ニッポンの調味料(2) 醤油(しょうゆ):伝統製法で醸される奥深い味わい
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数滴垂らせば、肉も野菜も魚もたちまちおいしい和風の味になる。日本人にとって醤油は、世界中どこへ行っても頼りになる魔法の調味料だ。その付き合いは長く、ゆうに千年を越す。醸造に使われているのは、今も昔も良き相棒、麹(こうじ)菌である。
医食同源の調味料
醤油の先祖は、奈良時代に朝廷の醤院で醸造されていた「醤(ひしお)」とされている。醤とは当時の塩蔵発酵食品の総称で、原料別に草醤(くさびしお)、肉醤(ししびしお)、穀醤(こくびしお)がある。草醤は、今でいう漬物。肉醤は、秋田のしょっつるや能登のいしるなどの魚醤(ぎょしょう)や塩辛類。大豆小麦など穀類を原料とするのが穀醤で、現在の醤油や味噌(みそ)にあたる。
醤油醸造法の大筋は、変わっていない。蒸し大豆と炒(い)り小麦に種麹(たねこうじ)菌をつけて4日間ほど麹室(むろ)に入れ、麹菌を増殖させて醤油麹にする。
これに塩水を混ぜて桶(おけ)に仕込んだものが醤油の「もろみ」。さらに発酵熟成させてから、圧搾した汁が醤油である。原料すべてを食べる味噌と違い、しぼり滓(かす)が出て分歩留まりが悪く値段が高くなるため、江戸時代に醤油は主に武家階級の調味料だった。
醤油には大腸菌に対して強い殺菌力があることは、よく知られている。刺し身を醤油につけて食べるのは、味わいをよくするばかりでなく、腹を壊さないための昔の人の知恵でもあった。
江戸時代の医師・人見必大(ひとみ・ひつだい)が著した本草書『本朝食鑑』にこうある。「古人は醤を評して、五味を和し、五臓を悦(よろこ)ばせると言っている」と。五味とは塩辛さ、甘さ、苦さ、辛さ、酸っぱさの五つ。「五味は胃に入って、それぞれの喜ぶところへ帰す」とおもしろい注釈をつけている。さらに「百薬の毒を解す(生薬の刺激性や毒性を緩和する)」と見解を述べた上で、「古くなるほどいよいよ好(よ)い」と記している。醤油などの醤が腹具合を整え、元気を支えてくれることを、昔の人は心得ていた。
消えつつある天然醸造醤油
今では脱脂大豆を使い数カ月で大量生産される醤油がほとんどだ。味、香り、色など、不足分は添加物で補う。一方昔造りの天然醸造醤油は、醤油になるのに早くても半年から1年近くかかる。さらに2年3年と熟成することで、旨味(うまみ)と香りが深くまろやかになっていく。
「戦後しばらくは、醤油らしきものを造って出せと言う時代でした」。まっとうな醤油が造れなかったと、老職人の嘆きを聞いたことがある。この時造られた安価な代用醤油が長く市場に居座り、昔ながらの醤油蔵は価格競争に負けて廃業していった。それは、長い年月をかけて培われてきた、その土地独自の味わいが消えていくことでもあった。
そのまま味わう酒なら、味香りの違いはすぐ分かる。しかし醤油はあくまでも料理の黒子。黒っぽい液体は旨そうに見えないし、食欲をそそるわけでもない。同じように手間と時間をかけても、酒ほど高値がつくわけでもない。醤油はつらいね、とつい肩を持ちたくなる。
半世紀ほど前までは、いい水のある町にこぢんまりとした酒や味噌、醤油の醸造元があり、それぞれに独自の味を持っていた。各地に地酒があるように、風土に育まれた地醤油があった。
昔ながらの製法を守り続ける醤油醸造蔵
うれしいことに地醤油が息を吹き返しつつあり、旅先でほれぼれするような醤油に出会うことがある。秋田県の豪雪地帯湯沢市にある石孫本店もそんな地醤油を造る蔵の一つだ。明治、大正期に建てられたという風格のある五つの醸造蔵と文庫蔵(ふみくら、書庫)は、国の有形文化財。高い天井、明かり取りの小窓、太い梁(はり)、頑丈そうな太い柱、土壁。その至る所に、蔵の主(あるじ)である麹菌や酵母菌など微生物たちが代々棲(す)み続けてきたはずだ。ここでは地元産の原料を使い、昔ながらの製法を守り、蔵人(くろうど)の手仕事で味噌と醤油が醸造されている。
酒造に最も適した寒の時季にこの蔵を訪ねた。
雪に埋もれた醤油蔵の中に入ると、そこは小さな生き物たちの気配に満ちており静まり返っていた。もろみ蔵へ木の階段をのぼる重たい足音が腹に響く。醤油麹の木桶を肩に担いだ蔵人が、もう何回往復しただろう。30石入りの大木桶は、まだいっぱいにならない。ここで醤油麹と塩水を混ぜて仕込んだものが醤油もろみだ。
早春に仕込まれた醤油もろみは、ここでひと夏からふた夏を越して、まろやかな醤油になる。寒に仕込むと、暖かくなるにつれて徐々に菌が動き出す。夏には大いに発酵して、涼風が吹く秋には静まっておとなしくなる。移ろう季節に委ねて、せかさず無理せず発酵熟成を待つ。微生物は自然のままが一番だ。
決め手は麹づくり
蔵には真冬でも人間用の暖房はないが、麹菌のための炭火の囲炉裏(いろり)が麹室の床に2カ所しつらえてある。赤く熾(おこ)した炭に藁(わら)の灰をかぶせて埋み火(うずみび)にし、麹菌の好む30度ほどに温度を保つのだ。
「室に入れてしばらくすると、麹の発酵熱で室温が上がります。2時間半おきに見にいき、熱すぎるようなら窓を少し開けて冷ましてやります。生き物相手だから目が離せない」と麹室を担当する蔵人の畑澤幸太さんは言う。放っておくと麹菌は、自分が出した高熱で死んでしまうこともある。蔵人は手を尽くして、温度管理をしてやらなければならない。職人の腕の見せどころである。
醸造の要(かなめ)は「一に麹」と言い伝えられている。麹の顔を見て手を入れてみる。麹に波状の凹凸を作り、表面積を広げて熱を逃がしてやる。室の上部は暖かく床の近くは寒いので、麹を入れた麹蓋(こうじぶた)の上下をその都度積み替えていく。その重なり具合や積み方は温度によって変える。
きめ細やかな熟練の手作業を経て、4日後に淡い緑色の麹かびがびっしりと大豆を覆う。蔵人たちはそうした醤油麹を見て「花がついた」という。その言葉に安堵(あんど)がにじむ。
自動温度管理の製麹機(せいきくき)なら、機械に任せておけばいい。手間もかからないし、失敗もほぼない。しかし何か大事なものが、抜け落ちる気もする。足りないものがあるとしたら、それは職人の誇りと、よくできた麹に感謝する心ではないだろうか。そうした思いも含めて、昔造りの醤油を見直したい。
取材・文=陸田 幸枝
撮影=大橋 弘
バナー写真=もろみ蔵での仕込み作業。塩水を張った大きな桶に醤油麹を落とし込むと、麹の花が舞い上がる。