一休宗純:アニメのイメージを覆す風狂僧
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一休宗純(1394~1481)は、臨済宗大徳寺派の禅僧である。一休さんと言った方が、通りがよいだろうか。「屏風(びょうぶ)の虎」「このはしわたるべからず」などの頓知話で知られ、日本においておそらく最も有名な僧侶の一人であろう。さまざまな難問を頓知で乗り切る一休の活躍は、江戸時代から「一休はなし」として流布し、親しまれてきた。
現在50歳前後の日本人の中には、1975年10月から82年6月まで放映された東映動画(現・東映アニメーション)制作のテレビアニメ「一休さん」を見て育った者が多い。全296話が放映されたが、お寺で小僧修行をしている一休さんが頓知をひねり出す時に指で頭をなでて座禅を組む仕草、ぽくぽくという木魚を叩くような効果音、ひらめいた時のチーンという仏具の鈴(りん)のような効果音などアニメ独自の演出が見られた。頓知を駆使して将軍でさえも圧倒し、縦横無尽の大活躍をする一方で、別れた母上を恋しがる小坊主一休さんの姿は印象的であった。
このアニメは幾度も再放送され、世代を超えて一休ファンを増やしていった。中国大陸でも放映され、瞬く間に中国の子どもたちの心を捉えた。テレビから流れる日本語のアニメソングを覚えようと必死に練習した子どもたちも多かったと聞く。タイやイランなどでも人気が高いという。このアニメ作品が、現在の一休像に与えた影響は極めて大きい。
悟りを開いた僧に与えられる証書を拒否
こうして日中の子どもの心を捉えた一休さんであるが、その歴史的な実像はテレビアニメとは大きく異なっている。享年88。15世紀にあっては驚異的な長い生涯を送った人物である。その全てを振り返ることはとてもできないが、いくつかのエピソードを紹介しながら、一休宗純の実像を探っていこう。
南北朝の内乱が終わって間もない1394年正月元日。南朝の一族を母に京の民家で一人の男児が誕生した。その男児は時の帝(みかど)である後小松天皇の皇胤(こういん)で、千菊丸(せんぎくまる)と名付けられた。後の一休である。南北朝統一を成し遂げた足利義満は北朝を重視していた。南朝系の女性が母である一休は、政治的に利用されることを懸念され、わずか6歳で母の下から引き離された。そして禅寺である安国寺(あんこくじ)で小坊主となり、世俗を離れた生活を送ることになる。テレビアニメの舞台になったのは、この時期のことである。
その後、修行を積み、巧みな漢詩文を詠むなど優れた才能を発揮する。しかしながら、家柄を自慢し合う僧たちの会話に憤り、耳をおおってその場を立つなど潔癖なまでの生真面目さがあった。17歳で西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおう・そうい)に弟子入り。謙翁からは、宗純の名を与えられた。清貧を貫く在野の禅を修めるにつれて、その真摯(しんし)な姿勢は一層厳しさを増していった。
21歳で謙翁と死別した一休は目標を見失い琵琶湖に身を投げ、自死しようとする。それを母の使者に止められた一休は、近江堅田・祥瑞庵(しょうずいあん)の華叟宗曇(かそう・そうどん)に入門する。華叟からは一休の名を与えられている。修行中の一休は琵琶湖を渡る爽やかな風の中で、暁の鴉(からす)の声を聞いた時、ついに悟りを開くことができた。
悟りを開いた後も修行を怠ることはなかった。悟りを開いた僧に与えられる印可と呼ばれる証書も拒否した。師匠の華叟が腰を痛めて病床にあった時も、用便の世話を他の弟子は竹べらを用いたが、一休は師匠の汚れを嫌うことはないと素手で行った。風変わりな男であるが、華叟も自らの法を嗣(つ)ぐ者として認めていた。敬愛する華叟の没後は堅田を離れ、各地を巡遊するようになる。
朱色の大太刀を携えて堺の町に
他の地域が天災や戦乱などで社会不安を極める中、国内外の貿易で繁栄し、当時最先端の文物が海外から入ってくる堺の町は、一休のお気に入りだったようで幾度も立ち寄っている。一休は、長い上に人目を引く朱色の太刀を携えて、にぎわう堺の町中を闊歩(かっぽ)した。禅僧がそのようなものを持って町に出ることはまったく不釣り合いで、正気を疑われる行為である。当然、町の人々はその行為の真意を問う。一休は「これは木剣であり、人を斬ることができない。世に横行する僧侶も私が携える木剣と同じで、見かけ倒しであり、ここぞというとき、何の役にも立たない代物である」と答える。一休の肖像を描く時に傍らに朱太刀を配するのは、この逸話による。当時の僧を風刺すると共に、その矛先は世の僧侶をありがたがる町の人々へも向いている。「あなた方は、私の奇態と全く同じ奇妙なことをされているのだ」と。
国内第一の経済的繁栄を誇った堺には、華叟門下の兄弟子・養叟宗頤(ようそう・そうい)が布教に入っていた。養叟は華叟の印可ブランドの下、それまで教化の対象から漏れていた商人たちへの布教を積極的に行っていた。彼らは身分も低く、教養もなかったが、経済力があった。彼らに教えを広めるためには、教化の水準を落とさざるを得ない。真面目な一休にとって、それは許せないことであった。兄弟子であっても、斬れない偽の刀であった。高い学識と真摯な禅への姿勢。それに相反するかのような奇矯な行動は、堺の人々に魅力的であった。しかも後小松天皇の皇胤である。多くの豪商が彼の下に集まった。その他にも弟子の中に遣明(けんみん)船に乗り込んだ者や、明国人の通訳の父と日本人の母の間に生まれて通訳となった者などがいたことが最近の研究で明らかになっている。
権威や名声を嫌った反骨の生涯
一休の怒りは、禅僧たちが悟りの証しとして渇望する印可状へと向かう。一休にとって印可状は、無用なだけでなく有害なものであった。また、47歳で本山である大徳寺の如意庵(にょいあん)の住持に就任したときも、「型にはまった偉い和尚さまの仕事は気に入らん」とさっさと出て行ってしまう。反骨と奇矯を絵に描いたような行動であった。
名誉を嫌い、さっさと退去した大徳寺であったが、応仁文明の乱の戦火で焼失した際には、自らが尊敬する禅僧たちのゆかりの寺院であるということで、85歳の高齢をおして全力で復興を支援した。大徳寺復興には、一休を尊敬した堺の貿易商人たちも数多く協力している。
一休の周りには多くの弟子や信者が集まったが、一人として印可を与えなかった。一休の法は一代限り。まさに断法の思想である。日本の臨済禅は、南宋の禅僧である虚堂智愚(きどう・ちぐ、1185~1269)から始まる。その流れは虚堂から5人の禅僧を経て、一休へと続く。一休の法は虚堂の教えを正統的に継承しており、いわば日本の禅の本流に位置するものであった。一休が亡くなる前の1478年、一休派は四散の危機にひんする。弟子たちは師匠に対し、後継者指名を迫る。後継者の器は数名いるが、指名したくないと渋る一休を弟子たちはさらに追い詰める。とうとう一休は没倫紹等(もつりん・じょうとう)の名を口に出してしまう。弟子たちは喜んで没倫の下に押しかける。ところが没倫は、師匠がそう言ったとしても、それは病気で頭が変になったか、年をとって耄碌(もうろく)したかどちらかだ。長年の言動を見ておいて、ばかなことを言うなと怒って席を立ってしまう。
では、今に伝わる一休の法は1481年に遷化した後、どのように後世に伝達されたのであろうか。弟子たちは、京田辺の一休が眠る祖師塔に1年に1回集まって、大事なことを合議で決する「結衆」の仕組みをつくりあげた。ブッダの示寂(じじゃく)後、仏弟子たちが結衆を繰り返して原始仏教教団を形成し、ブッダの法を後世に伝えたことを彷彿(ほうふつ)とさせる。後継者を指名しないという難題を弟子たちが合議で決めるという「頓知」で解いたことで、一休の法は印可によって嗣がれることも、その死によって断法されることもなく、現代に伝えられたのであった。
バナー写真=一休宗純頂相(酬恩庵蔵)