解説「明治憲法」―改憲論議の機運高まる中、東アジア初の近代憲法について知る【前編】
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坂本龍馬も抱いていた近代憲法の構想
すでに江戸末期の段階で、西周(にし・あまね)ら幕府派遣の留学生や洋書によって欧米の立憲体制や憲法に関する知識は国内に流入し始めていた。坂本龍馬が新政府構想としてまとめた「新政府綱領八策」にも、上下両院を設けることに加え、「律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム」べきだと記されている。「無窮ノ大典」とはすなわち、憲法のことだろう。
王政復古の大号令によって成立した新政府は、戊辰戦争の最中の1868年閏(うるう)4月、政体書を公布して太政官制(七官制)という政治組織を整えた。太政官と呼ばれる政府機構に権力を集中させ、行政事務を分掌する7つの官(行政官、刑法官、議政官など)を置き、アメリカ合衆国憲法を参考に三権分立(司法・行政・立法)の形をとったものだ。
1871年、廃藩置県を断行し唯一の政権となった新政府は、太政官を正院・左院・右院とし、その下に省庁を置いた(三院制)。正院は政府の最高機関で、太政大臣・左大臣・右大臣(3大臣)と参議で構成された。現在の内閣にあたる。左院は官選の議員から成る正院の立法諮問機関。正院が重要な法律を定める際、専門的な見解を左院に尋ねた。右院は各省庁の卿(長官)と大輔(次官)が会合し、政務を協議する機関である。
73年、征韓論争に敗れて下野した参議8人(板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平ら)が愛国公党をつくり、左院に「民撰議院(国会)を開いて我々を政治に参加させよ」との建白書を提出した。
その後、板垣は故郷の高知県(土佐)で政治団体・立志社を設立。国会の必要性を主張し、自由民権思想を広めていった。やがて同じような政社が各地に生まれると、75年、板垣らはその勢力を結集して大阪に愛国社を結成した。
こうした民権運動の盛り上がりに焦った内務卿(太政官制における事実上の首相)の大久保利通は、大阪で板垣、木戸孝允と三者会談を行った(大阪会議)。実はこの時期、長州藩のリーダー・木戸も台湾出兵に反発して政界を去っていたのだ。
会談の結果、大久保は板垣や木戸の意見を受け入れ、次第に憲法に基づく議会政治を導入することに同意。75年4月、立憲政体樹立の詔(みことのり)が出され、元老院、大審院、地方官会議が設置された。
元老院は立法審議機関で、立憲政体の実現に向け翌76年、日本最初の官選憲法草案「日本国憲按」の作成を始めた。
大審院は司法権の最高機関、今でいう最高裁判所である。地方官会議は、全国の県令・府知事の会議のこと。第1回会議では木戸孝允を議長に、民会(地方議会)議員を公選にするか官選にするかで白熱した議論が展開され、結局、官選民会にすることが決まった。
“英国型”立憲主義を求めた大隈重信
1876年から不平士族の乱が続発するが、政府はこれを鎮圧。翌77年には西郷隆盛を首領とする西南戦争を平定した。これにより政府を武力で倒すことは困難になり、言論による政府の打倒や国会の開設を目指す自由民権運動が再び盛り上がる。
78年には、大久保利通が士族らに暗殺され(紀尾井坂の変)、代わって肥前(佐賀県)出身の大隈重信と長州(山口県)出身の伊藤博文が政府内で台頭。そうした中、民権運動に理解を示し、すぐに国会を開くべきと主張したのが大隈だった。
大隈は1881年3月、左大臣の有栖川宮熾仁(ありすがわのみや・たるひと)親王に「今年中に憲法を制定し、来年公布したあと国会を開き、イギリス流の議会制民主主義を進めていくべきだ」との意見書を提出する。
保守的な右大臣・岩倉具視がこれに嫌悪を示すと、伊藤博文は岩倉と結び、薩摩(鹿児島県)出身の開拓使(北海道の開拓のため設置した行政機関)長官・黒田清隆に接近する。この時、黒田は窮地に立っていた。開拓使の官有物や諸事業を同郷の政商・五代友厚へ不当な廉価で売却しようとしたとして、民権派の激しい攻撃にさらされていたのだ。
伊藤は、大隈が裏で民権派と結んで黒田への攻撃をあおっているのだと語り、黒田と提携したのである。
こうして薩長閥は81年10月11日、突然、御前会議(天皇臨席の会議)を開き、世論の政府攻撃に大隈が関与しているとして参議の職を罷免。同時に、国会開設の勅諭を出して90年に国会を開くと国民に約束した。
この薩長閥によるクーデターを「明治十四年の政変」と呼び、政府内から大隈派は消え、薩長による専制体制が確立され、伊藤博文が主導権を握るようになった。
福沢諭吉ら民間人も続々“私案”を作成
この時期、民権運動は空前の盛り上がりを見せ、民権家たちは国会の開設を強く求めるとともに、自分たちで憲法案を作って新聞や雑誌を通じて世間に公表していった。
このように民間で作成した憲法案を私擬憲法と呼ぶ。代表的なものとして、福沢諭吉らが組織した交詢(こうじゅん)社の「私擬憲法案」、立志社の「日本憲法見込案」、植木枝盛の「東洋大日本国国憲案」、千葉卓三郎の「五日市憲法」などがある。
特に植木枝盛(えもり)の案はフランス流を採用し、一院制議会を唱え、抵抗権や革命権が含まれていた。悪い君主や国家なら国民はこれに抵抗し、場合によっては政権を倒しても構わないという権利だ。しかし、他の私擬憲法の多くは、立憲君主制・二院制を規定するイギリス流のものが大半だった。
こうした動きに連動し、先に述べたように元老院でも1880年に「日本国憲按」を完成させたが、岩倉具視ら保守派や宮中勢力の反対によって廃案となった。政府内には、憲法は時期尚早と考えたり、日本は天皇親政(専制)の道を進むべきだとする人々が強い力を握っていた。ただ伊藤博文は、ライバルの大隈と同じ立憲君主制・二院制を構想していたようだ。
渡欧調査の末「ドイツ型」を選んだ伊藤博文
すでに政府は、1890年までに国会(議会)を開くと国民に約束してしまった。それまでに立憲制度を整えておかなくてはならず、当然、その柱となる憲法の制定も不可欠となった。
このため政府は、憲法調査のために伊藤博文をヨーロッパへ派遣した。伊藤は82年から1年以上かけてドイツ、オーストリア、イギリス、ロシア、フランス、イタリアなど多くの国を巡り、グナイスト、モッセ、シュタインなど高名な学者の話に耳を傾け、ドイツのビスマルクやイギリスのグランビルなどの政治家とも会談を行った。
その結果、日本に最も適合するのは、皇帝の権限が強大なドイツ(プロシア)の憲法だと確信し、これを模範とした憲法を作ることを決意したのである。
伊藤は憲法調査から帰国すると、84年、宮中に制度取調局を設置する。立憲体制を確立するため、法律や諸制度を研究・制定する機関で、長官は伊藤博文、主なメンバーは井上毅(こわし)、伊東巳代治、金子堅太郎。ここでは官吏任用制度、地方制度、内閣制度、華族令が審議・制定されていった。
華族令ではこれまでの華族(旧大名や公卿)に加え、明治維新で活躍した人物や政府の高官も組み入れた。というのは、衆議院と並ぶ貴族院を華族で構成しようと考えたからだ。
あわや一大事!盗まれた「草案」入りかばん
こうして立憲体制を整えた伊藤博文は、1886年から憲法草案作成のため、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎ととともに金沢(神奈川県金沢区)の東屋旅館に詰め、複数の案をたたき台に話し合いを重ねた。御意見番としてドイツ人顧問で法学者のヘルマン・ロエスレルにも来てもらった。
ところがある日、草案の入ったかばんが部屋から消え失せたのだ。一同は驚嘆した。事前に民権派に知られたら一大事である。だが、単なる金目当ての泥棒だったようで、金品は抜き取られていたものの、かばんは草案が入ったまま畑に捨てられてあった。
ただ、ここで憲法案を作るのは危険だとして、伊藤の夏島別荘に場所を移した。今では埋め立てにより陸続きになってしまっているが、もともと夏島は金沢沖に浮かぶ孤島。この別荘で4人は遠慮なく議論することを決め、激しい論争に発展することもあったという。こうした真摯(しんし)な話し合いの末、87年8月、ついに草案(夏島草案)が出来上がった。
憲法草案は、新たに設置された枢密院という審議機関で、明治天皇の臨席のもと何度も審議が重ねられ、89年2月11日、「大日本帝国憲法」として発布された。
この憲法は、天皇が国民に授ける「欽定」という形式をとったことから分かるように、天皇の権限が非常に大きいものであった。
この大きな権限を「天皇大権」と言い、主権は天皇にあり、宣戦・講和・条約の締結や役人の任免などの権限を持ち、陸海軍の統帥権も握っていた。そもそも第1条からいって「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」であり、第3条も「天皇は神聖にして侵すべからず」なのだ。
こうしたことから、一般的に明治憲法は、天皇独裁を肯定する非民主的な憲法と思われがちだ。しかし、それは正しい認識ではない。
それについては「後編」で詳しく解説したいと思う。
バナー写真:憲法草案を審議するため1888年に創設された合議機関・枢密院。藩閥・高級官僚で構成され、会議には天皇が臨席した(錦絵『枢密院会議之図』楊洲周延画 国立国会図書館ウェブサイトから転載)