自民派閥の行く末:「党中党」体質を克服できるか

政治・外交

派閥ぐるみの裏金問題への対処策として、自民党の「派閥解体」が進んでいる。岸田文雄首相が先陣を切る形で、党内6派閥のうち4派閥が解消を決めた。ただし、骨がらみである自民党の体質が容易に変わるとは思えない。その場しのぎの偽装に終わるなら、3度目の野党転落があり得る。

不人気首相による「独断解散」

今回、自民党の派閥をめぐる「政治とカネ」の問題が浮上したのは、3カ月前の2023年11月18日であった。自民党の5派閥の政治団体が政治資金パーティーによる収入を政治資金収支報告書に記載していなかったという内容の告発状の提出を受けて、東京地方検察庁特別捜査部が事情聴取を開始していることが判明した。

その後、岸田文雄内閣の要である松野博一官房長官ら、自民党安倍派(清和政策研究会)所属の国会議員のパーティー資金還流による裏金問題が表面化する。岸田首相は12月半ば以降、安倍派の4閣僚や主要党役員らを一斉に更迭した。

24年1月に入って、岸田派(宏池政策研究会)からも収支報告書不記載による元会計責任者の政治資金規正法違反(虚偽記入)容疑が露見する。歴代の自民党首相の中でも強い派閥執着傾向で知られた岸田首相は、就任後も派閥会長兼務を続けてきたが、1月23日、発足後66年超という党内最長派閥を、ほぼ自身の独断で解散した。

自民党では、所属国会議数で党内第4勢力の岸田派とともに、容疑者が出た第1勢力の安倍派、第5勢力の二階派が解散を決める。第6勢力の森山派も同調した。第3勢力の茂木派では、幹部議員の派閥離脱が相次ぎ、会長の茂木敏充幹事長は1月29日、「派閥としては解消。新政策集団に」と表明した。

第2勢力の麻生派を除き、各派は表向き派閥解消に動き始めた。最大の要因は「国民の厳しい視線」だろう。メディアの世論調査では、23年11月以降、内閣支持率の大幅下落、自民党支持率の低迷が顕著だ。特に時事通信の1月調査の自民党支持率は、同社の1960年以降の調査で、野党時代を除いて最低の14.6%という記録的な低率となった。

衆議院議員の任期満了は2025年10月で、1年8カ月以内に次期衆院選が訪れる。次期参院選は25年6~7月だ。次の衆参選挙に対する自民党議員の危機感は想像以上に強い。

多くの国民は今、「票は旧統一教会頼み、カネはパーティー収入による裏金頼み」という自民党の惨状を実感している。支持層や無党派層の間で、急速に自民党離れが進行中と見られる。自民党の議員や次期国政選挙の立候補予定者はその点を皮膚感覚で感じ取り、その悲鳴が自民党各派に派閥解消を促していると見て間違いない。

8派閥合体が自民党の原点

自民党の結党は68年前の1955年11月で、党内に「8個師団」と呼ばれた8派閥と、ほかにいくつかの小グループが併存した。と聞けば、結党後に党内に派ができたと思いがちだが、そうではない。前身の旧自由党と旧日本民主党とも、実態は派閥の連合体で、保守合同によって、「8個師団」を中心とした派閥が合体して自民党を作ったのだ。

1955(昭和30)年11月15日、日本民主党と自由党の保守2党が合同大会を開き自由民主党を結成した。衆院298、参院115人の戦後最大の国会勢力となり、保守と革新の二大政党が対抗する「55年体制」がここからスタートした(共同)
1955(昭和30)年11月15日、日本民主党と自由党の保守2党が合同大会を開き自由民主党を結成した。衆院298、参院115人の戦後最大の国会勢力となり、保守と革新の二大政党が対抗する「55年体制」がここからスタートした(共同)

鳩山一郎元首相の下で単独政権与党として誕生した自民党は、93年8月の非自民8党派連立による細川護煕内閣の誕生までの約38年、事実上の長期1党政権体制を築いた。その時代、93年の衆院選まで、衆議院の選挙制度はずっと中選挙区制(基本は定数3~5)で、同じ党が一つの選挙区で複数の候補者を擁立するケースが多かった。派閥はこの制度の下で「党内党」として機能してきた。

70~80年代は派閥全盛時代だった。形の上では日本社会党との自社両党による2大政党政治体制だが、政権交代はなく、代わりに自民党は、党内での首相争奪という「疑似政権交代」を演出し、国民の「政権交代なき政党政治」への不満を和らげるという手を使った。派閥はその局面で「党内党」として「疑似政権交代」での主役の役割を担った。

93年に初めて野党に転落したことで、自民党の派閥は「冬の時代」を迎える。88年に噴き出したリクルート事件に続いて、92年の東京佐川急便事件の発覚がきっかけで、94年に政治改革関連法が成立した。衆議院の小選挙区・比例代表並立制の導入と、政党助成資金制度の新設が実現し、「派閥の終わり」が始まったといわれた。

併せて政治資金規正法も改正され、企業・団体からの政治家個人向けの献金が禁止となる。99年の改正で、資金管理団体向けも禁止された。

だが、抜け道があった。政治資金パーティーは20万円以下の購入者を収支報告書に記載する必要がなかったため、一気にパーティー集金方式が横行するようになる。こうして派閥は「冬の時代」もしぶとく生き延び、現在まで約30年、党内に根を張ったまま自民党を下支えしてきた。

今回、ついに総裁派閥の岸田派、最大派閥の安倍派などが派閥解消に踏み切るという新事態となった。といっても、自民党の歴史を見ると、派閥解消の動きは初めてではない。

「派閥解消・復活」の繰り返し

自民党で派閥解消が初めて取り上げられたのは、池田勇人首相(宏池会創始者)の時代の1963年であった。党の組織調査会が「派閥解消」の答申を出したが、実行されなかった。

派閥解消を最初に実行に移したのは首相時代の福田赳夫氏である。「三角大福中」(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田、中曽根康弘の各氏。いずれも元首相)による「不信と怨念の派閥抗争」を経験して政権に就いた福田氏は、就任直後の77年1月、進んで派閥解消を決め、福田派を解消する。旧田中派など党内の9派が形の上で派閥解消を実行した。

ところが、78年12月、福田内閣が終結し、大平首相に代わると、派閥が復活した。大平氏と次の鈴木善幸首相は、共に宏池会(大平派、鈴木派)会長兼任のまま首相を務めた。

その後、93年に下野した自民党では翌94年、党の改革本部が「派閥解消」を答申した。全5派が派閥解消を実行し、派閥事務所を閉鎖した。自民党は94年6月、村山富市首相を擁して与党に復帰する。96年1月の村山内閣崩壊後、橋本龍太郎首相の登場で2年5カ月ぶりに「自民党首相」がよみがえったが、表向き派閥は解消状態で、「政策集団」の名の下で実質的に派閥活動を行う「隠れ派閥」の時代が続いた。

98年7月、首相が橋本氏から小渕恵三氏に交代する。派閥が復活し、「政策集団」ではなく、小渕派(平成研究会)、加藤派(宏池会。会長は加藤紘一元幹事長)、森派(清和政策研。会長は森喜朗元首相)など、再び派閥を名乗るようになった。

解消に挑戦して失敗し、そのつど復活を許してきたのが自民党の派閥の歴史だが、なぜ派閥が存在し続けるのか。最大の理由は、権力闘争と背中合わせの政治の世界における「数の力」である。「自民党にとって派閥は必要悪」と評する声もある。

一方で、派閥の効用も否定できない。党内での派閥間の競争は、政策論争の場合、党の活性化につながる。それだけでなく、国民の間の多様な価値観を認め合う日本社会では、少数意見も含め、幅広い民意を吸収して実現を図るといった面で、自民党内の各派が党に代わってその機能を果たすことがあったのも事実だ。ほかにも、派閥による党内の権力分散は、党執行部による党内独裁体制への傾斜を阻止してきたという効果もあった。もう一つ、政治家の人材の発掘、育成、活用でも、派閥は一定の役割を担ってきた。

失敗すれば3度目の野党転落も

とはいえ、派閥の弊害はそれ以上に大きい。「数の力」と資金力で党を私物化し、政権をコントロールする。派閥の内部はボス支配で、国民からは見えない裏舞台でのボス同士による闇の政策決定が常態化し、「不透明政治」という悪評が付きまとった。

自民党は今回、結党後3回目の派閥解消に踏み出した。「3度目の正直」で今度こそ派閥政治との完全決別という「解党的出直し」を果たすのか、それとも毎度おなじみの「解消・復活」を繰り返すのか。今回もその場しのぎでやり過ごそうとすれば、いずれ結党後3度目の野党転落という民意の鉄槌が下る日が訪れても不思議ではない。

バナー写真:左から自民党の派閥解消を表明した岸田文雄氏(岸田派)、塩谷立氏(安倍派)、二階俊博氏(二階派)、森山裕氏(森山派)=二階氏のみロイター、そのほかは時事

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