日本史探険

天下統一を夢見た織田信長

歴史

群雄割拠の戦国時代から安定した社会へと変わる激動の歴史の中心にいた、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。著名な歴史作家である筆者が、三英傑の人生をたどりながら、当時の日本社会の特徴を解説する。初回は、短期間で領土を拡大し、天下統一を成し遂げようとした織田信長を取り上げる。

戦国大名の登場

織田信長が生まれた天文3年(1534年)。この頃は、戦国時代のまっただ中であった。享徳3年(1454年)には、東国を支配する鎌倉府の長官・鎌倉公方の足利成氏が、補佐役の関東管領・上杉憲忠を殺害したことをきっかけに鎌倉府が機能しなくなり、東国では30年近くにわたって内乱が続き、そのまま戦国時代へと突入した。

一方、西国でも応仁元年(1467年)、将軍足利義政の跡継ぎや管領家(将軍の補佐役)の家督相続をめぐって守護大名たちが2つに分かれて京都で戦いを始めた。この応仁の乱は11年の長きにわたって続き、幕府の力は山城一国にしか及ばなくなってしまった。こうしたなか、各地方では自力で土地を切り取り、独自に支配する者たちが現れた。そう戦国大名である。彼らは、家臣の統制や領国支配のため分国法(家法、壁書)を制定した。その内容には、けんか両成敗が含まれることが多かった。家臣同士の私闘(個人的な争い)を許さず、もめ事は大名が裁いた。つまり、大名への権力集中と領国の安定を狙ったのである。そのほか、私的婚姻の規制や所領売買の制限、農民の年貢未納や逃散(集団逃亡)を禁じる法令もよく見られた。

戦国大名は、家臣の所有する土地の面積や収入額を自己申告させ、それらを検地帳(今でいう土地台帳)に登録した。これを指出検地というが、収入額は銭に換算した貫高という基準で統一的に把握した。そして、家臣に地位や収入を保証してやるかわりに、貫高に見合った軍役を負担させたのである。また、領民には貫高を基準とした年貢を課した。

さらに戦国大名は、寄親と呼ばれる有力家臣のもとに、地侍(下級武士)を寄子として預ける制度をもうけ、家臣たちを組織化(寄親・寄子制)していった。戦時には寄親─寄子の集団は、それぞれが長槍隊や鉄砲隊など一部隊に編成された。これにより、歩兵中心の集団戦法が可能になった。合戦の際は各村から農民が兵や物資の輸送係として駆り出された。この時期はまだ、武士と農民ははっきりと分離されていなかったのである(兵農未分離)。

大名はまた、領国繁栄のために盛んに新田や鉱山を開発した。石見大森銀山、但馬生野銀山、甲斐・佐渡・越後の金山などは、この時期に開発された。さらに農業発展のために、大河川の治水・灌漑事業も盛んに行った。例えば武田信玄は、堅固な堤防(信玄堤)を釜無川(かまなしがわ)と御勅使川(みだいがわ)の合流地点に造っている。

いずれにせよ、このような戦国時代に尾張の武将・信秀の嫡男として産声を上げた信長は、やがて急激に勢力を膨張させ、あと少しで天下統一を成し遂げるまでになった。本稿では、そんな信長の天下平定事業を追いながら、当時の時代背景にも迫っていこうと思う。

信玄堤の聖牛(左)と現在の信玄堤。武田信玄は木で作った聖牛を川岸に築くことによって、川の流れを変え、氾濫を防ぐのに効果的な治水技術を編み出した(甲斐市教育委員会)
信玄堤の聖牛(左)と現在の信玄堤。武田信玄は木で作った聖牛を川岸に築くことによって、川の流れを変え、氾濫を防ぐのに効果的な治水技術を編み出した(甲斐市教育委員会)

尾張統一への道

永禄3年(1560年)、駿河・遠江の大名・今川義元が4万(数に異説あり)の大軍で尾張に侵攻してきた。これを迎え討った信長は2000の精鋭で今川の本陣を突いたところ、あっけなく義元は討ち死にしてしまった(桶狭間の戦い)。まさかの大勝利であった。すると信長は、三河の松平元康(後の徳川家康)と同盟を結んで東の安全をはかり、北にある美濃国の攻略を目指して斎藤義龍と戦いを始めたのである。

桶狭間の戦いの中心地だった場所は現在、桶狭間古戦場公園として整備されている。公園内中央には織田信長(左)と今川義元の銅像が置かれている(PIXTA)
桶狭間の戦いの中心地だった場所は現在、桶狭間古戦場公園として整備されている。公園内中央には織田信長(左)と今川義元の銅像が置かれている(PIXTA)

この頃、中国地方では安芸の毛利元就が厳島の戦いに勝って周防の大内氏(陶晴賢)を滅ぼし、さらに出雲の尼子氏の領地へ攻め込んでいた。甲信越地方では、甲斐の武田信玄が信濃の諏訪氏を滅ぼし、川中島で越後の上杉謙信と鉾をあわせながら信濃を併合しようとしていた。関東地方では、北条氏康が小田原城を拠点に伊豆、相模、武蔵を領国とし、下総や上総などへも勢力を広げつつあった。また九州地方では、豊後の大友宗麟が北九州一帯を支配下におさめる勢いを見せた。

ヨーロッパ人来航とキリスト教布教

特に宗麟は、キリスト教を伝えたイエズス会のフランシスコ・ザビエルを厚く保護し、領内に布教を許した。それもあって、続々と九州各地に宣教師が来日するようになり、キリスト教が広まっていった。ヨーロッパではちょうど大航海時代にあたり、ポルトガルとスペインの商人や宣教師たちが、新たな市場と布教地を求めて世界中に乗り出していた。16世紀になると、彼らは中国や東南アジアに進出、天文12年(1543年)にはついにポルトガル人が種子島に漂着したのだ。このとき、鉄砲という新兵器がもたらされた。

九州の大名たちがキリスト教の布教を容認したのは、武器や貴重な品々が手に入る南蛮貿易を行うためだった。ポルトガル商船は、布教を認めぬ大名領には入港しなかったのだ。宣教師たちは、病院や学校をつくるなど社会福祉事業に力を入れたので、国内のキリシタンは急速に増えていった。カステラなど砂糖と鶏卵を使った南蛮菓子や牛肉料理を人々にふるまったことも効果的だった。それは、仏教の僧侶がそうした行為を非難していることからも分かる。

当時の国際交流の様子がうかがえる南蛮屏風(ペイレス/PIXTA)
当時の国際交流の様子がうかがえる南蛮屏風(ペイレス/PIXTA)

天下統一を目指した信長の経済政策

永禄10年(1567年)、斎藤龍興を追放して美濃を征服した信長は、斎藤氏の稲葉山城を岐阜城と改めて根拠地とし、城下の町・加納に楽市・楽座令を発した。座という独占的な同業者組合を解散させ、商人たちが自由に商売できる環境を用意し、税も軽くしたのだ。さらに岐阜城下までの各街道を整備し、関所も撤廃したので城下町は大いに繁栄した。

「天下布武」の印(兵庫県立歴史博物館)
「天下布武」の印(兵庫県立歴史博物館)

この頃から信長は、「天下布武」の印を用いるようになった。武力によって日本を統一する意志を明らかにしたのである。そして翌年、足利将軍家の義昭を奉じ大軍を率いて京都に上り、室町幕府を再興、そのもとで畿内へも勢力を広げていった。また、石山本願寺や比叡山延暦寺など仏教勢力をけん制する意図もあって、キリスト教を保護した。信長はルイス・フロイスなど宣教師たちを招き、彼らから西洋の知識を積極的に吸収していった。

だが、信長と対立するようになった将軍義昭が、各地の大名と結んで織田包囲網を構築したことで大きな危機を迎える。しかし信長は、羽柴秀吉や明智光秀など身分や地位が低くても有能な人物を大抜てきし、敵対勢力を一つ一つ根気よく平らげていった。比叡山延暦寺を焼き打ちし、浅井長政・朝倉義景氏を滅ぼし、石山本願寺を完全に包囲したのだ。元亀3年(1572年)には武田信玄が大軍を率いて甲斐から迫って来たが、翌年、途上で病死してしまった。こうして危機を脱した信長は、義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。

新しい武器鉄砲を活用

さて、種子島に伝わった鉄砲だが、戦国時代ということもあって、近江の国友村、和泉の堺などで量産されるようになった。ただ、有効射程距離は100メートル程度しかなく、弾を発射するまで時間がかかるため、実戦にはあまり向かない兵器だった。そうした認識を根本的に変えたのが信長だった。

天正3年(1575年)、信長は家康とともに設楽原で甲斐の武田勝頼と戦った。武田軍は最強といわれる強さを誇っていたが、信長は3000丁(異説あり)という多数の鉄砲を用いて撃破したのである。これが世にいう長篠の戦いだが、信長は一丁ではあまり役に立たない鉄砲を、大量かつ一斉に撃つことで、無敵の兵器に変えてしまったのだ。戦術上、画期的な出来事であり、以後、戦国の合戦には鉄砲が重要な役割を果たすようになった。

毎年5月に長篠城跡で開催される「長篠合戦のぼりまつり」。戦いで倒れた両軍武士の霊を慰めるために始まった(新城市観光協会)
毎年5月に長篠城跡で開催される「長篠合戦のぼりまつり」。戦いで倒れた両軍武士の霊を慰めるために始まった(新城市観光協会)

天下統一目前に起こった本能寺の変

翌年から信長は新たな拠点として、琵琶湖のほとりの広大な敷地に総石垣造りの城を造り始めた。そう安土城である。城の象徴として地下1階地上6階建て(高さ30メートル以上)の天主を設けたが、これが日本における本格的な天守閣の始まりである。以降、この安土城が近世城郭のモデルとなっていく。

天正8年(1580年)、10年近くにわたった石山戦争(石山本願寺包囲戦)も終止符を打ち、中国地方へ遣わした羽柴秀吉が毛利氏を苦しめ、北陸地方へ遣わした柴田勝家が上杉領を侵食しつつあった。そして天正10年(1582年)3月には、ついに甲斐の武田氏を滅ぼした。このままいけば、おそらくあと数年で、信長は日本を統一することができたはず。しかし同年6月2日、あっけなく京都の本能寺で家臣の明智光秀に滅ぼされてしまった。まさかの事態であった。

光秀は信長の命で、毛利と戦う秀吉を支援すべく、亀山城から中国地方へ向かうはずだった。信長も間もなくその後を追う予定になっていた。ところが1万3000の兵を率いた光秀は、進軍途中でにわかに進路を変え、信長のいる本能寺に殺到したのである。このとき京都には信長の嫡男・信忠もおり、やはり二条御所で討ち死にしてしまった。

本能寺の変を描いた浮世絵「本能寺焼討之図」。右端が織田信長(秀吉清正記念館)
本能寺の変を描いた浮世絵「本能寺焼討之図」。右端が織田信長(秀吉清正記念館)

光秀謀反の謎

いったいなぜ光秀は謀反を起こしたのか。

これに関しては、光秀が信長に恨みを抱いていた、天下への野望があった、という説が根強い一方、朝廷や将軍義昭、あるいは秀吉が裏で糸を引いていたなど、黒幕説も存在する。中でも近年は、四国説が急浮上している。光秀は、土佐の長宗我部元親と信長の同盟を仲介しており、信長は元親が四国全土を平定することを容認してきた。ところがにわかに土佐一国と阿波半国しか認めないと豹変。これに元親が反発すると、信長は土佐の長宗我部を攻めようと動き始めた。そこで光秀は元親を説得し、元親も了解した。なのに信長は大坂に兵を集め、長宗我部を討つため今まさに四国へ渡海させようとしたのだ。面目をつぶされた光秀は、こうした行為に怒って信長に反旗を翻したというのである。ただ、この説も決定的な証拠はなく、光秀の真の動機は今もって判明していない。

ともあれ、織田信長は天下統一に王手を掛けながら、突如家臣に背かれ、その夢を果たせぬまま、この世から去ることになったのである。

なお、この事業は山崎の戦いで光秀を破り、主君のあだを奉じた秀吉が、そのまま引き継いでいくことになった。

明智光秀(アフロ)
明智光秀(アフロ)

バナー写真:織田信長(アフロ)

戦国時代 織田信長 明智光秀