明治維新:日本の資本主義発展を支えた岩崎弥太郎と渋沢栄一
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特権を失った武士
江戸時代、武士が庶民(農民、職人、商人)を支配してきたが、新政府は、国民はすべて平等だという政策(四民平等)を進めた。これにより、支配者の武士は苗字帯刀や切り捨て御免といった特権を失ったが、廃藩置県後も士族(元武士)には家禄(給与)が支給されていた。しかもその額は国家財政の30%を占めたので、明治9年(1876年)、ついに政府は金禄公債証書(金券)を与えて禄制を廃止したのである(秩禄処分)。この証書の金額だけで生活するのは不可能だったので、多くの士族が証書を元手に商売を始めたが、ほとんどが失敗して落ちぶれてしまう(士族の商法)。
このため政府に不満を持った士族の中には、板垣退助らの自由民権運動に参加する者が増えていった。国会の開設や憲法の制定、言論・集会の自由を求める政治運動だ。この民権運動には、江戸時代は政治に関与できなかった農民も加わった。こうして国民的な奔流となった民権運動に押され、政府も国会を開くことに決め、明治23年(1890年)、第1回衆議院選挙が実施された。すると、当選者の半数以上を平民が占めたのである。さらに明治後期になると、農民や職人など平民出身の閣僚が登場するようになった。このように、武士に独占されていた政治は、明治維新を機に激変したのである。
教育がすべて
平民の台頭は、政界だけでなく経済界、官界、教育界など、あらゆる分野で見られるようになった。誰でも能力さえあれば、出世できる世の中になったからだ。特にそうした希望を明治の青年たちに与えたのは、福沢諭吉だった。諭吉は言う。「天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らずと言えり」と。なのにどうして貧富の差や地位の差が生じるのか。それは、学問をしたか、しないかの差だと明言し、生まれながらの貴賎貧富の別などなく、「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」(『学問ノスゝメ』)と断言した。この言葉は人々に強い感銘を与え、『学問ノスゝメ』の売り上げ累計は300万部となり、貸本や写本によってさらに多くの人びとに読まれ、絶大な影響を与えることになったのである。
そこで今回は、四民平等の世が出現したことにより、1代で成り上がった2人の実業家を紹介したいと思う。岩崎弥太郎と渋沢栄一である。2人は対照的な経営をしながらも事業を一気に拡大し、資本主義の発達に大きな影響を与えた。
岩崎弥太郎の波乱万丈な生涯
岩崎弥太郎は天保5年(1835年)、土佐国(高知県)安芸郡井ノ口村の地下浪人の家に生まれた。地下浪人とは、藩士の身分を失った武家のこと。先祖が落ちぶれて武士の権利を売り渡してしまったのだ。だから元武士といっても庄屋(名主)の下位に置かれた。しかも父の弥次郎は頑固だったので、あるとき庄屋の手下から暴行を受けて大けがをする。憤慨した弥太郎は奉行所に訴え出るが相手にされず、怒って奉行所の壁に落書きして投獄された。
このとき弥太郎は同室の囚人に算術を教わり、それが後に商売に役立つのだから、人生は何が幸いするか分からない。しかも出獄後、藩の参政・吉田東洋と知り合うことになった。弥太郎の謹慎先の近くで、東洋もまたお叱りを被って一時蟄居(ちっきょ)していたのだ。東洋は弥太郎の才能を知り、下級役人に抜擢した。まさに塞翁が馬である。算術に優れていたこともあり、慶応3年(1867年)、弥太郎は長崎にある藩の出先機関(土佐商会)の主任者となる。外国人との対外交易が主な仕事だった。また、坂本龍馬の海援隊(土佐藩付属の海運組織で海軍にもなる)の会計も任され、龍馬と意気投合してその生き方に大いに啓発された。
三菱、国内最大の海運業者に発展
明治維新後、弥太郎は九十九(つくも)商会を創設して海運(汽船回漕)業に乗り出したが、廃藩置県で名実ともに藩から独立、社名を三菱と改めた。弥太郎は社員たちに「三菱商会は、国内に大きな力を持つ外国の汽船会社を追い払い、大海に進出して世界中に航路を開く」と大きな夢を語った。そんな三菱商会が飛躍するきっかけは、台湾出兵であった。外国の汽船会社は中立を唱えて日本兵や兵糧の輸送を断った。また国内の海運業者も、リスクを嫌って引き受けなかった。ところが、弥太郎だけが政府の依頼を快諾したのだ。
弥太郎は「人間は一生のうち、必ず一度は千載一遇の好機に遭遇するものである。しかし凡人はこれを捕らえずして逸してしまう。(略)これを捕捉するには、透徹明敏の識見と、周密なる注意と、豪邁なる胆力が必要である」(『岩崎彌太郎伝』)と語っているが、まさに台湾出兵は、三菱にとって千載一遇のチャンスだと判断したのであろう。
三菱は期待通りの働きをし、政府の最大実力者・大久保利通は弥太郎に信認を寄せ、西南戦争の輸送も一任した。そして、その後は政府の絶大な保護と援助が与えられ、三菱はたちまちにして国内最大の海運業者となったのである。
ところが大久保の死後、頼みとしていた参議(閣僚)の大隈重信が明治14年の政変で失脚してしまう。三菱は大隈に資金を提供しているとして薩長閥に憎まれ、政府は三菱つぶしを開始する。政府は三井などの資本で共同運輸をつくり、三菱と競争をさせたのだ。しかし弥太郎は屈せず、激しい船の運賃・スピード競争により、共倒れの危険が出てきた。驚いた政府は、三菱に対して共同運輸との合併を進めたが、弥太郎は頑として応じなかった。しかしこの戦いの最中、弥太郎は胃癌のために死没してしまった。まだ50歳だった。
後を継いだのは弟の弥之助だった。弥之助は不毛な戦いをやめ、三菱から海運部門を切り離して共同運輸と合併させることに同意した。こうして弥太郎が1代で造り上げた海運事業は岩崎家の手を離れたが、弥之助は鉱山、造船、地所、銀行など、多角経営によって発展の礎を築き、その後、三菱は大財閥へと成り上がっていったのである。
500余りの会社創設に貢献した渋沢栄一
武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の渋沢家は、農業のほか養蚕、藍玉の製造・販売、村人相手の金融業などを営む多角的な豪農であった。栄一は天保11年(1840年)、渋沢市郎右衛門の長男として生まれた。幼い頃から賢く、両親から将来を嘱望された。とにかく本が大好きで、12歳のときには歩きながら読みふけり、溝に転落して泥だらけになって帰ってきたという逸話が残る。
幕末になると尊王攘夷思想にかぶれ、一時は高崎城を襲撃して武器を奪い、横浜に住む外国人たちを追い払う計画を立てるが断念。やがて、平岡円四郎の紹介で一橋慶喜の家臣に採用され、慶応3年(1867年)、慶喜の弟・昭武がパリ万博へ列席するのに随行して欧米諸国を周遊、当地の文物や制度を学んで帰国した。
明治維新後、新政府に入って民部省の租税正、大蔵省の大蔵権大丞など経済官僚として活躍、国立銀行条例の制定や第一国立銀行の設立に尽力。明治6年(1873年)に政府を辞めて実業家に転身、王子製紙会社、大阪紡績会社、東京海上保険会社、共同運輸などの創立を手掛けていった。生涯に創設に関与した企業は500に上ったが、多くの会社を興したのは、自分の利益のためではなかった。実際、関わった会社の株式はほとんど保有しておらず、経営が軌道に乗るとサッと身を引いた。列強諸国の経済的強大さに対抗するため、日本に近代産業を早急に根付かせて発展させる必要があるという理念を持っていたからである。だから、実業界の力を結集すべく東京商法会議所など、さまざまな経済団体を組織し、自ら会頭に就いて政府に実業界の要望を積極的に伝えた。
栄一のすごさは、その活動が実業界だけにとどまらなかったことである。
東京高等商業学校、高千穂高等商業学校、大倉高等商業学校、東京高等蚕糸学校、岩倉鉄道学校の創立に関わり、近代教育の発展にも大きく寄与した。晩年は実業界の第一線から手を引き、東京市養育院の院長として恵まれない子供たちを救うなど公共社会福祉事業に力を注ぎ、同時に欧米を歴訪して民間の立場から平和外交を促進していった。そして昭和6年(1931年)、91歳でその生涯を閉じたのである。
このように岩崎弥太郎と渋沢栄一は対照的な経営手法で事業を拡大し、日本の資本主義の発達に貢献した。ただ、四民平等の世が訪れていなかったなら、こうした実業家は登場しなかったろう。そういった意味では、明治維新は日本の社会構造を抜本的に変えてしまう大きな出来事だったのである。
バナー写真:渋沢栄一(左)と岩崎弥太郎(右)(国立国会図書館デジタルコレクション)