徳川のお殿様たちは明治維新をいかに生きたのか
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多芸多才、趣味に生きた「最後の将軍」慶喜
今年1月、徳川宗家(そうけ)の19代当主を徳川家広(いえひろ)氏が継いだことがニュースで話題となった。江戸幕府初代将軍・家康を始祖とする徳川家。では、幕府の瓦解後、徳川宗家や御三家(宗家に次ぐ家格を持ち、徳川の名字を称することを認められ、宗家が絶えた時、それを継ぐことが許された3つの分家)のお殿様たちは、いったいどのように明治の世を生きたのだろうか。
「最後の将軍」15代慶喜(よしのぶ)は、就任からわずか1年後、1868年1月3日(慶応3年12月9日)の王政復古の政変で将軍職を失った。その4年ほど前から京都に居住していた慶喜は、二条城から大坂城に拠点を移し、さらに旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れると江戸へ逃亡。上野寛永寺で謹慎生活を始める。
慶喜を朝敵とみなした新政府は、東征軍を京都から差し向けた。が、旧幕府方の勝海舟と新政府軍の参謀・西郷隆盛との会談により江戸城総攻撃は中止され、1868年5月3日(慶応4年4月11日)、徳川家は無血で江戸城を引き渡す。この日、慶喜も処刑を免れ、その身柄は故郷の水戸へ移されることになった。
徳川宗家は御三卿(8代将軍吉宗の子と孫が創設した3家)の一つ、田安家の6歳の当主・亀之助が16代家達(いえさと)として継承することになり、領地として駿府(静岡)に70万石が与えられる。慶喜もやがて徳川家の駿府における菩提寺・宝台院へ移った。
翌年、慶喜は新政府から正式に赦免されたが、1871年の廃藩置県により駿府藩は消滅。家達らは東京に移ったものの慶喜は静岡に居続けた。そして鷹狩や乗馬、網打ちに熱中し、和歌や俳句、囲碁や書、能を楽しむなど趣味に没頭する生活を送った。とりわけ写真はプロ級の腕前であり、華族の写真雑誌『華影』に投稿して2等賞を受賞したほど。正室の美賀子との間には子ができなかったが、側室のお幸とお信の間に20人以上(夭折も多い)の子をつくっている。
1897年、ようやく慶喜は静岡を去って東京巣鴨に居を移す。すでに60歳になっていた。翌年、慶喜は皇居に参内して明治天皇から温かいもてなしを受けた。慶喜は77歳で死去するが、それはなんと、明治の世が終わった大正2年(1913年)のこと。慶喜は歴代将軍の中で最も在任期間が短いが、一番の長寿であった。
組閣の勅命を断った徳川宗家16代家達
1863年に御三卿の一つである田安徳川家の三男として生まれ、慶喜に代わって6歳で徳川宗家を継いだ家達は、知藩事(版籍奉還後に各藩に置かれた地方長官)として駿府に入るが、廃藩置県により静岡藩が消滅したため江戸に戻った。この時、供の者は、わずかに8人であったという。しばらく各地を点々としていたが、1872年に赤坂に落ち着いた。敷地内の別棟には13代将軍家定の正室・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)がおり、熱心に家達の教育にあたった。
家達は慶喜に対しては良い感情を抱いておらず、時折「慶喜は徳川を潰した人、私は建てた人」と語っていた。また、15代将軍慶喜に続く「16代様」と呼ばれることを嫌い、「徳川家は15代で終わっている。私は明治天皇のお慈悲をいただき、新たに家を立てたのだ」と述べたという。
こうした家達の言動は篤姫の影響かもしれない。篤姫は新政府軍が江戸を取り巻いた時、徳川家の存続を朝廷に嘆願したが、こうした状況を招いた慶喜については「どうなっても構わない」と突き放している。
1877年から5年間、イギリスに留学して政治を学び、帰国後、華族として最高の公爵に叙された。1903年には若くして貴族院議長に就任。以来、明治・大正・昭和と約30年にわたって同職にあり続けた。これは最長不倒記録である。
議長としての家達は、派閥や党派に肩入れやひいきをせず、公正で厳正に議事を進行させた。そうした政治的手腕が期待され、1914年、家達に対し「内閣を組織するように」との大命が降下される。が、家達は「自分は総理の器ではない」として辞退した。
当時、政党内閣を求める護憲運動が盛り上がっており、首相になるのは火中の栗を拾うようなものだったからだろう。結局、大隈重信が組閣したが、選挙の汚職問題で支持率を落とし、大隈内閣は瓦解する。そういった意味で、家達は賢い判断をしたといえる。
1921年、第一次世界大戦後の国際秩序と海軍軍縮を話し合うワシントン会議の全権大使の一人となった。家達を全権に推したのは、原敬首相であった。家達の海外人脈や社交力に期待したのである。実際に家達は、連日のように開かれる晩餐会や社交会に積極的に参加し、各国代表は日本に敬意を払うようになったという。
社会福祉事業にも熱心で、貧者を病気から救う東京慈恵会や恩賜財団済生会の役員や顧問を務め、旧領静岡県や旧幕臣の育英事業に莫大な私財を投じた。1929年に日本赤十字社の社長に就任すると、私費で欧米を回ってアジア初となる赤十字国際会議の誘致に努め、5年後、東京での開催にこぎつけた。
1938年は家達が徳川家を相続して70年の節目の年ということで、家名相続70年記念式典が盛大に催された。同年5月、家達は赤十字国際会議に参加するためイギリスに向かうが、経由地のカナダで心臓発作に襲われ、帰国を余儀なくされる。それから病床に伏すようになり、自宅で療養生活を続けていたが、1940年6月5日、76歳の生涯を閉じた。
勤皇に徹し、旧領民の困窮を救った尾張徳川の慶勝
続いては、徳川宗家の支系として将軍家に次ぐ地位を誇った御三家(尾張藩・紀州藩・水戸藩)のお殿様について見てみよう。
まずは、御三家の中でも筆頭格といわれた尾張藩から。戊辰戦争時、実権を握っていたのは元藩主の徳川慶勝(よしかつ)。ちなみに、徳川慶喜は水戸藩9代藩主・徳川斉昭(なりあき)の7男。慶勝は斉昭の姉・規姫(のりひめ)の子で、両者はいとこ同士となる。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は敗北を喫したが、その直後、京都にいた慶勝のもとに新政府の高官である岩倉具視の使者が訪れ、「旧幕府方につくか、新政府軍につくか、去就を明らかにせよ」と迫った。
実は岩倉は、尾張藩の佐幕派が名古屋で、慶勝の子で現藩主の義宣(よしのぶ)を奉じて旧幕府方に参加しようとしている、との情報を得ていたらしい。驚いた慶勝は名古屋へ戻ると、佐幕派を断固粛正する(青松葉事件)。これにより尾張藩は勤皇に統一された。
さらに慶勝は新政府の疑いを解くため、新政府軍の東征(江戸攻撃出立)に先立ち、東海道・中山道の諸藩・旗本領に40人近くの部下を派遣。新政府の味方をするよう説得し、了承した藩に「勤王証書」と称する誓詞(せいし)を提出させた。こうしてわずか半月で、東海道・中山道沿いのすべての大名と旗本は新政府方に味方することを誓った。
廃藩置県後、知藩事の慶勝は新政府から東京・浅草瓦町の邸宅を下賜(かし)されたが、1875年に義宣が死去すると、再び家督を相続して尾張家17代当主となる。
慶勝は困窮する旧尾張藩士に資金を援助して帰農を奨励し、名古屋に織物工場や養蚕場を開設して彼らの子女を就業させた。1877年には北海道の開拓を計画し、開拓使長官の黒田清隆に依願して胆振(いぶり)地方(北海道南西部)に150万坪の無償払い下げを受け、旧藩士たちを移住させ、開拓にあたらせた。慶勝はこの地域を八雲(やくも)村(現・八雲町)と命名した。
御三家筆頭の立場にいながら倒幕のために尽力し、新政府誕生への道を開いた立役者・慶勝は1883年8月、60歳で死去した。
新政府に先駆け「強兵」を実現した紀伊徳川の茂承
慶勝とは対照的に、紀州藩最後の藩主・徳川茂承(もちつぐ)は、鳥羽・伏見の戦いで敗走する旧幕臣や会津藩兵を保護して食糧を与え、船に乗せて江戸へ護送した。このため新政府の怒りを買い、戊辰戦争に参加している藩兵の人数が少ないとの理由から15万両という莫大な献金を命じられる。藩は何とか3万両を工面して朝廷へ上納したが、それ以上は捻出できず、金の代わりに1500人の兵士を朝廷に差し出した。
こうして敵国のような扱いを受けた茂承は、紀州藩出身で政府の高官になっていた陸奥宗光(むつ・むねみつ)に助力を求めた。陸奥は新政府に掛け合い上納金をすべて免除させたが、代わりに茂承に徹底的な藩政改革を求めた。
茂承は、同藩出身で江戸に出て蘭学や西洋兵学を学び、帰藩後は蘭学の教授を務めていた津田出(つだ・いずる)を登用して改革を一任。津田は550石以上の藩士の家禄を一律10分の1とし、550石未満25石以上は一律50俵というように給与体系のフラット化を推進。一方、24石以下の下士の俸禄はこれまで同様とした。
また、役職を持たない藩士については「今後、農業や商業など、どんな仕事をしてもよいし、住居も城下ではなく自由に移転してよい」と布達した。これは政府の先を行く四民平等政策であった。
さらに農民や町人も含め成人(20歳以上の男子)を集めて徴兵検査を実施し、合格者を3年間の兵役につかせた。新政府より3年早く徴兵令を断行したのだ。紀州藩の正規軍は3000人であったが、これにより常備軍は7000人、予備・補欠兵を含めると約1万4000人となり、一気に5倍に増えた。
兵制はプロシア式を採用し、最新式のツナンドル銃を大量に購入。兵器・火薬工場を創設して一日に1万発の弾薬を製造した。おそらく新政府軍と戦ったら紀州軍が勝っただろう。だが廃藩置県により紀州軍は解体され、茂承には東京居住が命じられた。
1877年1月、明治維新後の諸改革で特権を次々と奪われた不平士族らが西郷隆盛のもとで反乱(西南戦争)を起こした。すると茂承は墓参りと称して紀州に戻り、10万円の資本金を提供して士族の貧窮を救うための結社(のちの徳義社)の設立を宣言。西郷軍に投じぬよう旧藩士らに釘をさした。さらに政府の志願兵に応募するよう説得。その結果、旧紀州兵は続々とこれに応募し、全国から徴発された7500人の士族兵のうち、最多の4分の1を占めた。
茂承が設立した徳義社は39町歩(39ヘクタール)の土地を購入し、小作担当人と呼ぶ豪農や地方名望家に経営させ、士族の救済に大きな役割を果たした。1885年にも10万円を出して田圃を購入。この資本を元手に旧紀州士族のための学校を設立した。その後も和歌山県で自然災害が起こるたびに被災者のために大金を提供している。
憲法発布後は貴族院議員としても活躍していたが、1906年、麻疹(ましん)から肺炎となり、尿毒症を併発して63歳で亡くなった。
フランス留学で国際感覚を磨いた慶喜の弟・昭武
水戸藩では、江戸無血開城が行われた1868年5月、藩主の徳川慶篤(よしあつ、慶喜の兄)が37歳の若さで没してしまう。そこでフランスに留学していた弟の昭武(あきたけ)が帰国し、11代藩主となった。ちょうどひと月前まで、水戸藩内では藩士らが尊攘派と保守派に分かれて戦闘状態にあり、昭武は疲弊した領内を回り、藩内の融和に努めた。翌年には北海道の開拓事業を政府に願い出て、藩士らを入植させ、自ら同地へ向かった。
廃藩置県により藩主(知藩事)ではなくなった昭武は、水戸藩の屋敷があった東京・向島の小梅に移り住んだ。そして翌年には公卿・中院通富(なかのいんみちとみ)の娘・栄姫(瑛子)と婚約する。
その後、昭武は政府の命で陸軍少尉となり、1876年にはアメリカで開催される万国博覧会の御用掛に任ぜられて渡米した。これは昭武が強く希望したもので、職務を果たした後は、再びフランスのパリに戻って留学生活に入った。
帰国したのは1881年。翌年正月、昭武は静岡に閑居していた16歳年上の兄、慶喜と15年ぶりに対面する。以後、二人は親密な交流を続け、慶喜が時折東京に出て来ると、必ずと言ってよいほど行動を共にした。
昭武は旧領内の大能(おおのう)地方(茨城県北部)で牧場経営を始め、10年間で6万円の大金を投入して周辺道路の敷設や畜舎を設置。翌年には天龍院地区でも杉やヒノキ、松などの植林事業を開始する。明治天皇は1歳年下の昭武とは気が合ったようで、1882年に昭武の小梅邸に行幸している。
1883年、昭武は水戸家の当主を引退した。まだ30歳の若さであったが、フランス留学を終えた前藩主の子・篤敬(あつよし)が帰国してきたためである。
隠居の身になった昭武は、戸定(とじょう、千葉県松戸市)の高台に和様の屋敷をつくって生母の睦子と暮らし始め、後妻の八重との間に三子をもうけた。さらに天龍院地区に悠然亭と呼ぶ山荘を建て、しばしばこの山荘に赴いて牧場・植林事業に精を出した。
相変わらず兄・慶喜とは仲が良く、都内近郊でカモ猟を、大能ではキジやウサギ狩りを楽しんだ。慶喜同様に多趣味で、フランス製のカメラで人物や風景を撮った。慶喜に写真術を教えたのは昭武だといわれる。
1908年に体調を崩して腎臓を摘出。翌年、熱海や小田原に湯治へ出向いたものの7月3日、58歳の生涯を閉じた。
このように、明治維新の激動期を生きた徳川のお殿様たちは、実に多彩な人生を送ったが、徳川家以外の大名にも劇的な生き方、波乱万丈の人生を歩んだ者はたくさんいる。いずれ機会があれば紹介したい。
バナー写真:水戸藩最後の藩主・徳川昭武が1884年に千葉県松戸町(現・松戸市)に建てた戸定邸(国重要文化財)。明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物で、増築を経て現在は9棟が廊下で結ばれている PIXTA