江戸時代の大名石高ランキング(前編1~5位) : トップはやっぱり100万石のあの藩
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「石」は、1年間の米の生産高を表す単位だ。現在の価格換算では、1石=約30万円(『江戸の家計簿』磯田道史監修 / 宝島社による)である。
必ずしも米の生産高だけではなく、海産物や工業製品などの特産品の収入も、石高に換算されていた。さらに、幕府の調べに基づいて算出した「表高」(公称)と、藩が独自で計算した「内高」(実質)とがあり、多くの場合、内高の方が上回るなど実情は複雑なため、ここでは表高のみによってランキングしている。
また、大名は徳川将軍家との関係性により、親藩・譜代・外様の3種類に区別された。親藩は徳川一門、つまり初代将軍・家康の家族・親戚、譜代は家康に仕えた家臣から大名に取り立てられた家を指す。外様は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで家康が天下を取った後、徳川に臣従した者。譜代はトップ10にランクインしていない。
[第1位]前田 / 加賀藩 102.5万石(3075億円)外様
現在の石川県を治めていた大名。織田信長、豊臣秀吉に仕えた前田利家が基礎を築き、その子の利長が立藩した。「加賀百万石」といわれ、江戸時代を通じ一貫して最大の藩である。
日本有数の城下町・金沢が流通経済で発展し、また橋立・瀬越・塩屋などが北前船の寄港地だったため、その地の豪商が藩の財政を支えた。6代目の吉徳以降は財政が悪化し、御家騒動を起こすなど不安定な時期もあった。
[第2位]島津 / 薩摩藩 72.9万石(2178億円)外様
関ヶ原の戦いでは西軍に付いて家康と敵対したが、戦後は領地の薩摩(鹿児島県)を安堵され、徳川に臣従。琉球王国(沖縄)を実質的な支配下に置き、同地で生産される砂糖の流通を掌握するなどしたことから、内高は90万石以上だったといわれる。幕末に西郷隆盛・大久保利通らを輩出し、明治維新に主導的な役割を果たした。
[第3位]伊達 / 仙台藩 62.6万石(1878億円)外様
藩祖は“独眼竜”で知られる伊達政宗で、領地は現在の宮城県。東北の三陸地方に豊かな漁場、北上川が仙台平野にもたらす肥沃な土地、江戸に物資を運ぶ海運など、潤沢な経済基盤を持ち、内高は100万石を超えていたという。ただし、幕末には財政が逼迫していたことから軍備の近代化に遅れをとり、戊辰戦争では明治新政府の軍門に下った。
[第4位]徳川 / 尾張藩 61.9万石(1857億円)親藩
親藩の中でも、家康の9男・義直(よしなお)、10男・頼宣(よりのぶ)、11男・頼房(よりふさ)が興した藩を御三家といい、徳川宗家(家康の長男直系)の血筋が絶えた場合に将軍を出すことになっていた。尾張徳川家は義直が創立したが、将軍が誕生することはなかった。
隣接する木曾(美濃国の山岳地帯)に御用林を有していたことから、伐採したヒノキで財をなし、また東海道の交易地としても栄えた。
[第5位]徳川 / 紀州藩 55.5万石(1665億円)親藩
御三家のひとつで、8代将軍・吉宗を生んだ。9代・家重、10代・家治は吉宗直系であり、また14代・家茂も紀伊藩主から将軍となった。
御三家の中でも強い影響力を持っていたことに加え、領内で米と麦の二毛作を推進するなど、農業の先進性にも長けていた。だが、飢饉で財政が窮乏するたびに幕府から借金し、天明期(1781〜89年)には負債が4万5000両に達していたという。
なお、親藩と外様について補足すると、外様は石高が高くても、家格は低かった。例えば、大名が江戸城に登城し将軍に拝謁する際、控える部屋(殿席 / でんせき)には序列があり、外様は立場の低い者と同じ部屋にいるように義務づけられていた。
トップ3に入った大名のうち前田は例外で、御三家と同じ部屋に控えることを許された。これはひとえに、藩祖・利家が家康と近い関係にあったからに他ならない。島津・伊達は御三家に次ぐ部屋に、10万石以上の有力外様大名とともに控えたが、その中でも特に重要な地位にいた。
後編は6〜10位の大名について解説する。
バナー写真 : 『東都霞ヶ関諸侯行粧之図』は、霞ヶ関の大名屋敷前を通過する大名行列を描いている。霞ヶ関には彦根藩(井伊)、広島藩(浅野)、福岡藩(黒田)など有力な藩の上屋敷が立ち並んでいた。東京都立中央図書館特別文庫室所蔵