防災対策は進化したのか:阪神大震災から30年

気象・災害 防災

1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災(以下、阪神大震災)が発生した。死者6434人。当時、神戸市広報課長だった櫻井誠一氏は、災害対策本部の中核を担い、その後、生活再建本部次長、市民参画推進局長として被災者の生活再建に奔走し、今も防災・減災対策について発信し続けている。

能登地震でも同じ課題

昨年12月の初めだった。防災の研究者である友人から意見を求めるメールが来た。1月1日に起きた能登半島地震 に関するもので、かなり立腹の様子であった。

怒りの対象は、能登半島地震の課題を検証した政府の有識者による会議「令和6年能登半島地震を踏まえた災害対応の在り方について」と題する166ページにも及ぶ報告書だ。彼の主張は、能登半島地震における災害対応の初動から避難所開設などに至る災害救助について、「阪神大震災以降、新潟中越、東日本大震災、熊本など大規模災害を経験して、その都度同じような課題を書いている」「教訓は生かされていないのか」「政府をはじめ自治体は学んでいないのか」という趣旨であった。報告書が悪いというのではなく、同じことを書かなくてはならない状況に対するやるせなさの吐露だ。

報告書を読んでみると、以下の記述がある。

防災対策の効果を最大限発揮するためには、その土台として、 1. 大規模災害に総力戦で臨むための「国民の防災意識の醸成」、2. 地域防災計画の見直し等による「各種計画の実効性の向上」、3. 災害対応力の底上げに向けた「各種制度やマニュアルの整備・習熟、研修、訓練の実施」、4. 災害対応の効率化・高度化に向けた「防災DXの加速・新技術等の活用推進」 に、一層取り組んでいくことが必要不可欠である──。4の防災DXなどの活用推進以外は、阪神大震災以降の地震災害のたびに言われ続けていることである。

筆者も避難所の問題やトイレの問題について能登半島地震が初めてのように報道されているのを見て、阪神大震災での情景を思い出し、いまだに同じことが繰り返されているのかと嘆息していた。

1995年境に地震頻度が5.7倍に

日本は世界の中でも、自然災害のリスクが高い国とされている。気象庁が公開している「震度データベース」から阪神大震災以前と以降30年間のなんらかの被害が出たと思われる震度5弱の地震を検索してみると、阪神大震災前の30年間で、震度5弱以上の地震というのは72。ところが阪神大震災後、これまでに発生した震度5弱以上の地震は410ある。この数は、地震観測の精微化による影響もあり単純な比較はできないが、日本列島の地震活動の歴史等からも、阪神大震災以降、日本は地震の活動期に入ったと思う。

また、大きな被害をもたらす震度7の地震は、この震度階級が採用された1949年以降今日までに阪神大震災、新潟中越、東日本、熊本2回、北海道の胆振東部、能登半島の7つあり、阪神大震災以降で4~5年に1回は起こっている。東日本以外は内陸型の地震である。今、政府、自治体、私たち国民は大きな地震がどこかで起こる時間軸に生きていると自覚し、備える必要がある。

震度7を記録した地震

台風を想定して作られた災害対策基本法

日本の災害に関する法制度は「災害に遭えば遭うほど成長していく」という言葉があるように、災害があるたびに新しい法律ができ、改正されており、その時代や社会情勢に合うものになりつつある。ただし、悲しいことに当該災害には間に合わないのが常であり、その被災者は複雑な思いに駆られる。

日本の災害に関する法体系は、災害全般に対する「災害対策基本法」を基盤に、防災組織や防災計画、災害予防、災害応急対策、災害復旧など時系列で考え方が整理されている。災害対策基本法は、1959年9月の伊勢湾台風を契機として法整備されたもので、災害の発生を予防し、災害の発生にあっては被害の軽減化を図り、応急対策を実施、復興につなげるものとして、国の中央防災会議が基本計画を作成し、都道府県・市町村の防災会議が地域防災計画を作成することになっている。

この法律が、台風災害を契機としたため、高度に発達した都市における大規模地震災害に適用できなかったのは言うまでもない。このため、阪神大震災後に多岐にわたって改正された。神戸市においても被災地の経験を生かして、ほぼ台風被害しか想定していなかった防災計画を全面的に見直し、地震災害を含めた新しい地域防災計画を作り上げた。神戸市の地域防災計画は、全国の市町村のモデルとして採用されていき、地震防災について、多くの市町村が阪神大震災の教訓に基づき、取り組みを進めているものと考えていた。

震災直後、神戸市内で発生した火災=1995年1月17日(ロイター)
震災直後、神戸市内で発生した火災=1995年1月17日(ロイター)

コンサルが描いた画一的な対策

2011年3月11日に三陸沖を震源として起こった地震と巨大津波による災害は、死者・行方不明者2万人を超える人的被害を出し、福島県における原発避難など大規模・広域災害であった。阪神大震災とは異なった被害の様相を見せ、地震による被害というよりも津波による被害で、1100年以上前の869年に起きた貞観地震に類似していると言われている。まさしく、想定外の津波災害であった。

この災害を契機に災害対策基本法は再び大幅に改正されることとなった。

東日本大震災直後、筆者は神戸市からの派遣で被災地支援に入って、阪神の経験からさまざまな助言をした。その際に自治体の地域防災計画を見る機会があったが、神戸市が作成した地域防災計画をそのまま焼き映したかのような内容に驚いた。どうも防災コンサルタントが作成したものをそのまま、その地域の防災計画にしていたようだった。小さな市であるが故に、地域住民と一緒になって災害の歴史を調べ、議論して作り上げたものではなく、形式に流れている実態を見たのであった。

これは行財政改革による自治体職員の減少により、防災対策に割く人員も3~4人が限度という実態に主な原因があると思う。

つまり、いくら教科書的に良い計画を策定しても、地域に合った実践活用がなされていなければ、絵に描いた餅に過ぎないのである。

能登半島地震においても同じことが起こっていたのではないかと考えると同時に、どのようにすれば災害にあった地域の体験を全国各地に伝え、被害を小さくできるのか、被災後の復旧・復興のための道筋や課題を伝えることができるのか、阪神大震災を経験した私たちの使命とも言える。

求められる地域に合った長期ビジョンの策定を

阪神大震災から30年、壊滅的な状況下で暗闇に沈んでいた神戸は、そのことがうそであったかのように、現在では夜景の美しい街を演出している。

震災前の人口が152万人だった神戸市は震災後、10万人減少していたが、5年後には149万人に回復、10年後には152万人、20年後には153万人となっている。産業についても、震災直後は復興需要があり、その後は新しい医療産業の誘致などで、構造転換をしながら回復している。

海側から見た神戸の夜景。震災前の華やかさを取り戻した(筆者撮影)
海側から見た神戸の夜景。震災前の華やかさを取り戻した(筆者撮影)

このように神戸市が早期に復興したのは、震災前からの産業構造転換など抱えていた課題を踏まえて、長期ビジョンを策定していたことが挙げられる。被災後に策定した復興計画の中身は、都市の長期ビジョンを見据えてのものであり、スピード感を持って取り組んだことが大きい。災害は、その街の弱点をあぶり出すと言われる。災害の前から抱えている課題をどのように克服するかのビジョンがあるかないかで復興のスピードが変わってくるのだとつくづく思う。

一方で、日本全体の少子高齢化、東京一極集中は進んでおり、結果として能登半島被災地なども指定されている「過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法」による過疎市町村が2022年現在、全国1719市町村のうち885と半数を超えている現実と向き合いながら防災や被災地復興というものを考えていかなければならない状況になっている。

今、国では防災庁の設置に向け準備室が設置されている。発足式での首相の訓示では、「専任の大臣を置く」「防災業務の企画立案機能を抜本的に強化する」「災害対応のエキスパートをそろえた事前防災の組織を目指す」とされた。期待をするところではあるが、何よりも国の長期ビジョン、地域課題を踏まえた上での組織であってほしい。

バナー写真:地震で横倒しになった阪神高速道路=1995年1月17日、神戸市東灘区(時事)

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