トリチウムの正しい知識が風評被害を抑える : 計画通りの海洋放出こそ安全で確実―福島第1原発処理水
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「分からないから怖い」お化けとトリチウム
処理水の放出が大きく取り上げられるようになるまで、「トリチウム」という言葉を聞いたことがなかった人も多いのではないだろうか。
私の研究者としての原点は、中学生の頃に始まったテレビアニメの「機動戦士ガンダム」だ。ガンダムのモビルスーツの動力である小型・高効率の核融合炉の実現に向けて、その燃料であるトリチウムをいかに安全に扱うかが、私の研究テーマの一つである。趣味は、各地の湧き水を訪ね、採取してトリチウム濃度を調べること。公私ともにトリチウムに深く関わる専門家として、できるだけ平易な言葉でトリチウムについての知識を伝えたいと思う。
お化けが怖いのは、お化けの正体が分からないからだ。トリチウムも同じで、正しい知識を持って向き合えば、過剰に恐れることはない。
WHOのガイドラインをはるかに下回る処理水
福島第1原発では、溶け落ちた燃料デブリを冷却するために水をかけ続けており、高濃度の放射性物質を含む汚染水が発生している。原子炉建屋内に流れ込む地下水や雨水も混ざり、1日に計100トンほどが生じている。汚染水は吸着装置を使ってセシウムとストロンチウムを重点的に取り除いた上で、多核種除去設備(通称ALPS)を通して、トリチウム以外の大部分の放射性物質を取り除いた状態でタンクに溜めている。これが「処理水」と呼ばれるものだ。
トリチウムは水素の同位体で、化学的な性質は同じだが、原子を構成する中性子の数が普通の水素よりも2つ多い。その分、不安定な状態のため、中性子の1つが電子を放出して陽子へと変化して、安定したヘリウムに変わる。この時に高速な電子=β線を放出する。ただ、トリチウムのβ線のエネルギーは放射線の中でも非常に小さく、紙1枚で遮断することができる。つまり、皮膚や容器の壁を通り抜けることができないので、外部被ばくの心配はない。
一方、人体中の水分にトリチウムが含まれると、体の内部から被ばくする。処理水の海洋放出で懸念されているのはこの点だろう。体の中のトリチウム濃度が高くなればもちろん問題だが、世界保健機関(WHO)は10000Bq/L(1リットル当たり1万ベクレル)のトリチウム濃度の水を飲んでも大丈夫だとガイドラインで示している。
福島第1原発の処理水は、最大でもWHOのガイドラインの6分の1以下の1500Bq/Lまで海水で希釈して放出する計画だ。つまり、塩分さえ取り除けば、放出前の水をそのまま飲んでも人体に影響はない。1年間トリチウム処理水を飲み続けたとしても、被ばく線量は大きくない。(海水なので、そもそも飲めませんが…)
さらにこれを海に放出する。海水の希釈効果は非常に大きいので、放出口付近から数キロメートルも離れれば、海洋や魚など海産物から処理水放出に起因するトリチウム濃度の上昇を見つけることは非常に困難だ。
トリチウム濃度(Bq/L) | 1年間継続摂取の被ばく線量(mSv/年) | |
---|---|---|
WHOの飲料水ガイドライン | 10000 | 0.15 |
カナダの飲料水中の濃度限度 | 7000 | 0.10 |
福島第1原発の処理水 | 1500 (最大値) | 0.022 |
飲料水の連邦基準(米国) | 740 | 0.011 |
1960年代の降水中の濃度 | 110 | 0.0016 |
EUの飲料水中 | 100 | 0.0015 |
現在の降水中 | 0.5 | 0.0000074 |
現在の海水 | 0.1 | 0.0000015 |
年間被ばく線量は防災指針に沿って、1日に水を2.25リットル摂取するものとして計算
世界中の原発からトリチウムは放出され続けている
トリチウムは核分裂反応により必ず生成するので、世界中のすべての原子力発電所や核燃料の再処理施設は通常運転時でもトリチウムを放出している。その量は、これから福島第1の処理水として放出されるトリチウムの量よりもはるかに多い。それでも、海洋中のトリチウム濃度は上昇していない。
世界の原子力施設からのトリチウム放出量(年間)
施設名 | 単位/兆Bq |
---|---|
ラ・アーグ再処理施設(フランス / 2018年) | 11460 |
セラフィールド再処理施設(英 / 2019年) | 479 |
ダーリントン原発(カナダ / 2018年) | 430 |
泰山第三原発(中国 / 2019年) | 238 |
月城原発(韓国 / 2019年) | 141 |
福島第1原発の処理水(年間最大) | 22 |
1945年〜1980年代に実施された核実験でも、大量のトリチウムが環境に放出された。
世界中の原発がトリチウムを環境に排出しても、海水中の濃度が上昇していないのは、核実験で排出されたトリチウム量が非常に大量だったため、新たに排出される量よりも、核実験当時のトリチウムが減少していく量の方が大きいからなのだ。
ちなみに、核実験が盛んに行われていた1960年代は雨水中のトリチウム濃度が非常に高く、1963年には110Bq/Lを記録した。日本の飲料水の90%は河川水に起因するので、その時代の水道水はトリチウム濃度が高かった。1966年生まれの私・鳥養も、幼少期にはトリチウム濃度の高い水を飲んで生活していたことになる。
着実に廃炉を進めるために必要なこと
今後、福島第1原発では、原子炉内に溶け落ちた燃料デブリの取り出しなど、廃炉作業が本格化する予定だ。そのためには、試料の分析用施設や、資機材の保管施設、事故対応設備の建設が必要となる。
現在の福島第1原発の敷地内は、処理水のタンクで埋め尽くされている。廃炉を進めるためには、処理水を放出してタンクを撤去し、次のフェーズに必要な施設を建設するためのスペースを確保するしかない。
最も深刻なレベル7と判断され、日本中を不安に陥れた事故であったことを考えれば、多くの人が東京電力に対する不信感を持つのは当然のことだ。処理水の放出が感情的に納得できないというのも、ある意味、やむを得ないという気はする。
しかし、処理水の放出は東電のためではない。福島が真の意味で復興するためには、着実に廃炉を進めることが必要であり、環境にも、人体にも影響がほとんどない処理水の放出を遅らせることは、復興を遅らせるだけである。
風評被害を減らしたい : 魚介のトリチウム濃度の分析に新手法
東京電力や政府がいくら安全であると説明を尽くしても、処理水の海洋放出が始まれば、一定の人は様子見で、魚の購入を見合わせるだろう。いわゆる風評被害は避けられない。
それを少しでも軽減するために、安全であるというエビデンス(証拠)の開示が重要になるが、食品安全性の確認のためのトリチウムの測定は、非常に手間と時間がかかる。公定法と言われる手法を用いて測定する場合、海水中のトリチウム濃度の測定に1週間以上、魚に含まれる水分のトリチウム濃度の測定に1カ月程度の時間を要する。しかし、水揚げして1カ月もたった魚を誰が食べたいと思うだろうか。
食品の安全性を確認するためには迅速なトリチウム濃度の測定が不可欠だと考え、学生たちと実験を重ねて「マイクロ波加熱法」を開発した。分かりやすくいえば、電子レンジを活用して魚の水分を効率的に回収する手法だ。この方法を使うと、海水中のトリチウム測定に30分程度、魚の水分のトリチウム濃度測定も1時間以内ですむ。水揚げから、店頭に並ぶまでの間に分析して、「安全」をうたうことができる。
スーパーや居酒屋が自信を持って提供し、消費者が安心して福島の魚を食べることができるよう、この分析技術を流通業界などで利用してもらいたい。そのためにも、特許は取得せず、トリチウム測定について分析講習会を開催するなど支援を継続するつもりだ。
私は、父親が福島県双葉郡川内村で勤務している時に生まれた。その頃のことは、小さくて記憶にないが、生まれ故郷である福島県が、安全で1日も早く復興することを願っている。そのために、科学者としての専門知識を、少しでも風評被害を減らせるように、役立てていきたい。
バナー写真 : 報道公開された東京電力福島第1原発の処理水放出設備。放射性物質トリチウムを含む処理水は海水と混ぜて希釈した後、この配管を通って海底トンネルに流れていく=6月26日、福島県大熊、双葉両町[代表撮影](時事)