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源平合戦の超・基礎知識

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「源平合戦」は一つの戦いを指す言葉ではない。一般的には、1180年の後白河法皇の皇子・以仁王による平家追討の令旨から、1185年に壇之浦の戦いまでの6年間の内乱を指す。源平合戦によって、栄華を極めた平家の一族は壇之浦で滅び、源頼朝を中心とする坂東(関東)の武士による鎌倉幕府が樹立された。

1180年4月 以仁王が平家追討の令旨

治承4(1180)年4月 源頼朝、木曽(源)義仲に以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨がくだる。

1180年8月 頼朝挙兵 / 石橋山の合戦

源頼朝が北条家を後ろ盾に反平家の兵を伊豆に挙げるも、石橋山(現在の小田原市)の合戦で惨敗。この時、頼朝の窮地を救った敵方の梶原景時は、頼朝に重用され、後に「鎌倉殿の13人」の1人となる。

頼朝は、安房(現在の千葉県)に逃れた後、千葉常胤(ちばつねたね)、上総介広常(かずさのすけひろつね)らの支援を受けて勢力を増強して進撃。同年10月に相模国鎌倉入りし、本拠を構えた。

1180年10月 富士川の戦い

平清盛が派兵した源氏追討軍と、迎え撃つ頼朝軍が駿河国の富士川で対峙(たいじ)。源氏の大群に恐れをなした平氏が戦わずして敗走。(飛び立った水鳥の羽音に驚いて逃げたとの説もあり)

1183年5月 倶利伽羅(くりから)峠の戦い

木曽義仲率いる源氏軍が、深夜に数百頭の牛の角に松明(たいまつ)を付けて4万騎余の軍勢とともにも、倶利伽羅山中(現在の石川県津幡町)の平家軍本陣に突入。奇襲に混乱した平家軍は、逃げ道を求めるうちに次々と谷に転落していった。

1183年10月 水島の戦い

屋島(高松市)を拠点に態勢を立て直しつつあった平家を追討しようと軍を進めてきた木曽義仲が水島(現在の岡山県倉敷市)で激突。海上戦を得意とする平家が勝利した。(この戦の最中に日食があり、源氏軍が動揺したとの説もある)

1184年2月 一の谷の戦い

源氏が一の谷(神戸市)の平家軍を攻撃。義経が急坂から平家軍背後を攻撃。平家軍大混乱で海上へ敗退。源氏が山陽道の平家の拠点を次々破る。

1185年2月 屋島の戦い

一ノ谷の戦いで敗れた平家は、屋島(現在の高松市)に撤退。海側からの源氏の攻撃に備えていたところ、義経軍は摂津(現在の大阪府)から阿波(現在の徳島県)に渡り、陸路で背後から平家軍を急襲。平家は海上へと逃げ、下関に落ち延びた。

1185年3月壇ノ浦の戦い

源平合戦の最後の舞台。序盤は平家優勢だったが、潮流の変化が源氏に味方して次第に形成が逆転した。追い詰められた平家一門は次々と入水。平教経は、源氏の大将・義経を道連れにしようとしたが、義経は次から次へと船を飛び移って、難を逃れた。

壇ノ浦古戦場跡にある義経と平知盛の像。後ろは本州と九州をつなぐ関門橋(撮影 : HASHINO Yukinori)
壇ノ浦古戦場跡にある義経と平知盛の像。後ろは本州と九州をつなぐ関門橋(撮影 : HASHINO Yukinori)

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