されてきたらしい」と安部は考察する。一方、当時は建国からわずか20年だったイスラエルにおいても、すでに「本物」のイスラエル人という概念が形成され、遅れて帰化したユダヤ人を「偽物」扱いする傾向が出てきたことも安部は問題視する。こうした問題提起は、現在のイスラエルにもそのまま当てはまるものだろうし、ロシアとウクライナの関係、日本における在日朝鮮・韓国人問題にも共通する点があるだろう。
小説『他人の顔』(1964年)においても、安部は仮面という偽のアイデンティティーを手に入れた主人公が当時日本人客の少なかった朝鮮料理屋へ足を踏み入れるという「冒険」を描いた。自宅で気を紛らわすためにつけたテレビのニュースで、ニューヨーク・ハーレムでの「黒人暴動」を伝える場面が飛び込んでくる場面もある。ニューヨーク市立大学教授のリチャード・カリチマンは『他人の顔』の中で差別問題に触れた箇所に言及して、「共同体の形成にはその陰画としてのマイノリティーが創造されることが必要だ」と述べている。そして安部がこの作品で在日の韓国人や朝鮮人や米国での黒人を扱ったことを、ナショナリズムと人種主義の共謀に対する攻撃であったと論じている。ブラック・ライブズ・マター運動や現在も繰り返される日本での人種差別につながる問題意識を安部は半世紀以上も前から抱いていたと言えよう。
安部公房はメディア革命の20世紀を生き、1993年1月22日に没した。インターネット時代の到来を目にすることはなかったが、万華鏡のような作品群は極めて予言的・普遍的だ。混迷の時代にこそ読まれるべき前衛作家と言えるだろう。
バナー画像:アンリ・カルティエ=ブレッソンが撮影した安部公房のポートレートを基に作成(Henri Cartier-Bresson/Magnum Photos/アフロ)