揺らぐ「相撲部屋」制度―入門者減が招く大相撲の危機とは
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江戸中期に誕生した「相撲部屋」
国技といわれ日本の伝統文化でもある相撲。その起源をたどると、古事記(712年)や日本書紀(720年)に登場する神話にさかのぼる。
古来、農作物の収穫を占う祭りの儀式として行われ、のちに宮廷の行事になるが、鎌倉時代から戦国時代にかけては、武士の戦闘の訓練として相撲が盛んに行われた。
江戸時代に入ると、相撲を職業とする人たちが現れ、寺社の本堂などの造営・修復に必要な資金を捻出するための「勧進相撲」が全国で開催されるようになる。やがて勧進相撲は営利を目的とした興行に変容し、江戸・京都・大阪が中心地となる。
現在につながる相撲部屋は、江戸中期に誕生した。
京都、大阪に後れを取っていた江戸の相撲集団だが、宝暦年間(1751〜64年)には、興行を運営する年寄(親方)衆が集まり、相撲会所(日本相撲協会の前身)を創設。当初、相撲部屋はこの相撲会所を指していたが、力士を養成する年寄の自宅も相撲部屋と呼ばれるようになった。
こうして組織が確立されると、次第に将軍のお膝元である江戸が相撲興行の中心となっていった。ちなみに、天明年間(1781〜89年)にかけて、江戸相撲の番付に記載された年寄名跡は、以下のように38家存在する(現在は105)。
雷(いかづち)、伊勢ノ海、井筒、入間川、浦風、音羽山、尾上、追手風、大山、春日山、片男波、勝ノ浦、清見潟、桐山、木瀬、粂川、九重、佐野山、佐渡ヶ嶽、白玉、錣(しころ)山、玉ノ井、立田川、玉垣、田子ノ海、楯山、立川、出來山、友綱、常盤山、鳴戸、花籠、浜風、二十山、藤島、間垣、武蔵川、若松。
全員が部屋持ち(師匠として相撲部屋を経営する年寄を「部屋持ち親方」、相撲部屋に所属して力士の指導に当たる年寄を「部屋付き親方」と呼ぶ)だったかどうかは不明だが、江戸時代は多くの年寄が弟子を育成しており、自分の名跡を継がせていた。相撲部屋は江戸の各所にあったが、年2場所の本場所興行が両国の本所回向院と定められた1833年以降は、必然的に両国界隈に集まるようになっていった。
江戸時代はいわゆる「お抱え」といわれ、各大名の庇護を受けている力士が多かった。所属は相撲部屋というより「何々藩」というのが実情で、相撲部屋における師弟関係は、技術面の指導や監督、そして身分保障が主だった。当時のお抱え藩と相撲部屋の力関係は、藩の方が優位であり、江戸相撲では、今では考えられない同部屋同士の対戦はあっても、同じ藩同士の対戦は絶対に組まれなかった。
同系統の部屋が集まり一門を形成
明治維新を迎えると、文明開化の風潮の下、相撲は「野蛮なスポーツ」とみなされた。当然、人気は低迷したが、相撲会所は江戸相撲を東京相撲と改称し、年2回の回向院での本場所開催を死守。相撲部屋は大名の抱えを解かれた力士たちを預かり、力士育成システムが一本化された。
当時は稽古場を備えていなくても相撲部屋として認められていた。1909年、東洋一の規模を誇るとうたわれた旧両国国技館が開館。この頃の相撲部屋数は47と現在とほぼ同じだが、稽古場がある部屋はわずか11だった。
稽古場がない相撲部屋の力士は、土俵がある同じ一門の部屋で稽古に励んだ。
「一門」とは、相撲部屋が集まったグループを指す。
たとえば、A部屋の力士が引退し、B部屋を興した場合、A部屋とB部屋は同系統となり、こうして広がっていった集団が一門だ。
1950年頃までは、現在のように部屋経営の全経費が相撲協会から支給されていたわけではなく、「組合」と呼ばれる一門別に自主営業で地方巡業を行い、その収入で各部屋の経営は成り立っていた。巡業収益の多い一門に属するか否かは死活問題であり、一門ごとに看板力士を育てる競争意識が働いていた。
58年に年6場所制が始まり、巡業が大合併となって以降も、合同稽古や冠婚葬祭などの付き合い、相撲協会の理事選挙などで一門のつながりは続いている。いずれかの一門に属することが義務付けられており、現在は出羽海、二所ノ関、時津風、高砂、伊勢ヶ浜の5つの一門がある。
ちなみに稽古場のない相撲部屋は、86年に高砂部屋に吸収合併された大山部屋が最後で、現在は認められていない。相撲部屋の数は2004年には史上最多の55部屋を数えたが、現在は45部屋となっている。
「次代を担う人材が集まらない」―嘆く親方たち
相撲部屋は通常、師匠個人の住宅と力士の稽古場を兼ねている。つまり、師匠と弟子が寝食を共にする場だ。力士はいずれかの相撲部屋に必ず所属しなければならず、師匠の死去や定年などで部屋を継承できなくなった場合を除き、移籍は認められない。また、力士のほかに部屋付き親方や行司、呼び出し、床山なども在籍している。
相撲部屋の最大の裏方は、師匠夫人である「おかみさん」だろう。金銭面の管理、激励会などのパーティーの手配、後援者との付き合いのほか、全力士の母親役、しつけ役も務める。
このように大相撲の根幹をなす相撲部屋だが、行く末を憂える声が若い親方たちを中心に高まっている。「次代を担うべき人材が集まらなくなっている」と彼らは口をそろえる。
深刻なのは新弟子数の減少だ。昨年は年間で53人しか集まらず、1958年に年6場所制になって以降の最少記録を更新した。
1955年から2005年までの51年間で、年間の新弟子数が100人を切ったのは3回だけ。200人以上は3回、150人以上は21回もある。それが2006年から2023年まで18年連続で100人割れが続いている。
日本相撲協会は2001年、新弟子検査の合格基準を従来の「身長173cm以上、体重75kg以上」から「身長167cm以上、体重67kg以上」まで緩め、その後、中学卒の春場所に限っては、165cm、65kg以上でも合格とした。そして昨年秋場所には、ついに身長、体重制限を撤廃した。
近年の若者の体格向上の流れに逆行するように、基準を緩和し続けているのにも関わらず、新弟子数は減り続けているのだ。
当然のことながら、力士の総数も減少傾向にある。今年初場所の番付表に載った力士数は599人。1979年春場所(585人)以来45年ぶりに600人を割り込んだ。
力士数の減少は各相撲部屋の経営を直撃する。なぜなら、各部屋には相撲協会から力士1人当たりある程度の金額が養育費として支給されているからだ。
弟子数を減らさないために、出世の見込みのない力士をいつまでも抱えて辞めさせない──こうした傾向が相撲界全体を覆っている。本来「若い衆」とは、幕下以下の10代や20代の力士のことを指すが、以前はほとんど存在しなかった30代、40代の若い衆(?)が激増している。相撲部屋で年齢を重ねると稽古もほとんど行わず、居心地が良くなる半面、転職が難しくなる。自ら辞めない力士も問題だが、養育費目当てで辞めさせない親方側にも問題がある。
「土俵には金が埋まっている」はもはや死語?
角界には昔から「土俵には金が埋まっている」という格言がある。稽古に励んで出世すれば、高収入を得られるという意味だ。元横綱・初代若乃花の故・二子山親方も弟子を奮起させるために、よく口にしていた。
その弟で、若貴兄弟の父である元大関・初代貴ノ花は、水泳100mバタフライで中学新記録を作り、1968年メキシコ五輪の候補選手だった。それでも「金メダルではメシは食えない」という名言を残し、角界入りを決意。兄が師匠を務める二子山部屋に入門した。
ところが──体が大きく、運動能力に秀でた若者がスポーツで生計を成り立たせるには、野球か相撲しか選択肢がなかった時代とは状況が一変した。
サッカー、ラグビー、バスケットボールなどさまざまなスポーツがプロ化し、しかも大相撲より待遇面で恵まれている。アマチュアスポーツでもオリンピックで金メダルを取るような活躍をすれば、その後の生活はかなり保障される。
現在はスポーツの多様化に加え、少子化に拍車がかかり、好素材の若者を各スポーツで取り合う状況になっている。
場所ごとに支給される報奨金という能率給があるとはいえ、最高位の横綱でさえ月給は300万円。億単位で稼ぐことがなかなか困難な上に、土俵で大けがを負っても何の保証もなく、大きく番付を落としてしまう現在の大相撲にあって、人材集めに苦労するのは自明の理だ。年6回の本場所で、15日間戦った幕内優勝賞金がわずか1000万円では、他のスポーツに比べてあまりに見劣りがする。
それでもまだ、月給が支給される十両以上の関取が生活に困窮することはない。だが、力士の9割近くを占める若い衆を取り巻く環境は、かつては機能していたが、現代においては劣悪といえる。
減った「ちゃんこの味が染みた」関取
幕下以下の力士は衣・食・住を部屋が保障してくれるものの、場所ごとにお小遣い程度のお金が支給されるだけで、基本的には無給。そして付け人として一日中、関取衆や親方たちの身の回りの世話を努めなければならない。毎日の料理当番(ちゃんこ番)も骨が折れる仕事だ。
関取に昇進すれば個室が与えられるが、幕下以下は寝る時も含め、大部屋での共同生活となる。一人っ子が多く、多くの子どもが小さい頃から自分の部屋を与えられている中、相撲部屋はプライバシーというものが全く存在しない世界だ。
大相撲を目指す若者も、こうした長い間の下積み生活を嫌って、相撲強豪校の高校や大学に進学する傾向がみられる。そこで実績を上げれば、最下位の序ノ口ではなく、幕下や三段目の付け出しなどでデビューできるからだ。また、高校・大学で伸び悩んだら、別の道を選択することも可能だ。
かつて、相撲部屋の存在価値は、中学を卒業した若者を一から育て上げることにあった。しかし、中学卒で角界に人生を懸けようと思う人材は減り続け、相撲の基本技術を教える場はアマチュア相撲に移行しつつある。だが、それはそれで弊害も生む。
相撲用語には「ちゃんこの味が染みる」という言葉がある。これは、新米力士が稽古に励み、長い下積み生活を経て、肉体だけではなく精神面でも相撲界になじんできた様子を表す。
ところが、相撲の強豪校から入門した力士は「ちゃんこの味が染みる」前に関取になってしまう。ある“たたき上げ”の親方は、「着物のたたみ方やちゃんこを作れない関取が増えている」と現状を嘆く。大相撲にはスポーツだけではなく伝統文化の面もあるが、その担い手としても力士の本質が揺らぎ始めている。
「外国人枠」撤廃、待遇面の大幅アップも視野に
2023年納めの九州場所で大関霧島が優勝し、モンゴル人力士の優勝が100回となった。朝青龍が初優勝した02年九州場所からわずか125場所での達成だ。しかもあまり知られていないが、外国人力士は1部屋1人という制限下での快挙なのだ。お金の価値が違うモンゴルでは、来日して大相撲で成功することが最大の夢。今でも多くの有望な若者が角界入りの「順番待ち」をしている状態だ。
相撲のレベルを維持しつつ、若い力士の人数確保を目指すのなら、外国人枠を撤廃するのが一番手っ取り早い方法だ。ところがそうなると、琴欧洲や把瑠都のような欧州のレスリング経験者も入門してくる可能性もあり、横綱・大関や優勝を外国人力士にほとんど独占されるのは目に見えている。果たしてそれで、日本の国技としての体面を保てるのだろうか。
日本人力士の育成のためには、まず、他のスポーツより見劣りする待遇面のアップを図ることが不可欠だ。力士の頂点に立つ横綱・大関が破格の高収入でなければ、夢を抱いて角界に集まる若者がいなくなる。さらに関取だけではなく、幕下以下の力士にも給料を支給することも検討すべきだろう。
相撲部屋はこれまで幾多の試練を乗り越えて、日本古来の身体文化を伝え続けてきた。だが、長年続いてきたシステムが時代にそぐわなくなりつつある面は否めない。このままでは近い将来、相撲界は生き残りを懸けて、根本から制度の見直しを余儀なくされることになりそうだ。
バナー写真:二所ノ関部屋の部屋開きで、弟子や中村親方(中央左)と記念撮影する二所ノ関親方(元横綱・稀勢の里)。現役引退後は、早稲田大学大学院(スポーツ科学研究科修士課程)で学ぶなど、伝統を重んじながら新たな相撲部屋の運営に取り組んでいる(2022年6月5日、茨城県阿見町、代表撮影)共同