親子兄弟が東西に分かれた大名家、そして三成の最期:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(下)
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お家の存亡を懸けた戦い
慶長5年(1600)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは、わずか数時間で徳川家康(東軍)の勝利となった。ただ、当初から家康が勝つと決まっていたわけではない。だから各大名にとっては、東西いずれに味方するかは、お家の存亡を懸けた一大事であった。
ゆえに、どの家中でも多かれ少なかれ、真剣な話し合いがもたれたはず。負けるほうにつけば、取り返しがつかないことになる。このため、己の信じるところを譲らず、一族や家臣が対立・分裂する事態が頻発した。
有名な逸話としては、真田一族の「犬伏の別れ」がある。
信州上田城主・真田昌幸は家康の会津征伐に従軍していたが、下野国犬伏(栃木県佐野市)で石田三成の密書を受け取り勧誘を受けると、長男の信幸(信之)と次男の信繁(幸村)と話し合った。
昌幸は、三成とは同じ宇田頼忠の娘を妻とする義兄弟であり、信繁は三成に加担した大谷吉継の娘を妻としていた。一方、信幸の妻は家康の養女・小松姫(本多忠勝の娘)だった。このため昌幸と信繁は西軍に、信幸は東軍につくことに決め、どちらが負けても真田家を残す道を選んだと思われる。
なお、東軍に味方して本領は安堵されたものの、家の存続のためか、怪しい動きをした大名もいる。たとえば加賀の前田家である。
関ヶ原の合戦前に前田利家が亡くなると、跡継ぎの利長は、家康の威光を恐れて母の芳春院(まつ)を江戸に人質に差し出した。関ヶ原合戦でも最初から徳川(東軍)への加担を表明している。
しかし、利長の弟で能登七尾城主(22万5000石)・利政は、東軍から西軍に寝返ったのである。当初、利政は兄に従い山口正弘(西軍)の大聖寺城を攻撃していたが、利長が家康から美濃出兵を命じられると、同行せずに帰国してしまう。
三成の密書を受け取り寝返ったとか、妻が大坂で西軍の人質になったので東軍に加担できなかったなど諸説あるが、おそらく西軍勝利の場合に備えて、最悪でも能登前田家(分家)は残るよう、前田一族で話し合って別行動をとった可能性がある。
案の定、戦後利政は改易されたが、利長の懸命な謝罪で死一等を減ぜられ、京都で余生を送った。また、利政の領地はすべて兄の利長に与えられたので、前田一族としては領地は減らなかった。さらに利長は利政の子・直之に1万1000石を与え、以後、この家は前田土佐守家として代々前田本家を支えていくことになった。
志摩国を本拠とする九鬼水軍で有名な九鬼氏は、父の嘉隆が西軍に加担して鳥羽城にこもった。これを知った子の守隆は、家康の許しを得て鳥羽城を包囲。父子で東西に分かれて争う状況になった。ただ、真剣に戦った形跡はなく、だらだらと日を送り、関ヶ原の戦いが家康の勝利に終わると嘉隆は城から行方をくらまし、やがて切腹して果てた。
一方、守隆は関ヶ原合戦前から積極的に西軍方の周辺諸将を攻撃し、家康の心証を良くした。結果、嘉隆が潔く責任をとったことや守隆の戦功が考慮され、論功行賞で九鬼氏は2万石を加増され5万5000石の大名となったのである。
最後まで志を失わなかった三成
さて、関ヶ原の戦いで西軍が崩れると、大将の石田三成は伊吹山方面に逃亡し、やがて家臣と別れて単独で動いた。だが結局、徹底的な残党狩りによって友人でもあった田中吉政に捕縛されてしまい、家康のいる大津へ連行された。
後世の編纂資料だが、江戸中期の『常山紀談』によると、三成の監視役であった本多正純が「年若く分別がつかない秀頼様を導いて太平の世をつくるべきなのに、由なき戦などを起こしたから、あなたはこんな恥辱を受けることになったのだ」となじったところ、三成は「徳川殿を滅ぼすことがよかれと考えて戦を起こしたが、裏切り者たちによって勝つべき戦いに負けてしまった。運も尽きれば源義経さえも殺されてしまうもの。私が敗れたのは天命であろう」と悪びれずに答えたという。
正純は「智将は人情を測り、時勢を知るという。が、あなたは武将たちが同心しないのも知らずに、軽々しく戦を起こし、しかも敗れたあと自害もせずに捕縛された。いったいどういうことか」と述べた。
これを聞いた三成は怒り、「おまえは武略というものを全く知らない。腹を切って他人に殺されないようにするのは、葉武者(はむしゃ=取るに足らない武者)の所業である。石橋山の戦いで敗れた頼朝も、木のうろに隠れていた。そんな頼朝の気持ちなどおまえは想像すらできぬはず。大将の道を語っても、おまえには理解できない。もう話すことはない」と言うと、以後は二度と言葉を発しなかったという。
ただ、家康と対面した際、「こうしたことは昔からあるのだから、決して恥じる必要はない」とねぎらいの言葉をかけられ、機嫌を直した三成は「天運のしからしむところ。早く首を落とせ」と語った。これを聞いた家康は「大将としての器量である」とたたえたとされる。
なお、三成は本陣の門外にさらされたが、合戦中に味方へ攻めかかった西軍の小早川秀秋は、興味本意でそれを見に行ったという。すると三成は秀秋に向かい、「約束を違えて義を捨て、人を欺いて裏切ったことは武将の恥辱、末の世まで語り伝えて笑うべきだ」とののしったので、秀秋は返す言葉もなく、すごすごと去って行ったと伝えられる。
三成はその後、同じく捕虜となった安国寺恵瓊、小西行長と共に大坂や堺を引き回され、9月29日、京都所司代の奥平信昌に預けられた。そして10月1日、肩輿に乗せられて京都市中を引き回されたが、三成の顔色は平生と変わるところがなかったという。
いよいよ、六条河原に引き出された三成は刑場に向かう道すがら、喉が渇いたのか警備の者に湯を所望した。男が「ここに干し柿がある。これを食べよ」と伝えたところ、三成は「これは痰(たん)の毒である」と断った。これを聞いた警備の者は「これから首を切られる人間が何を言う」と大笑いした。
すると三成は、「おまえのような者には道理かもしれないが、大義を思う者はたとえ首をはねられる瞬間まで命を大切にして本意を遂げようと考えるものなのだ」と言ったのである。
これが史実なら、驚くべき精神力の持ち主といえるが、後世の編纂資料に載る話なので、事実とは思われない。享年41。三成の首は三条大橋にさらされたが、その後、大徳寺の高僧・春屋宗園が引き取りを願い、許可された。受け取りには、のちに高僧として知られる沢庵が出向き、大徳寺三玄院に埋葬されたと伝えられる。
外様大名の処遇に腐心した家康
西軍に加担した大名のうち、処刑されたのはこの三成と、小西行長、安国寺恵瓊ぐらいだった。自刃を含めても10名程度に過ぎない。とはいえ、事前に寝返りを約束していなかった藩は、原則、お家取り潰しか大幅な減封となった。
改易された数は、なんと88家。減封で済んだものの、西軍の総大将である毛利輝元は8カ国をわずか2カ国に減らされ、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減らされてしまった。家康が敵将から取り上げた石高は、630万石(総石高の3分の1)に上った。
また、関ヶ原の戦いに参戦しなかったが、日和見的な態度をとった常陸の佐竹義宣に対しては、秋田への転封が命じられた。結果、佐竹氏の石高は3分の1に減ってしまった。
徳川家は戦後、約250万石から400万石へと領地を拡大。豊臣家が握っていた都市や鉱山も手に入れた。ただ、これで家康が天下を掌握できたわけではなかった。実際、征夷大将軍となって江戸に幕府を開くまで2年半を要しているのがその証拠だ。
それは、前回述べたように、徳川秀忠率いる徳川主力軍が関ヶ原合戦に間に合わず、結果として豊臣恩顧の外様大名が軍功を独り占めにしたためだ。
仕方なく家康は、福島正則、黒田長政、山内一豊、小早川秀秋、最上義光といった自分に味方した外様たちの領地を倍増せざるを得なかった。
例えば、藤堂高虎は伊予板島8万石から伊予今治22万950石、掛川城主の山内一豊は5万石から土佐一国(20万石)の国持(くにもち)大名に。福島正則は、尾張国29万石から芸備二国49万8000石へと大加増を受けた。豊前国中津18万石の黒田長政は、一気に筑前一国52万石に加増されている。
しかし家康はこの加増を機に、外様大名たちの多くを九州や四国など西国の遠地に配置し、徳川の拠点である関東、大坂や京都といった重要都市から遠ざけている。政権の安泰を図ろうとしたのだろう。また、西国には譜代の小藩や幕領(天領)を配置したり、豊臣秀頼の押さえとして娘婿の池田輝政を姫路に配置した。
関ヶ原で南宮山の敵と対峙していた池田輝政は本戦での出番はなかったが、論功行賞で三河国吉田15万2000石から播磨一国52万1000石へと一挙に領地は3倍以上に加増された。輝政の弟・長吉も6万石を与えられ、鳥取城主となった。
池田家は徳川の親族ということもあり、輝政の次男忠継(家康の孫)にも備前一国(28万石)が与えられ、のちに三男忠雄にも淡路国6万3000石が付与された。忠継も忠雄もまだ幼年だったため、実質的には三国は輝政の支配するところとなった。
ちなみに関ヶ原合戦に遅参した秀忠に対し、腹を立てた家康はしばらく会わなかったが、重臣会議を開いて後継者に再選定したという逸話は、近年、事実ではないといわれている。確かにそんなことをしたら秀忠の面目は丸つぶれであろう。
以上、関ヶ原の戦いについて3回にわたって述べてきた。よく言われているように、まさしく天下分け目の合戦であったわけだが、多くの大名たちは少なくても数カ月間は戦いが続くと思っていたようだ。まさかあっけなく数時間で勝敗が決まってしまうとは考えていなかったはず。そんな番狂わせな結果に一番驚いたのは、家康自身ではなかったろうか。
【参考文献】
- 『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(高橋陽介・著、河出書房新社)
- 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(白峰旬・著、平凡社)
- 『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(本多隆成・著、中公新書)
- 『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治・著、吉川弘文館)
バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、左隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもので、左隻には東軍が押し気味に戦闘を展開している様子などが描かれている。