日韓改善の良き前例となる「日英和解」:英人元捕虜の補償問題を解決した両国の知恵
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雪解けを迎えた日韓関係
第2次世界大戦中に日本に渡った韓国人の元徴用工が日本企業に賠償を求めた裁判で、韓国大法院(最高裁)は2018年、1人当たり8000万ウオン~1億5000万ウオン(約800万円~1500万円)の支払いを命じた高裁判決を確定させた。
日本政府は、元徴用工らの個人請求問題は日韓国交正常化を果たした1965年の日韓請求権・経済協力協定で解決したと主張し、被告の企業も賠償を拒否。元徴用工側は韓国内にある被告企業の資産を強制的に売却する手続きを進め、日韓関係は戦後最悪とまで言われた。
冷え切った日韓関係は、尹錫悦大統領の登場でようやく雪解けを迎えた。大法院判決で確定した日本企業の賠償を、韓国行政安全省傘下の「日帝強制動員被害者支援財団」が元徴用工側に支払うことで決着を図ったのだ。尹大統領が3月に訪日して岸田首相との首脳会談が実現し、両国関係が進むものと期待されている。
多くの死亡者を出した英国人捕虜
この日韓と同じ戦中期の問題で、両国の和解に参考となるのが、東南アジアで日本軍の捕虜となった英国人兵士への補償と謝罪をめぐる日英和解である。欧米連合軍の中で最も多く日本軍捕虜となったのは英国兵士で、1942年のシンガポール(英植民地)陥落などもあり約5万人を数えた。
王立英国退役軍人会によると、日本軍の捕虜となった英国兵士の死亡率は約25%で、4人に1人が亡くなった。ちなみにドイツ軍の捕虜となった英兵の死亡率は約5%で、日本軍捕虜の英兵に死者が突出して多かったことが分かる。その要因は、多くの犠牲者を出し「死の鉄道」との悪名もある「泰緬(たいめん)鉄道」(タイ―ビルマ=現ミャンマー=国境)の建設に日本軍が捕虜を大量動員したことにある。英兵捕虜3万人余が従事させられ、うち6900人余の死亡者を出したのだった。
日本はかつて捕虜を大事に扱うと言われたが、元捕虜や遺族は日本軍が捕虜を虐待したと訴え続け、この問題が戦後の「日英間のトゲ」となり、英国人の対日感情を悪いものにした。両国は皇室と王室があるから、戦争が終わったら両国関係が良くなったと考えるのは、日本人の大きな勘違いである。
元捕虜が補償と謝罪を求め東京地裁に提訴
『戦後和解』などの著書がある小菅信子・山梨学院大学教授(近現代史)によると、1971年の昭和天皇訪英は「サイレントウェルカム」と呼ばれ、英国では冷たい雰囲気の中で行われた。昭和天皇が植樹した木は何者かに引き抜かれ、ビルマで日本軍と戦った英貴族が歓迎晩さん会の出席を拒否した。昭和天皇が重体となり、亡くなられた(89年)際にも、英大衆紙を中心に辛辣(しんらつ)な天皇批判が展開された。
「英国の動向は当時、日本国内ではよく知られていなかったが、後に中国で起きた『反日騒ぎ』は、既に1970年代から英国で起きていた」と小菅教授は指摘する。生き残った捕虜には一度76ポンドがサンフランシスコ講和条約第16条(捕虜への償い)に基づき支給されたことがあったが、2、3カ月分の賃金にすぎず、納得できる補償額ではなかった。
ついに元捕虜団体の幹部ら7人が94年、日本政府に対し1人当たり1万3000ポンド(約210万円)の補償と正式謝罪を求めて東京地裁に提訴した。しかし、元捕虜の訴えは退けられた。
こうした動きに日本政府は配慮して、戦後50年に当たる95年の終戦記念日、村山富市首相が第2次世界大戦中にアジア諸国で侵略や植民地支配を行ったことを謝罪した「村山談話」について、同首相は「イギリス人捕虜も対象にしたものだ」と表明した。
問題解決のため本格的に動いたのは、97年に労働党内閣を樹立し、在任10年の長期政権を続けたブレア首相と、橋本龍太郎首相である。ブレア首相が就任間もない98年1月に来日すると、橋本首相は首脳会談で、元捕虜問題について日本政府が痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを持っていることを伝えた。両国には昭和天皇以来27年ぶりとなる天皇(現上皇さま)の英国公式訪問が計画されており、和解を急ぐ必要があった。
天皇の車列に背を向けて抗議
英大衆紙「サン」に首脳会談の同月、橋本首相の「日英は共に進まなければならない」と題した寄稿が掲載された。反省とお詫びを述べ、日英の元軍人による東南アジアでの合同慰霊祭の開催、元捕虜や家族の訪日事業をそれまでの倍増にして年間80~100人にするという内容だった。しかし、同年5月、ロンドン中心部を通る天皇の車列に数百人の元捕虜らが背中を向け、「補償金未納」と書いた横断幕を掲げて抗議行動を続けた。
歓迎晩さん会で、天皇(現上皇さま)は「戦争により人々が受けた傷を思う時、深い心の痛みを覚えます」と話された。エリザベス女王は「大戦の記憶は今も私たちの胸を刺す」「英国は日本にとって晴れの日の友人(うわべだけの友)ではなく、本当の友人なのです」と述べた。
こうした皇室と王室の長年にわたる絆が、事態を好転させた。英国内で、元捕虜らの天皇に対する抗議活動は、女王が招いた賓客に対して無礼ではないかという意見も出てきた。英国市民の対日感情が変わってきたのだ。
ブレア首相はついに決断する。「元捕虜の苦しみを忘れてはならないが、それらの感情が日英関係のすべてだと考えるのは間違っており、将来に禍根を残すべきでない」。英政府は2000年、元捕虜や遺族に、裁判で求めた補償額に近い1人当たり1万ポンド(約160万円)の特別慰労金を支給し、国内問題として決着させた。翌年には英中部の国立追悼森林公園に「日英和解の森」が造園され、「日英和解の碑」の除幕式が行われた。こうして日英のトゲは消えていった。
和解を支えた民間の動き
日英和解が成功した要因について、小菅教授はこう分析している。「ブレア首相が英国内の元捕虜退役軍人団体やメディアにたたかれながらも、一貫して天皇訪問歓迎の姿勢を崩さなかった。両国に、和解することが良いこと(復讐は良くない)という価値観の共有があった。そして、民間人に両国の和解活動を許容する社会が存在していたからである」
日本人ボランティアが民間レベルでこの和解を支えていた。元捕虜や家族を日本に招く活動もその一つだ。また、前述の小菅教授自身も元捕虜と日本人をつなぐ活動「ポピーと桜クラブ」を展開していた。小菅教授は1996年から2年間、ケンブリッジで暮らしたが、この地が元捕虜の多い、反日感情のある地だと知る。英国の戦没者を追悼する日に、地元の墓地で行われた式典に和服姿で慰霊碑に花束を捧げ、ひざまずいて祈る姿が地元紙に大きく報道され、小菅さんの和解活動が始まった。
地元の在郷軍人会のホールで折り鶴、書道、お茶など手作りの文化交流会を開いた。だんだんと参加者が増えていった。後に元捕虜からこんなことを言われた。「謝罪はもういい。補償も済んだこと。私が日本人に求めるのは、歴史を学ぶこと。そうしてくれれば、私は喜んで和解します」
日韓は和解へ不断の取り組みを
日英の和解から、今日の日韓両国はどう学ぶべきか。軍事史学会会長で、東京女子大名誉教授(日本政治外交史)の黒沢文貴さんはこう解説する。
「日英和解はまず民間での交流があり、それに呼応する現地大使館の動きがあり、両国政府の間に和解しようとする政治的意図とそれに向けての具体的な動きもあって、成功といえる事例になった」
「和解は双方が強い意志を持たない限り成立しない。日韓関係は今回、韓国の新政権が国内に反対のある中で、強い政治的意志をもって和解を達成しようとした。だが、岸田政権はそれに十分応えうる具体的かつ効果的な動きをしたのか疑問だ。それゆえ今後の日韓和解は依然として危うい状態と思う。日本側の言い分も分かるが、和解はそもそもガラス細工のように壊れやすいもので、いったん成立しても未来永劫(えいごう)続くものではない。だからこそ、繰り返し和解の意志を示し合う不断の取り組みが欠かせない」
バナー写真:来日したブレア英首相と橋本龍太郎首相との日英首脳会談(1998年1月、共同)