鉄道開業150年:欧米列強に肩を並べるべく明治維新からわずか5年で誕生した官営鉄道
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日本で初めて“汽車”を走らせたペリー提督
1853年6月、鎖国を続けていた日本にマシュー・ペリー率いる米東インド艦隊が来航し、開国を要求。翌54年3月、ペリーは再び来日し、米国の圧力に屈した幕府は日米和親条約を結ぶ。
蒸気を吐きながら空砲を放つ艦船(黒船)に日本人は肝を冷やしたが、2度目の来日の際、ペリーは幕府に蒸気機関車の模型(4分の1サイズ)もプレゼントしている。
ペリーは横浜に鉄道技師を同行させて、海岸に100メートルほどの円形のレールを敷くと、実際に石炭を焚いて機関車を走らせた。時速32キロ。試乗した幕府役人の河田八之助は感激し、「迅速飛ぶがごとく、極めて快し」と語っている。他にもペリーは米国製の武器、電信機などを贈り、いかに西洋の文明が進んでいるかを幕府側に見せつけようとした。
ところがその翌年、佐賀藩が独力で蒸気機関車の模型をつくり上げ、実際に走らせることに成功する。
ペリーの最初の来航から約1カ月後の53年8月、ロシア帝国の海軍軍人、エフィーミー・プチャーチンが長崎に来航し、幕府に開国を求めた。その際、黒船の艦内が一般公開されたが、そこに蒸気機関車の模型が展示されていた。佐賀藩の藩主、鍋島直正は精煉方(せいれんかた)と称する理化学研究所を設置し、有能な技術者を招いて反射炉や大砲など西洋の利器を研究・製造させており、精煉方の学者たちはプチャーチンの機関車模型を見学し、書物も参考に本物を作り上げたのだ。
「鎖国によって日本は世界文明から取り残された」というのはウソで、当時の日本人は、西洋の機械をたちまち模倣できるだけの力量を備えていた。
製造の中心となったのは田中久重(ひさしげ)。福岡・久留米出身のからくり人形師で「からくり儀右衛門」と呼ばれていたが、彼は大坂や京都で無尽灯(油皿の油が減ると自然に補給され、燃え続けるように作られた灯明台)や万年時計(ゼンマイ駆動の大型置時計)など優れた製品を作っていた。直正は田中の才能を高く評価して藩士に登用すると、精煉方の主要メンバーとして蒸気機関の研究開発にあたらせた。田中はのちに芝浦製作所(東芝の前身)の創業者となる。
英国頼りで進められた官営鉄道の敷設
ただ、明治時代になるまで、日本国内に本格的な鉄道が敷設されることはなかった。フランスなどは盛んに幕府に鉄道建設を勧めていたが、彼らに乗る気はなく、ようやく1868年1月、米国の公使館員アントン・ポートマンが出した鉄道敷設(江戸-横浜間)の申請を老中の小笠原長行が許可する。それによると、敷設作業や経営権は基本的にすべて米国側に委ねることになっていた。
ところが、その3カ月後、徳川宗家(旧幕府)は新政府軍に無条件降伏(江戸城無血開城)。代わって政権を握った新政府は、ポートマン側との契約を破棄した。英国公使ハリー・パークスの勧めもあって、英国の力を借りながら自力で鉄道を経営することに決めたのだ。
こうして日本初となる鉄道の敷設事業は、民部・大蔵両省の大輔(次官職)である大隈重信の主導のもと、民部省鉄道掛(がかり)により進められることとなった。
大隈は佐賀藩の出身で、精煉方が製作した蒸気機関車を見ていただろうし、西洋文明を尊重する土壌に育ったことも大きかった。日本を近代化させ欧米列強と肩を並べるためには、早急に国を豊かにしなくてはならない。その一つの手段として、交通制度の整備が急務と考えたのである。そして「鉄道より軍艦を優先すべし」と主張する反対派を押し切って鉄道敷設を実現させたのだ。
実際に工事を指揮したのは、英国人鉄道技術者のエドモンド・モレル。さらにいえば、建設費も主に英国からの外債で調達し、汽車も英国製だった。レール幅は英国の規格に合わせた。ただし英国本国のそれではなく、植民地用の狭いゲージ(軌間)だった。このため、日本の鉄道は欧米よりずっと狭くなり、列車の幅も細くなってしまった。
資金や資材の調達は、パークスから紹介された英国人金融家のホレイショ・ネルソン・レイに一任していた。ところが彼は、日本政府をだまして利ざやで儲けようとした。これが発覚すると新政府はレイを解雇したが、すでに中古の汽車や狭いゲージのレールが発注されていた。のちに大隈重信は、狭いゲージを採用したことについて「一生一代の不覚」と悔やんでいる。
いずれにせよ、当初の鉄道は、英国頼りでつくられたものだった。
「交通」より「軍」を優先させた西郷隆盛
2019年4月、その頃の鉄道の遺構が突然姿を現した。JR東日本の品川駅改良工事中に地中から出土した高輪築堤(たかなわちくてい)である。築堤とは盛土などで堤防を築くこと。高輪築堤は、東京湾に土砂を盛って台形の堤(幅6.4メートル)を築き、その両脇を頑丈な石垣で補強し、レールを通した構造物である。
1870年に着工され、約2.7キロにわたって東京湾の浅瀬に築かれたが、のり面の石垣は日本の伝統工法でつくられている。美しい石積み、弧を描く形状と、まさに和洋折衷、世界に類のない極めて貴重な近代化遺産といえる。
それにしてもなぜ、海の上に築堤をつくりレールを敷いたのだろうか。
実は、鉄道のルート上に兵部省(のちの陸軍省と海軍省)の所有地があり、軍を統轄する西郷隆盛や兵部省の高官が引き渡しに難色を示したため、その場所を避けるため、海上に石垣をつくって線路を敷いたのである。
西郷としては、とにかく軍事力を強化するのが最優先で、交通の整備など二の次と考えていた。また、鉄道敷設にあたり英国から借金をすることについても、外国の侵略を招くものと反発していた。
日本人技術者の台頭
さて、1870年に始まった鉄道工事だが、その完成を見る前に、責任者のモレルが肺の病により30歳の若さで亡くなってしまう。副主任のジョン・ダイアックが工事を引き継ぎ、彼を補佐して完成に導いたのが初代鉄道頭(てつどうのかみ)に就任したばかりの井上勝だった。
山口県出身の井上は、幕末の1863年に伊藤博文や井上馨とともに英国へ密航した留学生、いわゆる「長州ファイブ(五傑)」の一人。ロンドンでは鉱山技術とともに鉄道技術を学んで68年に帰国した。翌年、明治政府に出仕し、モレルの死後、本格的に鉄道建設に関わっていく。
苦難の末、1872年10月14日(旧暦9月12日)、日本初の鉄道が正式に開通する。この日、明治天皇臨席のもと、新橋鉄道館(新橋停車場)にて盛大な鉄道開通式が挙行された。参議などの政府高官や列国公使も参列し、庶民の見学も許された。興味深いのは、政府高官が武家の礼服である直垂(ひたたれ)を着用していたこと。文明開化の式典というのに、なんともちぐはぐな光景だった。
式典では、明治天皇が臣下に対して、次のように勅語を下した。
「このたび、我が国鉄道の工事が完成したことを告げる。朕は文明が発達し、便利になったことを喜んでいる。おまえたち百官よ、この事業を維新の初めにおこない、万民に恵みを与えようというのはすばらしい。その努力をたたえる。朕は我国が富盛になることを期待し、国民のためにこれを祝す。そして今後も鉄道を全国に広げていくことを願っている」
式典が終わると、天皇は列車に乗って新橋―横浜間23.8キロを往復した。車内には三条実美、山県有朋、大隈重信、江藤新平、勝海舟などそうそうたる顔ぶれが乗車した。さらに兵部省の土地を渡さなかった西郷隆盛もいた。ただ、西郷が汽車に乗ってどんな感想を持ったかは、残念ながら記録はない。
慣れない乗り物に珍談奇談が続出
乗車賃だが、新橋から横浜まで片道で上等席が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘だった。下等でも現在の金額にして5000円はくだらない。鉄道はまだ非常に高額だったのだ。翌73年に運賃は値下げされ、上等1円、中等60銭、下等30銭になったが、それでもまだ高い。海上の石垣を煙を上げて走る汽車の姿は美しく、錦絵が多く描かれ、人気の観光スポットとなった。
ただ、鉄道に慣れない日本人ゆえ、珍談奇談もたくさん残っている。当初、汽車が去ったホームには多くの履き物が残っていたという。履き物を脱いで部屋に入る風習があるため、乗車する際、うっかり脱いでしまったのだ。走っている汽車に水を掛ける人も続出したが、煙を上げて走っているので暑いだろうと思ったのだという。
また、列車内にはトイレがなかったので、我慢できずに窓から放尿する人も少なくなかった。ユニークなのは、おならをして処罰された例があることだ。1881年のことだが、東京日日新聞の報道によれば、長崎県士族の深川弥作は横浜から汽車に乗ったが、お腹が張って苦しくなり、その場で屁をするのは申し訳ないと思い、尻をまくって窓からケツを出して放屁したところを見とがめられ、鉄道規則第6条により罰金5円をとられた、とある。
民営鉄道の台頭と鉄道国有化
その後、1874年には神戸―大阪間、77年には京都―大阪間が開通する。
80年には、鉱山技術に秀でる井上勝が中心となり、京都―大津間の逢坂山(おうさかやま)トンネルを開通させている。工事中に犠牲者も出たが、日本人技術者だけで初めて掘り抜いたトンネルだった。この頃政府は、御雇外国人の技師たちを解雇していき、日本人の手で鉄道を運営していく方針をとり出していた。
同年10月29日の東京日日新聞には、「新橋横浜間の鉄道汽関車運転は、これまで横浜より発車の分は洋人を用いられしに、いよいよ来月初旬より内国人にて運転し、洋人は満期にて解約せらるるとぞ、その他機械製造及び道路測量等の御雇い洋人も、満期次第に悉皆廃せらるると云う。これらは経済の一方に就いても喜ぶべき咄なり」と記されている。
翌81年、初の民営鉄道会社となる日本鉄道会社が誕生する。華族が出資して設立した企業だった。政府は西南戦争後、資金難で鉄道を新設できずにいたため、同社の設立を許可し、鉄道局(国の機関)は建設や営業を代行したり資金を援助したりした。
同社は83年に上野―熊谷(埼玉)間に鉄道を開通させたのを手始めに、その後も次々と線路を延ばし、生糸や石炭の輸送で成功を収めた。すると、80年代後半から私鉄会社の設立が相次ぎ、90年代には私鉄の営業距離は官営鉄道を超えるまでに成長する。
ところが、第1次西園寺公望内閣は1906年3月、鉄道国有法を制定する。前年9月に終結した日露戦争では、多くの兵士と軍需物資が鉄道で輸送されたが、その際、私鉄と官営鉄道の直通列車の運用や運賃の精算などが複雑で手間がかかった。それゆえ兵員輸送をスムーズに行うために、軍部が鉄道の国有化を求めたのだ。また、産業上の見地から国家による統一的な路線網の確立が叫ばれたことも大きかった。
日清戦争(1894-95年)後、日本は清から割譲させ植民地にした台湾にも鉄道を敷設していった。さらに日露戦争後は、大陸でも鉄道を所有するようになる。
ポーツマス条約でロシアから譲り受けた遼東半島突端部の租借地を関東州とし、旅順に租借地を支配する関東都督府を置き、長春―旅順間の旧東清鉄道やその沿線にある炭坑などを経営するため、06年に満鉄(南満州鉄道株式会社)を新設した。半官半民の会社であった。
こうして1872年の鉄道開通からわずか30年余の間に、国内には網の目のように線路が張り巡らされ、さらに台湾や満州など海外にも鉄道を敷設し、日本人だけの力で運営できるまでになった。その意味では、鉄道の発展は日本の近代化の象徴といえるだろう。
バナー写真:鉄道開業前後には、多くの絵師たちが錦絵に汽車や駅の姿を描いた。歌川広重(三代)《横浜海岸鉄道蒸気車図》1874年、神奈川県立歴史博物館蔵
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