「侍ジャパン」が次になすべきこと―日本球界に求められる世界への貢献
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「侍ジャパン」とはそもそも
日本の野球界は組織構成が極めて複雑だ。このため、統一した動きが取れないことが課題とされてきた。挙げてみると、まずプロは「日本野球機構(NPB)」、アマチュアの統括団体は「全日本野球協会(BFJ)」と分かれている。
BFJの傘下には社会人の「日本野球連盟」や、全日本大学野球連盟と日本高等学校野球連盟の上部団体である「日本学生野球協会」があり、他にも「全日本軟式野球連盟」や「全日本女子野球連盟」など数々の組織が存在している。
こうした日本の野球界を連携させ、プロとアマの垣根を取り払おうと、NPBとBFJによって結成されたのが、侍ジャパンを編成する「日本野球協議会」だ。
侍ジャパンとは、WBCに出場した日本代表だけを指すのではなく、このトップチームを頂点に、社会人、U-23(23歳以下)、U-21(21歳以下)、大学、U-18(18歳以下)、U-15(15歳以下)、U-12(12歳以下)、女子日本代表も含む、すべての世代の日本代表を総称するものだ。「NPBエンタープライズ」という会社がその運営に当たっている。
日本は各年代でトップレベルの成績を収め、世界野球ソフトボール連盟(WBSC)における野球の世界ランキングで、男女とも1位となっている。
第1回WBCの優勝監督で、侍ジャパンの特別顧問を務める王貞治さんは「プロとアマ、すべての野球界が結束し、野球界が一体となって、すべての世代で世界一を目指す。野球日本代表を通じて、日本中の人々に活力をあたえ、子供たちの夢や目標を育み、野球を通じて世界の平和や発展に貢献していくことが、野球日本代表の使命」と述べている。野球を通じての世界貢献は、強豪国としての使命だという気概が王さんの言葉にはにじんでいる。
「世界戦略」を着々と進めるMLB
一方の米大リーグ(MLB)は、世界戦略の一環として2006年にWBCを創設した。主催するのは、MLBとその選手会(MLBPA)によって設立された「WBCI」という会社だ。「World Baseball Classic, Inc.」の略で、この大会の運営を取り仕切っている。
サッカーのワールドカップが国際サッカー連盟(FIFA)の主催であるように、WBCも本来は国際的な競技団体が運営すべきだろう。しかし、野球界は歴史的にも米国中心であり、最もレベルの高い選手を抱えるMLBが強い発言権を持っている。五輪で野球が実施されてもメジャーリーガーは決して出場しないが、WBCはメジャーの主力級が顔をそろえ、名実ともに世界最高峰の大会となっている。
MLBの発展史を見れば、最初は黒人に門戸を開き、次いで中南米の国々から選手を受け入れた。さらに日本や韓国、台湾といったアジアの選手たちがメジャーの世界で活躍する時代になった。
WBCを通じ、野球はさらに欧州の国々へも広がりを見せている。その国出身の親を持つなどの条件を満たしたメジャーリーガーが、各国の代表チームに送り込まれ、野球になじみの薄い国の強化にも貢献している。今回の大会でチェコや英国がWBCで初勝利を挙げたのはその好例だ。
日本は野球を通じ途上国支援も
WBCの大会中、話題になった大谷翔平選手のインタビューがある。韓国の朝鮮日報などが伝えたものだ。「日本の子どもたちに野球の楽しさを伝えたいか」と聞かれてこう答えた。
「日本のファンもそうだし、台湾だったり韓国だったり、予選で今回は残念ながら負けてしまったとは思うが、僕らが勝っていって優勝することによって、『次は自分たちも』という気持ちになるんじゃないかなと思う」
侍ジャパンの活躍は、日本だけでなく、アジアの野球の発展にもつながる。そんな言葉を口にした大谷選手の視野の広さに、海外メディアも注目を集めたのだ。
日本も途上国支援として、地道な国際貢献を長く続けている。国際協力機構(JICA)の青年海外協力隊やシニア海外協力隊の隊員らを中心に、情熱を持った人たちが野球を広める活動に取り組んでいるのは貴重だ。
侍ジャパンのサイトでも、世界各地で野球の普及に尽力する日本人やその活動が取り上げられている。列挙すると、アジアではインドネシアやスリランカ、ネパール、タイ、香港、アフリカではジンバブエやタンザニア、ウガンダ、ケニア、中南米ではブラジルやコロンビア、ニカラグア、欧州ではブルガリアやセルビア、オセアニアではニュージーランドやフィジー、パラオといった国々や地域だ。中には日本人が監督として代表チームを率いる例もある。
「ムッシュ吉田」が残したもの
少し古い話になるが、阪神タイガースの監督を退いた吉田義男さんが、フランス代表監督を務めた話は今も語り草だ。その経緯は1997年に出版された『〝ムッシュ〟になった男 吉田義男パリの1500日』(川上貴光著、文藝春秋)に詳しい。同書からその一部を紹介したい。
吉田さんがフランスに渡ったのは、89年のことだ。85年に阪神を日本一に導いた後は成績が低迷し、監督を解任されて失意の中にあった。そんな時、日立フランスの社長だった知人から誘いがかかった。
渡仏を前に参加したのは、東京で開かれた「日米ベースボール・サミット」だった。MLBの前コミッショナーが「日本とアメリカが手を携えて世界中のすべての国々に野球の楽しさを伝え、よりいっそう普及に力を注いでいこう」と呼び掛けたことに吉田さんは刺激を受け、迷っていたフランス行きを決断した。
最初は「PUC(パリ・ユニベルシテ・クラブ)」というクラブチームの監督を引き受け、その後はフランス代表を率いることになった。野球が正式競技として実施される92年バルセロナ五輪や96年アトランタ五輪に向けて、当時は欧州でも各国がしのぎを削っていた。
フランスでは、サッカーやラグビー、テニスなどに人気があり、野球はマイナーな存在だ。しかも、個人主義の考えが強いフランス人に組織的な野球を教えるのは難しい作業だった。だが、吉田さんは雨の日もグラウンドに通って心を通わせ、欧州の上位をうかがうレベルにまでフランス代表を成長させた。
92年12月には思いがけない出来事もあった。日本の高校野球の選抜チームがフランスに遠征してくることになったのだ。フランス入りした高校生たちを前に、吉田さんはこうあいさつした。
「ぼくはフランスで、もう5年ほど野球を教えている。その割にフランス語はさっぱりで、いまだに日本語で、『さあ、ノックいくぞ』『もっと走らんか』とついやってしまう。でもこれでけっこう通じるんですよ。(略)野球はね、それだけで世界中どこでも、どんな国の人とでも心を通わすことのできる言葉なんだ。タイガースで優勝したこともぼくには大変な喜びだったけど、このフランスで、フランスの野球人とひとつになって野球にとりくむことも、それと同じくらいの喜びなんです」
吉田さんはアトランタ五輪の出場権が懸かった95年夏の欧州選手権までフランス代表監督を務めた。五輪出場は逃したが、それ以上にフランス人と触れ合った時間の方が貴重だったのかもしれない。
「野球」という言葉で人々を結びつけ
一昨年の東京五輪を最後に、野球は五輪の実施競技から外れた。今年で90歳になる吉田さんは、2024年パリ五輪でも野球を存続するよう、NPBにも協力を要請し、「世界の野球人が協力して(五輪競技として)存続させたい。実現すれば見に行きたい」と話していた。
残念ながら、五輪での存続はかなわなかった。だが、「野球」という言葉で人々を結びつける価値は失われることなく、新しい世代に受け継がれなければならない。日本球界には、世界の隅々にまで野球の魅力を届ける組織的な取り組みを期待したい。世界が注目した侍ジャパンの活躍は、そのきっかけになるはずだ。
バナー写真:第5回WBC1次リーグ・日本–チェコ。試合に敗れたものの、拍手で日本チームをたたえるチェコ代表の選手たち。アマチュア主体ながら真摯かつフェアなプレーで日本の野球ファンを魅了した(2023年3月11日、東京ドーム) 時事