わずか数時間で終わった決戦:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(中)
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賊に転落した家康
徳川家康は、上洛を拒む会津の上杉景勝の態度を謀反とみなし、慶長5年(1600年)6月、約5万7000(数は諸説あり)の大軍を引き連れ会津への遠征を開始した。
だが7月24日、下野国小山(栃木県小山市)在陣中に、石田三成と大谷吉継の挙兵を知ったのである。
そこで翌日、会津征伐を中止して味方の諸将を西上させた。自身はいったん江戸に戻り、すぐにその後を追いかけるつもりだったようだ。
だが、家康は江戸から動けなくなってしまう。状況が大きく変わったからだ。
西国の大大名である毛利輝元が、いきなり大坂城に入り込んで西軍(反家康派)の盟主となり、豊臣秀頼を手中にしたうえ、秀頼の母・淀殿や三奉行(前田玄以、長束正家、増田長盛)を味方に引き入れたのである。五大老の一人、宇喜多秀家も西軍方についてしまった。
豊臣政権は、三奉行の名をもって家康の非道を「内府違いの条々」という弾劾状にまとめ、諸大名に配布した。公的性格をにおわせた同書には、理路整然と家康の暴虐ぶりが記され、秀頼に対する忠義が説かれていた。この書状を読む限り、正義は西軍にあった。つまり家康は、賊に転落してしまったのである。
そうなると家康は、自分に味方して先発した豊臣系大名らが、本当に徳川方(東軍)として働くか疑心暗鬼になってきた。それに、敵対する会津の上杉景勝に加え、去就が読めない常陸の佐竹義宣などが徳川領に攻め入ってくる可能性も出てきた。もちろん、多数派工作も必要になった。まさに家康にとっては大きな危機だったのだ。
秀忠軍は間に合わず
だが、結果的に家康の心配は杞憂(きゆう)に終わった。味方(東軍)の先鋒隊はすさまじい勢いで進撃し、西軍方の岐阜城を一日で陥落させたのである。逆にこのままでは、徳川なしで西軍を倒してしまう状況になった。
驚いた家康は、先鋒の諸将に対し、「私が出向くまで、何事も軍監の井伊直政の指図に従ってほしい」と彼らの勝手な行動を制し、急きょ9月1日に江戸から出立した。率いる軍勢は3万2000(諸説あり)。東海道を迅速に進み、9日に岡崎城、11日には清須城に入った。ただ、ここで家康は風邪を理由に進軍を止めた。東山道(中山道)から西進するはずの徳川秀忠軍が遅れていることを知ったからだろう。
家康が率いる兵は小身の寄せ集めで、万石以上の譜代や精鋭は息子の秀忠が率いていた。つまり、秀忠軍が徳川の主力だったのだ。秀忠軍の使命は、真田昌幸の上田城など信濃一帯を制圧すること。その上で後日、家康軍と合流する手はずになっていた。
しかし、いま述べた事情により、家康は秀忠に即座の西上を求めた。ところが、秀忠への使者の到着が洪水などのために遅れ、さらに秀忠軍が上田城攻めに手を焼いたことで、もはや天下分け目の合戦に間に合わないことが確実になった。
とはいえ、このまま清須城に居続ければ、味方の先鋒隊は、大垣城にこもる西軍主力軍に勝手に攻めかかりそうだった。このため岐阜城に入った家康は14日、大垣城近くの赤坂に着陣し、先鋒の諸将と合流した。
家康方についた福島正則
翌日は、いよいよ天下分け目の関ヶ原合戦である。
戦いの詳しい経緯や様子は一次史料(当時の手紙や日記)からは確認できない。
合戦全体をまとめて描いているのは、すべて後世の記録(二次史料)なのだ。ただ、『関ヶ原始末記』は、酒井忠勝(若狭小浜城主、のちの江戸幕府老中・大老)の体験を明暦2年(1656年)に儒者の林羅山・鵞峰父子がまとめたもので、史料として比較的良質なのでこれをもとに記していく。
石田三成は当初、清須城と岐阜城を中心に、犬山城や竹ヶ鼻城を加えた防衛線を考えていたとされる。清須城主の福島正則は秀吉子飼いの武将なので、西軍方につくと三成は考えていたようだ。
ところが、その正則が逆に東軍先鋒の主力として池田輝政と共に岐阜城を攻め立てたのである。しかも、城主の織田秀信(信長の嫡孫)はあっけなく城を明け渡してしまった。結果、岐阜城だけでなく、犬山城と竹ヶ鼻城も陥落した。
これは大誤算だった。作戦の変更を迫られた三成は、今度は大垣城にこもって東軍を引き付け、その間に西軍の総大将である毛利輝元と豊臣秀頼を大坂城から出馬させる方針をとったとされる。近年、関ヶ原の近くに巨大な城(玉城)の存在が判明し、三成はこの城に輝元と秀頼を入れる予定だったという新説が出ている。
三成は「大軍を引き連れた輝元が秀頼と共に来臨すれば、東軍の豊臣系大名は戦意を喪失する」と判断したのだろう。
こうして三成は9月8日、佐和山城から大垣城へ入った。同時に、十数キロ後方の関ヶ原周辺に陣地を構築し、諸大名を分置した。今述べたように輝元と秀頼もここに陣を敷いてもらう予定だったらしい。
一方、家康としては籠城戦は避けたい。城攻めで日を送れば、大坂城から輝元や秀頼がやって来るからだ。そこで、秘策を打ったという。
諸将を集めて軍議を開き、「三成の本拠地の佐和山城を落とし、一気に大坂城へ攻め寄せる」と決めたのである。この方針は、西軍の間諜に漏れ、三成の知るところとなった。もちろんそれが家康の狙いだった。
焦った三成は、急きょ、関ヶ原一帯に防衛ラインを敷いて、東軍の進軍を食い止めることにした。関ヶ原の地名の「関」は、関所に由来する。かつてここに関所があったのだ。関ヶ原一帯は交通の要衝地で、ここを押さえてしまえば西へ進めない地形になっていた。
井伊直政の“抜け駆け”
かくして9月14日夜、豪雨の中、闇に紛れて三成率いる西軍は大垣城からひそかに離脱する。三成は松明を焚せず、馬の口をしばって音を消させ、東軍に気づかれないよう迂回して関ヶ原へ向かった。大垣城から西軍が離脱したという確報が家康の耳に入ったのは、翌日の午前2時頃だったという。
そこで家康も、全軍に進撃を命じた。こうして東軍も雨の中、泥まみれになって関ヶ原へ急いだ。
戦いの火ぶたを切ったのは、徳川四天王の一人とされた東軍の井伊直政だった。天正3年(1575年)頃に家康に臣従した新参者だが、華々しい戦功を上げ大身に成り上がった。ただ、これは軍令違反だった。
合戦での先手一番は、福島正則と決められていた。さらに藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政といった豊臣系大名が最前列に陣を敷いていた。そのグループに唯一加わっていた徳川譜代が直政だったのだ。
東西両軍が布陣を終えたのは15日の午前6時から7時の間だったとされる。雨はやんだが霧が立ちこめていた。両軍は、対陣したままにらみ合っている。そんななか、先手の福島正則隊の脇を50騎ほどの騎馬隊がすり抜けようとした。井伊直政勢だった。
見とがめた福島隊の可児才蔵が「ここから先は通すわけにはいかない」と怒鳴った。すると直政は「こちらは松平忠吉(家康の四男)様。今日が初陣なので、戦を知っていただくため物見に来た」と答え、そのまま先へ進むと、対峙する西軍の宇喜多秀家(1万7000)隊へ突入したのである。
明らかに抜け駆けだった。
にもかかわらず、戦いの後、福島正則から苦情は出なかった。
直政は3000の兵を連れていたが、本隊は置いたまま物見と称し、たった50騎でやって来た。このため正則は、濃い霧のため偶発的に敵と遭遇し、やむを得ず戦闘行為に至ったと判断したのかもしれない。なお近年、直政と忠吉が一番槍を入れたという説に疑問を唱える研究者もいるが、今回は通説に従っておく。
ともかく、家康の子と徳川譜代の臣が合戦の口火を切ったので、家康は上機嫌だったという。
家康に内通していた毛利方
こうして東西両軍の全面対決が始まったが、家康の政治工作が功を奏し、西軍大名の多くが陣地で傍観を決め込み、西軍8万(諸説あり)のうち戦ったのは半数以下だった。
南宮山に布陣した毛利軍1万6000も傍観した部隊の一つだ。毛利輝元は西軍の総大将だったが、当日は大坂城におり、毛利軍を率いていたのは輝元の養子秀元だった。
実は秀元は戦おうとしたのだが、先陣の吉川広家(輝元の従弟)がいくら催促しても動かなかったのである。当然、石田三成からは「戦いに加わってほしい」という催促がたびたび届く。閉口した秀元は、「いま兵に飯を食わせている最中だ」と三成の使者に苦しい弁明をしたという。もちろん後世の作り話だと思うが……。
毛利軍が動かなかったので、近くに陣を敷いた長束正家や長宗我部盛親も疑心暗鬼となって戦いに参加しなかった。結果、南宮山にいた3万以上の兵は用をなさなかった。
広家はすでに家康に内通していたのだ。
これより前、広家は三成が輝元を大将に担いで挙兵することを知った。そこで輝元に同意しないよう説得しようとしたが、輝元は大坂へ入ってしまった。
そこで広家は、親しい黒田長政を通じて家康に「これは毛利の重臣・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)の計略であり、輝元本人は一切関知していない」と釈明した。家康はその言葉を信じた。
以後、広家は徳川方とひそかに連絡を取りつつ、西軍として行動し、関ヶ原の戦いの前日になって、家康に内通している事実を主将の秀元や毛利家の重臣たちに打ち明けたとされる。
相談の結果、輝元の許可なく家康方に人質を出し、徳川方からは「毛利氏の忠節が明らかになれば本領を安堵する」という血判付きの起請文を獲得することに成功。だから広家は、戦場での傍観という行動で家康に忠節を示したのだ。
ただ、戦っているのは半数以下だったが、西軍はすさまじい戦いぶりを見せた。このため、最初の数時間は膠着状態になった。これには家康も焦ったことだろう。もし傍観している毛利などの西軍諸将が、この形勢を見て東軍に攻撃を仕掛けてきたらアウトである。
そこで裏切りを約束していたのに動かない松尾山の小早川秀秋に対し、気を揉んだ家康は「せがれ(秀秋)めに計られた(だまされた)か」(『朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)』)と怒り、松尾山に鉄砲を撃ち込むよう命じた。俗にいう問鉄砲(といてっぽう)である。
去就を決めかねていた秀秋だったが、問鉄砲によって松尾山を駆け下り、眼下にいる味方・大谷吉継の陣へ攻め入った。これにつられて赤座直保・小川祐忠・朽木元綱・脇坂安治も味方に攻めかかり、大谷隊が壊滅したのを機に、西軍は瓦解したのである。
ただ、近年は小早川秀秋は最初から東軍として戦っていたという新説が登場、その可否を巡って論争になっている。
いずれにせよ、わずか数時間で「天下分け目」の関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わったのである。
【参考文献】
- 『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(高橋陽介・著、河出書房新社)
- 『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の合戦の通説を覆す』(白峰旬・著、平凡社)
- 『徳川家康の決断 桶狭間から関ヶ原、大坂の陣までの10の選択』(本多隆成・著、中公新書)
- 『人物叢書 徳川家康』(藤井讓治・著、吉川弘文館)
バナー写真:渡辺美術館(鳥取市)所蔵の関ケ原合戦図屏風(江戸時代、右隻)。合戦当日の様子を戦場の南方面から描写したもの。人物・甲冑などが丁寧に表現されており、右隻には、開戦間もないころの両軍の激突の様子などが描かれている。