介護で起業:先端技術の「においセンサー」で排せつを感知
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千葉県北部にある船橋市の閑静な住宅地。2階建ての一軒家にケアテックカンパニー「aba(アバ)」の開発研究拠点がある。一歩中に入ると、電機部品や車いすなどが、所狭しと置かれている。abaの代表取締役CEO、宇井吉美さん(33)が開発しているのは、ベッドに敷いたシートに横たわるだけで埋め込んだセンサーがおむつの中のにおいを感知し介護者に自動で通知する、業界初のシート型排せつケアシステム「Helppad(ヘルプパッド)」だ。介護ロボットの一種で、蓄積されたデータを活用することで、介護者の負担を減らすことを目指している。
何もしてあげられなかった祖母の介護
中学生のとき、家業で忙しい母親の代わりに育てくれた祖母がうつ病になり、要介護となった。人格が180度変わってしまった祖母を前に、思春期の宇井さんはどうしていいのか分からず苦しんだ。家中が重苦しい空気に包まれた。
進路を考えていたとき、大学のオープンキャンパスで会話型介護ロボット(コミュニケーションロボット)と運命的な出会いを果たす。「家族介護者のことも考えて、誰もが介護できる仕組みをテクノロジーで作りたい」。祖母に何もしてあげられなかった無念が、やりたいことにつながった。
「おむつを開けずに中を見たい」
千葉工業大学未来ロボティクス学科に進んだ宇井さんは、当時の担当富山健教授の勧めもあり、現場感覚を身に付けるために特別養護老人ホームで実習をした。実習の初日、認知症のお年寄りを家に帰す前に職員1人が体を抑え、もう1人が下腹部を押して下剤で排便を促していた。お年寄りの叫び声を耳にして、思わず涙があふれた。「これはご本人が望むケアですか?」と尋ねると、介護者は「分からない…」と答えた。家族から「排便を済ませてから帰してほしい」と頼まれたうえでの対応だったが、介護現場の現実を初めて知った。私たちが、日々家族の排せつ処理をしないですんでいるとしたら、それは介護職の人々のおかげだと宇井さんは言う。
「おむつを開けずに中を見たい」。施設職員の言葉が、心に響いた。
おむつは交換するまで中の状態が分からない。ナースコールが押せずトイレに行けない人を対象に、1日に6~8回もおむつの中をチェックするが、2~3割は空振りだという。反対に、気付くのが遅すぎて排せつ物が漏れてしまうと、シーツや服まで交換しなくてはならず、10倍以上の時間と労力がかかると言われている。おむつをはいたまま中を検知したり、予測できたりすれば、トイレに誘導することも可能で、介護負担が大幅に軽減され、要介護者も気持ちが楽になる。そこで、においで尿と便を区別し感知するセンサーに取り組もうと考えた。
2007年に学生プロジェクトを立ち上げた。ロボット開発に必須の機械、電気、プログラミングなどの難しさに挫折しそうになったが、富山教授の励ましもあり、大学4年の11年秋に株式会社abaを設立した。awakened bunch activity(未来を創造する者たち)の頭文字を取ったabaは、富山教授の命名だ。さらにロボカップで世界優勝も果たした学年きっての敏腕エンジニアの谷本和城(33)さんを最高技術責任者(CTO)として口説き落とした。
三大介護と呼ばれる入浴・食事・排せつの中で、唯一排せつがコントロールできない。当時の介護施設では全ての記録を手動で入力していた。自動的に記録できて、そのデータが現場で共有され、排せつパターンの予測ができれば、排せつのタイミングを基に入浴や食事、レクリエーションなど生活全体を整えることができるのではないかと考え、開発に着手した。
2013年から週末は、介護施設で介護職員として働き、現場とつながりながら研究開発を進めた。
ところが、計画は順風満帆に進まなかった。おむつをはいてシートの上で排せつしてくれる人がどうしても見つからない。排せつは、人の尊厳にかかわるデリケートな行為だ。しかも、ただでさえ忙しい介護現場で実験に協力してくれる施設は、皆無に等しかった。人工知能(AI)開発では、実証データがなければ前には進まない。
とうとう宇井さんは覚悟を決めて自らおむつをはき、当時事務所として借りていた1Kのアパートに布団を敷いて横たわった。徐々にもよおして充満してきた臭いに値が反応してきたときは、パソコンでデータを取っていた谷本さんと羞恥心を忘れて喜び合ったという。
周りを巻き込むパワー
ヘルプパッドの共同開発パートナーで、パラマウントベッド技術開発本部の山口悟史さんは「メーカーだけではできないすごく大変なことだったと思います」と開発過程を振り返る。
体に機器を付けずにシート型にしたのは、要介護者の生活を大切にできて介護者の負担も減らせるからだ。宇井さんは敷くだけで排せつを感知する先端技術のにおいセンサー、尿と便を検知できるAI技術、排せつの記録作業を省力化し、パターンを自動生成するデータシステムの開発、いつでもインターネットで見られるアプリを制作。使いやすく工夫し、いくつもの技術を合わせておむつを開けずに中の状態を見たいという介護職の願いをかなえた。何年もデータを取り続けたため、においセンサーのアルゴリズムの精度も向上。ついに2019年、ヘルプパッドの製品化に成功した。
創業後10年を経て、正社員は10人、業務委託も入れると40人が開発・製造に携わる。家族介護者や子育て中の人が働き続けられる勤務環境を整えて、コロナ禍前の創業時からフルリモート、フルフレックスを実施している。宇井さん自身も28歳で第1子、31歳で第2子を出産し、研究開発、経営、育児に全力を注ぐ。
現在、ヘルプパッドは100以上の施設で利用されている。15年からは介護ロボットが政府補助金交付対象になり追い風となった。孫泰蔵氏がファウンダーを務めるスタートアップ支援のMistletoe(ミスルトウ)や、バイオベンチャー・ユーグレナの永田暁彦氏が運営するリアルテックファンドなども支援に乗り出した。累計調達額は約10億円に達した。
19年には、科学技術への顕著な貢献を表彰する文部科学省の「ナイスステップな研究者」に選ばれ、21年には米科学技術誌「MITテクノロジーレビュー」の日本版で優れた35歳以下のイノベーターとして表彰されるなど、ケアテック業界の立役者として期待が集まる。
ヘルプパッドから生まれる派生商品
ヘルプパッドで集めたデータの蓄積やセンサーの技術が介護現場で活用される中で、次々と派生商品も生まれている。
今後発売する予定の「CareS(ケアーズ)」は、業務フローやシフト表を作成する。誰がいつ、どんなケアをすればいいかをヘルプパッドのデータを使って要介護者の生体情報から計算する。日々変わっていく生体情報データを使うことで、より要介護者に寄り添ったケアになるのではないかと宇井さんは考えている。
「介護職の3~4割は記録を手動で取るなどの間接業務をやっているので、時間が足りないのです」。間接業務が減り、介護に集中できれば、介護職1人当たりの労働単価も上がると宇井さんは確信している。
さらにセンサーを使って、排せつ臭気から病気を検知する研究も行っている。ある介護職が「ノロウイルスの排便がにおいで分かります」と口にしたことをヒントに、排せつ臭や便で診断ができるのではないかと考えた。感染症を早期診断できれば感染拡大を防げる。日用品メーカーの花王など大手企業とタイアップして研究を進めている。
「したくなる介護」を目指して
日本の要支援・介護認定者は、689万人(2022年2月末、厚生労働省調べ)。家族の介護を理由に仕事を辞める人は、年間10万人に及ぶ。退職しないまでも職場に知らせずに働く「家族介護」も2016年段階で699万人に達し、問題を深刻化させている。
今後見据えているのは在宅介護。「しなくてはいけない」じゃなくて、「介護をしたくなる」に変えたい。ヘルプパッドをそれぞれの家庭に敷くことで、街全体を一つの大きな介護施設のようにしていくのが夢だと言う。
世界一の高齢化社会を迎えている日本には、すでに多くの蓄積と経験がある。「専門的な介護は面白くてカッコいいです。プロのヘルパーさんは、気難しい高齢者にもすごく上手に話し掛けます」と自ら介護職を経験した宇井さんは言う。目指すのは、看護職の地位を向上させたフローレンス・ナイチンゲール。新型コロナウイルスのまん延で自由に動けなかったが、今は韓国、台湾、シンガポールからも引き合いがある。今年の秋には、シンガポールで実地デモンストレーションを行う予定だ。「日本の素晴らしいケア文化を世界に広め、日本発のカッコいいケアテックを世界に発信して勝負していきたいです」と胸を張る。
インタビュー・写真=土井恵美子