絵馬の歴史 : 合格、恋愛、安産…小さな板に願いを託す
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かつて神への捧げものだった馬
日本人は馬を「神の乗り物」として神聖視し、神社に馬を奉納する信仰があった。大きな神社には、神が移動する際に乗るといわれる神馬(しんめ)の厩舎があった。(現在でも一部の神社には存在する)
生きた馬を奉じることができるのは、飼育または購入する財力がある高い身分の人に限られた。そのため、土や木、わらなどで作った人形「馬形」を奉納するようになり、さらに、簡略化して板に馬の絵を描いて奉じるようになった。これが絵馬の起源である。
「絵馬」という文言が最初に記録された文献は、平安時代の漢詩文集『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)だった。1012(寛弘9)年の条に、「色紙絵馬三匹」とある。さらに、さかのぼって8世紀頃には絵馬を奉納する習慣があったようだ。
静岡県浜松市の伊場遺跡からは、1972年に奈良時代(710~794年)の絵馬が出土。また、2012〜13年、岡山市の鹿田遺跡の発掘調査からも、同時代のものと考えられる馬を描いた板が発掘された。
伊場遺跡の絵馬は横が約9センチ、縦が約7センチ。鹿田遺跡は横が約23センチ、縦が約12センチ。私たちが現在よく目にする絵馬の原型といっていいだろう。
描かれるモチーフが多様化した室町時代
『ものと人間の文化史12 絵馬』(岩井宏美 / 法政大学出版局)によると、当初は神社だけに奉納されていたが、室町時代初期になると、寺院にまで広く伝わり始めたという。室町中期には描かれるモチーフも多様化する。
例えば、滋賀県甲賀郡の白山神社に伝わる1436(永享8)年の絵馬には、三十六歌仙(36人のすぐれた歌人)が描かれ、和歌の名人にあやかって、素晴らしい歌を詠みたいとの願いが込められている。
石川県七尾市の大地主神社に伝わる1459(長禄3)年制作の『花車婦女遊楽図絵馬』は、武運長久と、女性の美しさを保つ大願が、ここにあるだろう。
戦国時代に入ると、奈良・興福寺に1521(大永元)年の文殊菩薩(知恵)、広島の厳島神社に1552(天文21)年の弁慶と牛若丸(主従の契りと戦勝祈願)、由来は不明だが1554(天文23)年頃の優填王(うでんのう / 釈迦に帰依した古代インドの王 / 敬虔な信仰を表す)など、新しいバリエーションが続々と現れた。
時代が進むにつれ、人々の願いが多様化し、絵馬に現れたのである。
絵馬が一年中販売されるようになった明治時代
絵馬の大型化も進んだ。神社には絵馬堂が建立され、これまでより大きな扁額形式のものが入り口上部に掲げられるようになった。これを「絵馬額」という。
ことにきらびやかな装飾品が多く見られる安土桃山時代(1568〜1600年頃)は、大きくて派手な絵馬が多く制作された。奉納したのは上級の武士たちだ。
こうした絵馬文化が花開くのが江戸時代で、「絵馬師」と呼ばれる絵描き専門の職人も出現した。民間信仰に欠かせない存在としてより広く伝わり、大衆に愛された。初午に合わせて制作した絵馬は飛ぶように売れ、明治期に入っても人気は衰えなかった。
変化が現れたのは、明治時代中期。1892(明治25)年、子宝・安産祈願の神として知られる水天宮の絵馬が1日300枚売れたと、読売新聞が報じている。以降は、1年中何かしらの絵馬が販売されるようになる。
日清・日露・第一次〜第二次大戦の戦時中は、戦勝と武運を願う者が奉納した。戦後は生活の安定を願う金運、良縁に巡り合うための縁結びと続く。毎年、初詣の時期に干支に合わせて絵を変える “商売熱心” な神社仏閣も増えた。
極めつけが1960年代、第一次ベビーブーム世代が高校・大学に進学する受験戦争の到来だった。天神様に合格祈願の絵馬を奉納するブームが起き、以来、絵馬は受験シーズンの風物詩となった。
日本人で絵馬を奉納したことがないという人は少ないぐらいではないだろうか。日本人の宗教観を表すことわざ「困ったときの神頼み」を、これほど的確に表したツールはない。しかし、そもそもは神馬を奉納できなかった庶民が神に役立ちたい一心から生み出した、敬虔な奉物(たてまつりもの)だったことも、忘れてはならない。
〔参考文献〕
- 『ものと人間の文化史12 絵馬』岩井宏美 / 法政大学出版局
- 『馬と人の江戸時代』兼平賢治 / 吉川弘文館
バナー画像 : 湯島天神に奉納された絵馬(PIXTA)