湯川秀樹:核廃絶に向けて行動したノーベル賞物理学者
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物理学者の湯川秀樹は、1907年に東京で生まれた。地理学者・地質学者だった父は翌年京都大学教授に迎えられ、一家は京都に移った。秀樹は小学校に入る前から、『論語』など中国の四書五経の素読を祖父に習った。素読とは、意味の説明はせず、声に出して繰り返し読ませる漢文学習法である。その一方で、母が子供たちのために買ってくれた雑誌を自由に読んで、おのずと読書好きになった。
父は趣味が広い読書家であり、家中に書物があった。中学時代に父の書斎で『荘子』に出会い、生涯心酔した。西洋の歴史書にも夢中になり、外国小説の翻訳も手あたり次第に読んだ。その一方で幾何学にも熱中した。観察力や記憶力より、論理的思考力に富んだ少年だった。
高等学校では理科に入学した。図書館で最初熱心に読んだのは哲学書だったが、その中で哲学者・田辺元(たなべ・はじめ)の『科学概論』や『最近の自然科学』と出会い、物理学への関心を高めていく。
指導者のいない中で苦闘を続け、「中間子論」の道を開く
物理学の世界では、発生するときの光のエネルギーについて、連続する任意の値を取ることができず、とびとびの値しか取れないという不連続性が1900年に初めて発見された。05年には光が波の性質だけでなく粒子の性質も持つことが確認され、A.アインシュタインによる相対性理論も登場した。19世紀までの物理学の根底を覆す激動が始まった時代だった。さらに25年から27年にかけて量子力学が完成した。
24年、高等学校2年生だった湯川は洋書店でF.ライヘの『量子論』を見つけて、「これまでに読んだどの小説よりも面白かった」というほどの衝撃を受けた。26年に京都大学の物理学科に入った湯川は、迷うことなく理論物理学の門をたたき、新しい物理学の輸入書を次々に購入し量子論を学んでいく。
29年に京大を卒業し、研究者への道を歩み始めた湯川は、二つの大きな研究テーマを追究しようと考えた。一つは、量子力学と相対性理論を踏まえた新しい理論を発展させること。もう一つは、原子の中心にある小さな原子核の謎だらけの性質を量子力学で解明することだった。どちらも世界中で取り組まれていた難問だった。湯川は、この二つのテーマと生涯取り組むことになる。
卒業してからは、指導者のいない中での苦闘が続いた。5年後の34年、「原子核を構成する陽子と中性子は、『中間子』と呼ばれる粒子をやりとりすることによって生まれる力(核力)で結びついている」という「中間子論」に到達した。日本数学物理学会で講演し、この学会の機関誌に英文の論文を投稿し、翌年に掲載された。
2年後の37年、米国と日本の宇宙線実験で湯川が予言した質量をもつ粒子が発見され、湯川は世界中で注目の的となった。湯川理論を発展させる研究が始まり、日本だけでなく、英国をはじめ多くの国でしのぎを削り合うことになった。
ところが、それまでに湯川理論の粒子と宇宙線粒子の性質が矛盾することが明らかになってきた。しかし42年には、湯川の粒子が崩壊してできるのが宇宙線粒子だという理論が湯川グループの谷川安孝と坂田昌一によって発表された。そして47年になって、英国のC.パウエルらが宇宙線中に湯川粒子を確認し、崩壊して宇宙線粒子になることを発見。その翌年には米国の加速器実験でも人工の湯川粒子が確認された。湯川の唱えた「中間子論」の正しさが観測と実験の双方で認められ、生まれて初めて書いた論文で、49年に日本人として初めてのノーベル賞を受賞した。50年にはパウエルもノーベル賞を受賞することになった。
湯川の人生を変えた原爆投下と水爆実験
米英などとの戦争が始まった1941年から、京大教授だった湯川は基礎科学の研究を続けていてよいのか迷うことが何度もあった。その度に、最も能力を発揮できる分野で貢献することが大切であり、応用技術と共に基礎研究も必要だと結論した。ところが43年に政府は、「科学研究は、戦争遂行が唯一絶対の目標だ」と決定し、研究者の計画的動員を開始した。ここで湯川は軍事研究に参加しなければならないと考えたが、貢献できるテーマがなかなか見つからなかった。最終的に、同僚の荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)が海軍から委託されたウランの原子エネルギー利用の研究開発に、研究室の仲間数名と共に参加した。しかし、日本では原料のウランを産出せず、敗戦前に研究は中止されて、湯川らが具体的に軍部に貢献する機会はなかった。
湯川は45年8月6日に広島に投下された原子爆弾について、被爆の詳しい被害状況を現地の調査から帰った荒勝から13日に聞いた。敗戦発表の2日前だった。それ以来、発言・執筆の依頼を一切断って「反省と沈思の日々」を送り、10月になって週刊誌に「静かに思う」を寄稿した。これが戦後の湯川の出発に当たっての反省に基づく決意だった。この中で湯川は、「国家の目的と手段が正当化されるには、それが人類全体の福祉の増進に背馳(はいち)しないことが必要だ」と確信し、「個人・家族・社会・国家・世界の系列の中から国家だけを取り出し、これに絶対の権威を与えたことが過ちだった」と結論した。
戦後、米国は原爆の独占を続け、核実験を繰り返した。ソ連も49年に原爆を保有。これに対して米国はさらに強力な水素爆弾の開発を開始、ソ連も後を追って熾烈(しれつ)な開発競争が繰り広げられることになった。54年3月1日に南太平洋のビキニ環礁で米国が行った水爆実験は、事前に設定されていた危険水域の外にいた多くの漁船や周辺島民に多大な被害を与えた。この事件は、第五福竜丸の全乗組員の放射線障害と、放射線に汚染されたマグロが市場で大量に破棄されたことによって、日本だけでなく全世界の知るところとなった。9月には漁船員の一人が亡くなっている。
湯川は、ビキニ事件に際し、「原子力と人類の転機」を新聞に寄稿。「原子力の脅威から自己を守るという目的は、他のどの目的より上位に置かれるべきではなかろうか」と説いた。
核兵器廃絶を目指して世界の科学者と連帯
ビキニ事件当時、湯川は47歳で京大基礎物理学研究所長だった。専門の研究と教育の他に多くの仕事を抱えていたが、核兵器の廃絶を求めて熱心に講演・執筆を開始した。“思索の人”が“行動の人”に変わったのだった。
英国の哲学者・数学者であるB.ラッセルも、ビキニ事件から衝撃を受け、アインシュタインに相談して、湯川を含む11人の科学者による「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に発表した。この中で、「私たちは、将来起こり得るいかなる世界戦争においても核兵器は必ず使用されるであろうという事実、そして、そのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実に鑑み、世界の諸政府に対し、世界戦争によっては自分たちの目的を遂げることはできないと認識し、それを公に認めることを強く要請する。また、それゆえに私たちは、世界の諸政府に対し、あらゆる紛争問題の解決のために平和的な手段を見いだすことを強く要請する」と述べた。そして科学者はこのような問題を討議する会議を開き、世界の科学者と一般の人々に呼びかけるべきだと訴えた。
この宣言が提案した科学者の会議が、カナダの漁村パグウォッシュで57年に開催された。激しく対立する冷戦構造の中で、米ソを含む各国の著名な科学者が個人の資格で集まり、ほとんどの議題について見解の一致に達した。湯川も出席したこの会議は、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」として今日も続いている。湯川はこの会議が健全に発展するよう発言を続け、日本国内でも、ラッセル・アインシュタイン宣言に賛同する科学者の会「科学者京都会議」を、朝永振一郎らと62年に立ち上げた。
こうした動きと並行して55年に、世界連邦主義者の下中弥三郎の呼びかけによって、湯川ら7人の識者は無党派の「世界平和アピール7人委員会」を結成し、まず10周年を迎えた国連の根本的な改革強化を呼びかけた。湯川は、世界の国々が独立を保ちながら地球規模の問題を扱う一つの政府を持つべきだという世界連邦の思想に共鳴し、61年の世界連邦世界協会の世界大会で会長に選出され、4年間熱心に会長を務めた。
75年には、日本で初めてのパグウォッシュ・シンポジウム「完全核軍縮への新構想」を京都で開催し、大病の後だったにもかかわらず、核抑止論が平和をもたらさないことを論証した「核抑止を超えて:湯川朝永宣言」を発表。81年には、科学者京都会議において、核廃絶と新しい世界秩序を求めた。しかしその10日後に病床で書いた文章「平和への願い」が最後の呼びかけとなり、3カ月後に永眠。冷戦終結の8年前だった。
バナー写真=湯川秀樹(1965年撮影=時事)