森鷗外:領域を横断する巨大な知性 医学者、官僚でもあった近代文学の先駆者
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『舞姫(まいひめ)』『山椒大夫(さんしょうだゆう)』『高瀬舟(たかせぶね)』などの作品で知られる明治・大正の文豪、森鷗外。2022年は鷗外の没後100年にあたる。文学者であると同時に医学者、軍医、官僚でもあった鷗外はどのような生涯を送ったのだろうか。
和・漢・洋にわたる学問を修め、複数の言語を習得
1862(文久2)年、森鷗外、本名・森林太郎(もり・りんたろう)は、津和野(現・島根県津和野町)藩の典医の家に生まれた。鷗外も医者になることを期待され、早くから英才教育を受けた。まず儒学。満5歳から師に就き、7歳で藩校・養老館(ようろうかん)に入学して四書五経を学んだ。さらに洋学。蘭医学を修めた父・静男(しずお)から最初の手ほどきを受け、オランダ語の学習を始めた。
1872(明治5)年、鷗外は10歳で父とともに上京する。続いて家族全員が津和野から東京に移住。医者の学ぶ洋学の主流がオランダ医学からドイツ医学に替わっていたため、鷗外は私立学校でドイツ語を学び、11歳で第一大学区医学校に入学した。同校は翌年に東京医学校と改称、1877年に東京大学医学部となる。東大での医学教育はドイツ人教授によってドイツ語で行われたが、鷗外は同時に大学の外で漢学者に師事して漢詩文を学び、中国古典医書を読み、さらに国学者に就いて和歌を学んだ。このように少年期から青年期の鷗外は和・漢・洋にわたる学問を修め、複数の言語を習得したのである。
日欧を相対化するまなざし
1881(明治14)年、大学卒業を前にした鷗外は留学を熱望していた。だが、火事で講義ノートを焼失するなど不運が重なり、卒業試験の成績が振るわず、文部省(現・文部科学省)派遣の国費留学生に選ばれることができなかった。進路に悩んだ末、鷗外は陸軍の軍医となり、陸軍から派遣されて留学する道を選ぶ。19歳で軍医となり、1884年、22歳で念願かなってドイツに留学することになった。
4年間の留学中、鷗外は本務である衛生学研究、衛生制度調査の傍ら、ドイツ語の文学書や哲学書を精力的に読み、劇場や美術館に通ってヨーロッパの芸術・文化を貪欲に吸収していく。1888年に大量の洋書を携えて日本に帰国した後も、ドイツから継続的に新刊書や新聞・雑誌を取り寄せ、欧州文化の最新動向を注視し続ける。留学を通して鷗外は、日本とヨーロッパの双方に軸足を据え、双方を相対化して見ることのできる「二本足の学者」(鷗外『鼎軒(ていけん)先生』)の視座を身に付けた。このことが後の創作や社会活動において大いに生かされることになる。
帰国後、鷗外は軍医として勤務しつつ文壇デビューを果たす。訳詩集『於母影(おもかげ)』(共訳、1889年)、小説『舞姫』(1890年)をはじめとして創作や翻訳を次々と発表。また、1889年に自ら創刊した雑誌『しがらみ草紙(ぞうし)』で評論に筆をふるい、ドイツ文学・美学の知識を武器に数々の文学論争を戦った。こうした戦闘的な啓蒙(けいもう)活動を通して、鷗外は黎明(れいめい)期の日本近代文学を牽引(けんいん)していく。
鷗外の翻訳も日本の文学界に新しい風を吹き込んだ。中でもゲーテの詩「ミニヨンの歌」(『於母影』収)、アンデルセン『即興(そっきょう)詩人』、ゲーテ『ファウスト』などの日本語訳が後続の詩人や作家に大きな影響を与えた。
初期の代表作『舞姫』は、ドイツに派遣された日本のエリート官僚、太田豊太郎(おおた・とよたろう)が主人公である。ベルリンでの生活を通じて自由な個人という意識に目覚めた豊太郎は、貧しい踊り子エリスと恋に落ちる。だが、エリスとの愛の生活と、帰国して立身出世する未来とが両立しない状況に追い込まれ、苦悩したあげく、妊娠したエリスを捨てて帰国する。異文化の遭遇と葛藤を描いたこの小説は、漢文訓読体に雅文体と欧文翻訳体を融合させた、和・漢・洋のハイブリッド文体で書かれている。
鷗外はまた、帰国の翌年に雑誌『衛生新誌』『医事新論』を創刊し、日本に近代医学発展の土壌を作るべく、医学の領域でも戦闘的な啓蒙活動を展開していく。1897年には小池正直(こいけ・まさなお)と共著で『衛生新篇(しんぺん)』を刊行した。これは日本人によって書かれた最初の衛生学の教科書である。
医務局長の激務の中で次々に作品を発表
軍医としての鷗外はリーダーとなるべき官途を歩んだ。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904~05年)に軍医部長として従軍し、1899~1902年に第十二師団軍医部長となって北九州の小倉(こくら)に赴任した。しかし鷗外は小倉への赴任命令を左遷と解釈し、不満だった。軍医と文学者の二足のわらじをはく自分を上層部が冷眼視していると考え、小倉在任中は文壇活動を控えた。代わりに地元のフランス人神父に就いてフランス語をマスターし、禅僧と交際して禅や唯識(ゆいしき)思想を学んだ。知識を蓄え、処世の心構えを養う時期だった。
1902年、40歳の鷗外は第一師団軍医部長となって東京に帰任する。そして1907年、45歳の年に陸軍軍医のトップである陸軍軍医総監、陸軍省医務局長の地位に就いた。上司の思惑を気にする必要がなくなった鷗外は、激務の中で次々に作品を発表する。主人公の性的経験の回想、性をめぐる自己省察を描いて当局から発売禁止処分を受けた『ヰタ・セクスアリス』(1909年)。大逆事件を機に強化された、学問と文学に対する政府の言論統制を批判した『沈黙の塔』(1910年)。この時期の鷗外は、当時の社会に対して鋭い文明批評を込めた多くの現代小説を書いた。
1912(明治45・大正元)年、明治天皇が崩御し、大正の世になった。この移行期に、著名な軍人である乃木希典(のぎ・まれすけ)が明治天皇に殉死して世間を驚かせた。鷗外もこの事件に衝撃を受け、江戸初期に殉死した実在の武士に取材した小説『興津弥五右衛門(おきつ・やごえもん)の遺書』(1912年)を書く。これをきっかけに鷗外は歴史資料に基づいた歴史小説を書き始め、『最後の一句』(1915年)、『高瀬舟』(1916年)など、今日の国語の教科書に掲載される作品を残した。
1916年、鷗外は54歳で陸軍を退職。この前後から歴史探求の志向がいっそう強まり、江戸時代後期に生きた考証学者の生涯と業績を調査して、評伝を書き始めた。『渋江抽斎(しぶえ・ちゅうさい)』(1916年)、『北条霞亭(ほうじょう・かてい)』(1917~20年)などの評伝は、実証的な歴史研究と文学とを融合させた、これまでの小説の既成概念を打ち破る新しいスタイルの作品だった。抽斎や霞亭は学者であり、医者であり、公に仕える官吏であり、文学・芸術にも携わった。つまり鷗外は自身の生き方のルーツに当たる人々について書いたのである。
1917年、鷗外は55歳で宮内省の官僚となり、帝室博物館総長と図書頭(ずしょのかみ)を兼任した。宮内省高官としての鷗外は、近く予想される次の天皇代替わりに備え、歴史研究に心血を注いだ。新たな元号や諡号(しごう=おくり名)は、学問的に洗い上げたデータを踏まえて制定されねばならない、というのが鷗外の信念だった。歴代天皇の諡号の出典を調査し解説した『帝謚考(ていしこう)』(1921年)を完成させた後、元号の出典の考証『元号考(げんごうこう)』に着手したが、健康状態の悪化により未完に終わる。1922(大正11)年7月9日、鷗外は萎縮腎と結核のため60歳で死去した。
ジャンルを横断する知の巨人が家庭では子煩悩な父親
森鷗外は領域を横断する巨大な知性だった。和・漢・洋の学を修め、専門の医学に加えて美学、歴史研究など幅広い領域の学問に携わり、軍医また官僚としても活躍した。文学の領域では小説、評論、戯曲、詩、短歌、俳句、漢詩とあらゆるジャンルを手がけ、先進的、問題提起的な著作を数多く残した。
家庭人としてはどうだったか。家庭での鷗外は、子供たちに惜しみない愛情を注ぐ子煩悩な父親だった。最初の妻・登志子(としこ)、再婚した妻・志げ(しげ)との間に生まれた4人の子供たちは、鷗外の死後、全員が文筆家になり、それぞれが父から受けた愛情の思い出、父に対する深い愛を文章につづった。長女で小説家の森茉莉(もり・まり)が書いた『父の帽子』(1957年)、次女で随筆家の小堀杏奴(こぼり・あんぬ)による『晩年の父』(1936年)などからは、子供たちから「パッパ」と呼ばれたパパ鷗外の風貌が生き生きと浮かび上がってくる。
バナー写真=森鷗外の肖像写真。1912年撮影(文京区立森鷗外記念館蔵)