ニッポン偉人伝

伊能忠敬:隠居後に前人未到の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成

歴史 文化

伊能忠敬は江戸時代に蝦夷(えぞ)地から九州まで17年かけて測量し、日本全図の完成に向けて指揮をとった。全国測量は隠居後の55歳から始まり71歳まで続けられたが、地図の完成を見ることなく73歳でその生涯を閉じた。

商才を発揮し莫大(ばくだい)な資産を形成

伊能忠敬(1745~1818)は、日本の歴史上初めて科学的な測量を全国にわたって組織的・統一的に行い、日本全土の地図を作成した人物である。

「伊能大図(3万6000分の1) 第100号富士山の図」。全国を214枚で覆っている。伊能家が明治政府に提出した「大日本沿海輿地(よち)全図」の控図を明治初期に内務省が模写した図(国立国会図書館蔵)
「伊能大図(3万6000分の1) 第100号富士山の図」。全国を214枚で覆っている。伊能家が明治政府に提出した「大日本沿海輿地(よち)全図」の控図を明治初期に内務省が模写した図(国立国会図書館蔵)

忠敬は、当時の日本の首都であった江戸から70キロメートル弱離れた太平洋に面した九十九里浜(現・千葉県九十九里町小関)で、網元として代々名主などを務める小関家に生まれた。父は近村の同じような階層の家から婿入りした人で、忠敬が6歳の時に母が亡くなると離縁され、実家の神保家に戻った。忠敬は小関家に残されたが、10歳の時に神保家に引き取られる。幼少から勉学を好み、星の観測や算術などを師匠について勉強したと言われている。17歳の時、近郷で物資の集散地として繁栄していた佐原村(現・同県香取市)の伊能家に婿入りする。伊能家は佐原で一、二を争う商家であり、酒造、薪炭、金融などを取り扱う豪商であった。彼は伊能家において商才を発揮し、49歳で隠居した時には、家産が3万両(換算法によるが、現在の価値で30〜60億円)に達していたと言われている。

家業に精を出した忠敬であったが、学問についてもその情熱を失わず、家業の合間には天文学の勉強などを行っていた。佐原村の名主として村政にも携わり、飢饉(ききん)の時には救恤米(きゅうじゅつまい)を出すなど、村政における貢献に対して領主から苗字(みょうじ)帯刀を許されている。その当時作った利根川の地図が残されており、後の地図作成事業を彷彿(ほうふつ)とさせ、治水・利水にも関わっていたことを示している。

隠居後に蝦夷地測量を開始

忠敬は49歳の時に息子に家督を譲って隠居し、江戸に出て深川に隠宅を構えた。幕府天文方(現在の国立天文台長に相当)高橋至時(よしとき)の門弟となり、天文学を本格的に学んだ。至時は当時日本の天文学の第一人者であり、西洋の天文学にも精通し、改暦を行った人でもある。忠敬は隠宅に本格的な天文観測施設を整備し、至時から学ぶとともに、恒星の高度角の観測など、天文観測に明け暮れた。

本格的に天文学を学ぶうちに、地球の大きさを知りたいと思うようになり、子午線1度の長さを求めるため、隠宅と天文方役所(暦局という)の間の距離と方位角を「導線法」(トラバース測量)により測量した。これは、路線を設け、その出発点から見通しのきく次の点までの距離と方位角を測り、終点に達するまで繰り返す測量法である。これにより得られた隠宅と暦局の間の距離を、子午線1度の長さに換算して師の至時に報告したところ、そのような短距離では誤差が大き過ぎて論外だと一蹴され、少なくとも蝦夷地(北海道)まで赴いて江戸との距離を測る必要があると言われた。そこで、忠敬が志願して始まったのが第1次の蝦夷地測量である。

当時の幕藩体制のもとでは、幕府の許可がないと蝦夷地まで行くことはできない。蝦夷地にはロシアなどの外国船が出没するようになり、幕府は危機感を抱いていた。そこで地図を作り蝦夷地の地形を明らかにするという名目で至時が幕府中枢に許可を求め、測量が許可されることになった。忠敬には1日銀7匁(もんめ)5分(1万円程度)が支給され、いわば幕府の補助事業であったと言える。残りの経費は、忠敬が負担した。 

1800年に行われた蝦夷地測量終了後、幕府に地図を提出し、これが評価された。さらに測量の継続が認められ、翌年には、第2次測量として東北地方東海岸の測量が行われた。それまでの測量により、子午線1度の長さが求められ、28.2里(110.75km)を得た。当時最先端の天文書「ラランデ暦書」における数値とほぼ一致したため、師弟ともに手を取り合って喜んだという話が伝わっている。

17年を費やして全国測量を完了

さらに、1802年の第3次測量(東北地方日本海沿岸)、03年の第4次測量(中央部太平洋沿岸~日本海沿岸)と東日本の測量を行い、東日本の地図を完成。江戸城の大広間に広げ、将軍徳川家斉も検閲した。その結果、高い評価を受け、西日本の測量も行うよう幕府からの命があり、忠敬は幕臣に取り立てられた。第5次以降の測量は幕府の直轄事業となり、経費もすべて幕府から支給されるようになった。忠敬は、西日本の測量は3年で終了すると考えていた。しかし西日本の海岸線は複雑であり、かつまた、それまで忠敬の門弟を中心とした測量隊に幕府天文方の下役(測量技術を持つ技術官僚)が加わり、測量隊統率の苦労も重なって、結局10年の歳月を要した。05年から06年の第5次測量(近畿および中国地方)、08年から09年の第6次測量(四国地方)、09年から11年の第7次測量(九州地方)、11年から14年の第8次測量(九州地方)を終え、さらに15年の第9次測量(伊豆七島、忠敬は高齢のため不参加)および16年の第10次測量(江戸市中)を行い、17年を費やして全国測量を完了した。

「御手洗測量之図」。1806年、伊能忠敬一行が大崎下島の港町・御手洗(広島県呉市)を測量している風景を描いた図(画像提供:呉市)
「御手洗測量之図」。1806年、伊能忠敬一行が大崎下島の港町・御手洗(広島県呉市)を測量している風景を描いた図(画像提供:呉市)

「官板実測日本地図 畿内 東海 東山 北陸」。樺太を含め全国を4枚で覆っている。「大日本沿海輿地全図」の小図をもとに、幕末に江戸幕府が編集・刊行した図 。1870年に開成学校が発行(国土地理院蔵)
「官板実測日本地図 畿内 東海 東山 北陸」。樺太を含め全国を4枚で覆っている。「大日本沿海輿地全図」の小図をもとに、幕末に江戸幕府が編集・刊行した図 。1870年に開成学校が発行(国土地理院蔵)

忠敬の測量手法は、前述した「導線法」という手法で、山や島などの方位角を各地から観測してその位置を求める「交会法」も用いた。伊能測量の特筆すべき点は、経緯度を決めるため、天文観測を行ったことである。緯度を決めるため恒星の高度角を測り、高精度で求めることができた。経度については、日蝕(にっしょく)、月蝕などの開始と終了の時間などを「垂揺球儀(すいようきゅうぎ)」という振り子時計を用いて測り、各地のデータを比較することにより求めようとした。しかし携帯できる時計がなかったため、各地のデータを同期させることができず、また天候条件にも恵まれず、成功しなかった。従って、伊能図の経度方向の精度は高くない。

忠敬は瘧(おこり、マラリア)と喘息(ぜんそく)の持病を持っており、全国測量の最中にも発症して療養に努めたこともあった。また、幕府の直轄事業となる以前は、地元役人との折衝などにも苦労した。直轄事業となってからは、各藩の対応も極めて円滑となり、各藩の多大な協力を得ることができた。忠敬の全国測量は、高橋至時および天文方を継いだ息子の景保(かげやす)、幕府の支援と各藩の協力などがなければ成功しなかったと言ってよい。

死後に「大日本沿海輿地(よち)全図」が完成

1814年、第8次測量終了後に住居を移転し「地図御用所」とし、そこで地図作りを精力的に行ったが、地図の完成を見ることなく、忠敬は18年に死去した。その後、門弟や天文方下役により地図作成は継続され、21年に完成し、大図(縮尺3万6000分1)、中図(縮尺21万6000分1)、小図(縮尺43万2000分1)から成る「大日本沿海輿地全図」が幕府に提出された。

「伊能中図(21万6000分1) 関東の図」。全国を8枚で覆っている。伊能家が明治政府に提出した「大日本沿海輿地(よち)全図」の控図を明治初期に陸軍参謀局が模写した図(国土地理院蔵)
「伊能中図(21万6000分1) 関東の図」。全国を8枚で覆っている。伊能家が明治政府に提出した「大日本沿海輿地(よち)全図」の控図を明治初期に陸軍参謀局が模写した図(国土地理院蔵)

「大日本沿海輿地全図」は幕府の書庫に秘蔵され、公開されることはなかったが、明治以降には、さまざまな用途に利用された。「大日本沿海輿地全図」正本は、皇居の火事により明治初頭に焼失してしまったが、伊能家から政府に提出された控図を内務省、陸軍、海軍が模写して地形図、海図など国家の地図作成に利用した。控図も関東大震災により焼失したが、大名などに進呈された副本などが現在も残され、そのうちいくつかは国宝や重要文化財に指定されている。

伊能忠敬は、「人生二山の人」として、現代の高齢化社会において模範的人物として尊敬されている。彼は測量という仕事に必要な根気と実直さ、合理性を備えた人物であり、測量隊を率いる能力も優れていた。その反面、曲がったことが嫌いで厳しい面も持っていたようで、実の娘や息子を勘当し、弟子を破門することもあった。

1883年には、明治の元勲・佐野常民や榎本武揚らの働きかけによって正四位(しょうしい)の贈位が行われた。佐野常民は佐賀藩士時代に長崎の伝習所で伊能図を用い感銘を受けた経験があり、榎本武揚の父・箱田良助は忠敬の弟子で伊能測量隊に加わった人である。

近年では、2001年に「伊能測量200年」、2018年に「忠敬没後200年」を記念して講演会、伊能図の展覧会、顕彰碑・銅像の建立、伊能測量の足跡を歩くウォーキングイベント、忠敬をテーマにした演劇や映画の上演・上映などさまざまな事業が行われた。

バナー写真=伊能忠敬肖像画(伊能忠敬記念館蔵)

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