伝説の喫茶店「大坊珈琲店」の一杯
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期間限定の復活
東京・表参道交差点の近くに喫茶の名店があった。「大坊珈琲店」という。
店主・大坊勝次さんは、手廻しロースターで焙煎(ばいせん)した深いりの豆をネルフィルターでハンドドリップしていた。ムク材でできたカウンターや床は煙で燻(いぶ)され、ほの暗い店内には、村上春樹などの文化人をはじめ、多くのファンがいた。2013年12月を最後に、ビルの取り壊しにより38年営業した店を惜しまれながら閉じた。
閉店から5年過ぎ、今春かつての「大坊」の真向かいに位置する山陽堂書店が、大坊さんのエッセー『大坊珈琲店のマニュアル(税別2800円)』出版記念イベントとして、2日間限定で「大坊」を再現した。
「もう一度、大坊珈琲を飲みたい」、「一度飲んでみたい」と1時間以上の待ち時間にもかかわらず、両日100人以上のコーヒー好きが訪れた。都内近郊からだけではなく、北海道からわざわざやってきた人もいた。広い年齢層が列に並ぶ中、多くの若い客が決して安くない本を次々に買い求めて店員を驚かせた。それほどまでに人を引き付ける大坊珈琲の魅力とは何なのだろう。
一滴ずつ入れる
書店の3階に上り、大坊さんのハンドドリップをカウンター越しに眺める。注文と同時に深いりの豆を粗びきにする。コーヒーの香りがほのかに鼻をくすぐる。定位置についた大坊さんは、体を少し傾け、注ぎ口にピタッと視線を固定する。右手のポットは動かさず、左手に持ったネルフィルターを上下に動かし手首を回す。一滴一滴中心から弧を描きながら、粗びきの豆に湯を注ぐ。「最初はタチ、タチ、タチと水滴をフィルターに。次に細くツーッツツッとスタッカートのように」と大坊さん。苦味と酸味が折り合う焙煎ポイントに大坊さんはこだわる。甘味を出したくて深くいるが、それによってきつくなりがちな苦味を甘味で包みこむために、あえてぬるめの80度の湯で、ゆっくり一滴ずつ抽出する。
腰をかがめてドリップする無駄のない所作は、茶の湯のお点前にも通じる美しさだ。同時に、客人に最高の一服を供するための経験と技術と知識の結集でもある。一杯の抽出に約5分。常に効率化とスピードが要求される昨今、すべてを大切にするような丁寧な動きを見ているだけで心が穏やかになる。口に含んだ瞬間、トロリと甘味に包まれた苦味が舌の上に残り、全身を柔らかく包む。
丁寧は伝染する
5年前に店を閉めてから、毎日ではないが、今でも自宅の手廻しロースターで豆を焙煎する。表参道の店で使っていたカウンターを自宅の珈琲ルームにしつらえ、親しい人をもてなす。花が生けられジャズレコードの調べが流れる昔の大坊珈琲店を彷彿(ほうふつ)とさせる空間で話を聞いた。
「僕は、よろいを脱いで、その人がその人自身になる“ほっ”とできる空間にしたいと思っていました」と大坊さんは語る。そして“ほっ”とするためにはコーヒーがおいしくなければならないと考えた。「人はおいしいお茶やコーヒーを飲むと、ほっとします」
「目の前で姿勢を正して丁寧に一滴ずつドリップしてコーヒーを作っていくことに集中していくと、自分が自分自身になり切ります。するとそれを見ている人も自分に素直になれるのではないでしょうか。丁寧は伝染すると思うのです」
そして次のような話をしてくれた。ある時、店に髪を真っ黄色に染めた10代の女の子が、一人でやってきた。朝9時の開店と同時にカウンターに座って、コーヒーを一杯だけ飲んで、ずっとうつむいたままだった。そっとしておいた方がいいなと思い、声を掛けることもなく、新しい客にコーヒーを入れていた。4時間ぐらいたってやっと彼女が口を開いた。
「私・・・昨日・・・家出してきたんです。昨日・・・髪を染めました・・・コーヒーを作るのを見ていたら少し落ち着きました」と言った。そして「帰ろうかと思います」と。
大坊さんは「それはいいですよ。どうしても家を出たいのなら、まず、いったん帰って、親とちゃんと話をして、また出てくればいいんじゃない」と言った。
「彼女、ずっと自分のことを考えていたのでしょうね。いつの場合でも、ちょっとお茶をというときは、今の自分を味わっているのではないでしょうか。コーヒーを味わっているようでいて、何かしら自分の状態を味わっているんですよ」「私が自分になり切ってコーヒーを入れた時、その行為を通じて、お互いに自然と胸襟が開いていく。そんな関係が成り立つのかもしれませんね」
「人は忙しい日々の中で、ふと立ち止まります。立ち止まり、これまでのことを考えます。そしてこれからの事を考えます。立ち止まる場所はいろいろあるでしょうが、珈琲店の椅子もその一つであれば、うれしく思います」
都会の止まり木だった「大坊珈琲店」
かつての「大坊珈琲店」は、雑居ビルの2階、暗くせまい階段を上がり、重たい木の扉を開くと季節の花が生けてあり、ジャズLPレコードが流れる静かな空間だった。扉を開けるとたちまち深いコーヒーの香りに包まれる。朝は、7時に豆を手廻し焙煎機でローストするところから始まった。3時間から多い時は5時間ぐらい焙煎機をまわした。9時の開店時間になっても、客の前でローストをしながらコーヒーを入れていた。店は煙に満ち、客の洋服にコーヒーの香りが移る。「大坊に行ってきたんだろう」と仕事に戻って言われた、と笑う客もいた。
深いりにローストした大坊ブレンドは、50cc/25gから 150cc/15gまで5段階。豆と湯の量で好みの濃さを選ぶ。一般的なドリップコーヒーが10gの豆で170㏄ほど抽出するのと比べると、デミタスカップ(50cc)で飲む大坊ブレンドは、相当にぜいたくな入れ方だった。
大坊さんはドリップに集中するとほとんど口を開くことがない。かといって不愛想と言うわけでもない。店内は静かで、入ってきた客に気づくと、視線を向けて小さな声であいさつをする。客は、ひととき「大坊」という異空間で丁寧にもてなされ、満たされて、都会のけん騒へと戻っていった。
米・サードウエーブコーヒーブームに影響を与えた日本の喫茶店
大坊珈琲店が閉店して約1年、2015年春、東京・清澄白河(江東区)に、米国サンフランシスコ発「ブルーボトルコーヒー」が1号店を開いた。一部機械も使うが、浅いりのスペシャルティコーヒー豆(※1)を一杯ずつハンドドリップで入れる新しいスタイルは米国で「サードウエーブ(第3の波)」と呼ばれる。流行に敏感な若い人々の心をつかむと同時に、味にこだわり都会的なセンスを好むコーヒー好きにも受け入れられている。創業者のジェームズ・フリーマン氏は、日本に進出前の2007年、日本の喫茶店を訪ねまわり、一杯ずつハンドドリップするスタイルに感動し、新しい店づくりに生かした。中でもお気に入りの喫茶店の一つが大坊珈琲店だった。
米西海岸在住のブランドン・ローパー監督は、2014年にサードウエーブとスペシャルティコーヒーを追いかけた自主制作映画『A Film About Coffee』を制作した。かつての大坊珈琲店が長回しでスクリーンによみがえる。上映会では「大坊さんはどうしているのですか?」という質問が多い。
A Film About Coffee(2014)予告編
かつての大坊珈琲店がスクリーンによみがえる © 2014 Avocados and Coconuts.
「大坊イズム」は健在
今や東京にはシアトル系、イタリア系、日本のチェーンコーヒー店がひしめき、フリーWi-Fiを売りにしているところも多い。コンビニチェーンは、一杯ずつ抽出できる機械を導入して、100円でひきたて入れたてのコーヒーが飲めるようになった。ファミリーレストランのドリンクバーでは、長時間居座って何倍でもコーヒーを飲むことができる。ちょっとした時間つぶしに、取引先からのメールに返信を書きながら、ワンコインで気軽に飲めるコーヒーは、今や、都会の生活になくてはならない存在だ。
「大坊珈琲店」はなくなった。しかし、大坊さんは今でも、全国津々浦々に出掛けては、手廻し焙煎や、ネルドリップのレクチャー、期間限定の出張珈琲店を開いている。コーヒー好きや専門店の経営者を相手に開くワークショップは、いつも募集開始と共に満席になってしまう。丁寧に一杯を入れる「大坊イズム」は、まだまだ健在だ。
バナー写真:山陽堂書店3階に再現された期間限定の「大坊珈琲店」でコーヒーを入れる大坊勝次さんと、妻・恵子さん。写真:土井恵美子(ニッポンドットコム編集部)
(※1) ^ スペシャルティコーヒー:生産国においての栽培管理、収穫、生産処理、選別そして品質管理が適正になされ、欠点豆の混入が極めて少ない生豆であること。適切な輸送と保管により、劣化のない状態で焙煎されて、欠点豆の混入が見られない焙煎豆