新年初場所の番付は「1横綱1大関」―125年ぶり“異常事態”の今、大関昇進基準を再考する
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番付に絶対に欠かせない「大関」
2022年納めの九州場所では、角番(かどばん)の正代(しょうだい)が負け越して大関から陥落。一方、秋場所に2場所連続で負け越して大関の座を失っていた御嶽海(みたけうみ)は、10勝以上すれば特例措置により大関復帰だったが、こちらも負け越したため、返り咲きはかなわなかった。
新年初場所の番付上位は、東の照ノ富士が形式上大関も兼ねる「横綱大関」として記載され、貴景勝(たかけいしょう)は西大関となった。
もちろん照ノ富士の地位が下がったわけではなく、横綱であることには変わりない。なぜこうした措置がとられたかというと、横綱は不在でも構わないが、大関は番付上の東西に欠いてはならない、という不文律が角界にはあるからだ。
というのも、現在では横綱に次ぐ地位となっているが、もともとは大関が大相撲における最高位だった。大関の中でも特に品格・力量に秀でた者に、横綱(しめ縄の一種)を腰に締めさせ、1人土俵入りをする免許を与えたのが横綱の始まりとされる。史実として横綱土俵入りが行われたことを初めて確認できるのは、江戸時代中期、1770~90年代に活躍した谷風梶之助とされている。
「1横綱1大関」は、1898年春場所(1月)の第17代横綱・小錦、大関・鳳凰以来、実に125年ぶりの事態。とはいえ当時の横綱は称号なのか地位なのかが、まだはっきり決まっていない時代。横綱が地位として明文化された1909年以降では初めてだ。
横綱・大関陣が2人となってしまうのも、小錦、曙の両大関のみだった1993年初場所以来30年ぶり。この時は若貴兄弟や武蔵丸、貴ノ浪などの逸材が関脇以下にひしめいており、現に同場所後には貴乃花(当時貴花田)が大関に昇進している。
ところが現在は、上位陣が手薄にもかかわらず、現行の“ルール”に従うならば、すぐにも大関昇進が可能な力士は見当たらない。
両膝の大けがから立ち直り、見事に横綱まで昇進した照ノ富士だが、2022年秋場所後に再び両膝の手術を行い、現在は復帰に向けてリハビリの最中。貴景勝も激しい押し相撲が持ち味だけに、首の慢性的なけがに加え、さまざまな箇所に故障を抱えている。突発的に照ノ富士、あるいは貴景勝が引退する可能性も全く否定はできず、番付制度崩壊の危機的状況も視野に入ってきた。
もし横綱・大関陣が1人となった場合、関脇で勝ち越した力士を、たとえ10勝に届かなくても大関に昇進させるのか。あるいは、長年の伝統を破り、片方の大関を欠く番付を作るのか。日本相撲協会は万が一の事態を想定して、横綱1人、または大関1人になってしまった場合、番付をどうするのか、事前にしっかりと話し合う必要がある。
「双羽黒事件」が生んだ昇進基準の厳格化
大関昇進に関しては、横綱昇進の際の「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」のような明確な基準は存在しない。1980年代頃までは、「関脇・小結で3場所30勝以上」が一応の目安とされていたが、ケースバイケースで弾力的に判断されていた。
その後、平成(1990年代)に入ると「関脇・小結で3場所33勝以上」と、昇進のハードルが3勝も上がった。
その背景には、第60代横綱・双羽黒(ふたはぐろ)への“トラウマ”があると推察される。幕内優勝を1度も経験せずに横綱まで上り詰めた双羽黒だが、1987年暮れ、師匠の立浪親方と衝突して部屋を飛び出し、突如として廃業。この「双羽黒事件」以降、横綱への昇進基準をより厳格化しようという機運が高まったのだ。
江戸時代から、横綱免許の証状を与えていたのは、相撲の故実・礼式を取り仕切る家元・吉田司家だった。日本相撲協会は1950年に同家から横綱免許などの権限を取り上げると、各界の有識者を集めて諮問機関「横綱審議委員会」を発足。年6場所制がスタートした58年、現行の「大関で2場所連続優勝、またはそれに準ずる成績」という昇進内規が定められる。
その後、昭和年間に18人の横綱が誕生したが、連続優勝で昇進したのはわずか3人。そのほかは「準ずる成績」での昇進だが、朝潮、柏戸、玉の海、2代目若乃花、三重ノ海、双羽黒、大乃国の7人は、直前2場所に優勝がない。
それが双羽黒廃業後の平成に入ると、旭富士から日馬富士までの8人がすべて連覇での昇進となった。最近の鶴竜、稀勢の里、照ノ富士の3横綱は「準ずる」成績での昇進だが、直前2場所のどちらかは優勝しており、かつ、昭和時代の「準ずる」成績よりもかなりのハイスコアだ。
横綱昇進のハードルが上がったため、昭和時代なら確実に横綱昇進を果たした成績でも見送り例が続出した。小錦は初の外国人横綱の座を逃し、貴乃花は最年少横綱の栄誉を獲得できなかった。
“大甘”昇進でも名横綱となった初代若乃花
横綱昇進の厳格化に呼応するように、大関昇進も昭和時代と平成以降では、きっちりと色分けされている。
横綱審議委員会が誕生して以来、昭和年間には44人の大関が誕生しているが、そのうち3割強の14人は、関脇・小結3場所31勝以下での昇進だ。1960年代までは、現在ではとても考えられない、3場所通算30勝未満での昇進例も存在する。直前3場所の成績が鏡里、初代若乃花、北葉山、北の富士は28勝、朝潮は29勝だった。
ところが――この“大甘”昇進の5人のうち、北葉山を除く4人までが横綱に昇進。30勝の柏戸、佐田の山、玉の海、31勝の大乃国も最高位を極めているのだ。
逆に、直前3場所の成績が37勝の豊山、北天佑、栃ノ心、36勝の琴欧洲といったハイスコアでの昇進力士が、大関止まりなのである。
あくまで目安にすぎなかった「関脇・小結3場所33勝以上」が、今や基準化されている感がある。平成以降、再昇進の照ノ富士を含めて29人の大関が誕生しているが、3場所通算31勝以下は皆無。32勝の千代大海、稀勢の里、豪栄道、朝乃山、正代の5人以外は、すべて33勝以上の数字をクリアしている。
ところが、こうした厳しい基準を突破しているにも関わらず、平成以降の大関より昭和時代の大関のほうが強かったと感じられるのはなぜなのか――。
「強い大関をつくるため」。昇進基準を厳しくする際に用いられる常套(じょうとう)句だが、過去の例を見て分かる通り、大関の場合には、昇進時とその後の成績に必ずしも相関関係があるわけではない。むしろじっくり見過ぎると、力士の大関昇進時がその力士のピークだったり、昇進前に力士寿命を消耗させたりする弊害も生じる。
魁皇(現・浅香山親方)は1995年初場所から12場所連続で関脇を務め、優勝決定戦にも出場している。武双山(現・藤島親方)も96年初場所から関脇・小結3場所で32勝を挙げた。それでも大関昇進を見送られた。ともに後に大関昇進を果たしたものの、昭和時代のように勢いのあるうちに大関に上げていれば、横綱まで昇進していた可能性は捨て切れない。
朝青龍のライバルとして大関争いでしのぎを削っていた琴光喜も、2001年秋場所から3場所で優勝を含む34勝を挙げながら見送られている。起点場所が平幕だったとはいえ、昭和時代なら確実に大関昇進を決めていた成績だ。その後の琴光喜は明らかにモチベーションが下がり、けがをしたこともあって低迷を余儀なくされ、大相撲野球賭博問題で解雇処分を受けて角界を去った。だが、朝青龍に先んじて大関に昇進していれば、全く違った相撲人生を歩んでいただろう、と多くの相撲関係者は指摘する。
「勝ち負け」だけでなく相撲内容や勢いも判断材料に
こうして見てくると、平成以降の大関昇進は、昭和時代と比べると著しく整合性を欠いているのは事実だ。
2011年九州場所後に稀勢の里が関脇・小結3場所32勝で大関に昇進すると、一部のマスコミから「甘い昇進」との批判が飛び出した。しかし、当時の藤島審判委員(元大関・武双山)は「我々は玄人。稀勢の里の内容がどれだけ良いかは分かっている。単に白黒(勝ち負け)だけじゃなく、胸に伝わってくるものがある」ときっぱりと言ってのけた。
これはまさに正鵠(せいこく)を射た発言であり、多くの関係者も同様の感想を持っていた。大関昇進を審議する際には、星数も重要だが、それ以上に相撲内容や勢いを吟味する必要がある。
もうひとつ提言したいのは、三役(関脇・小結)経験が豊富な力士も、初めて三役に上がった力士も直近3場所のみでしか判断されない現状制度の見直しだ。現在の若隆景(わかたかかげ)のように新三役から優勝も含む5場所連続勝ち越し中といった力士には、3場所33勝にこだわらずに大関昇進のチャンスを与えてもいい。
陥落が許されない横綱なら、ある程度昇進基準を厳しくするのは分からないでもないが、関脇に落ちても復帰が可能な大関ならば、昇進基準を昭和レベルにまで緩和して、番付をもっと活性化させるべきだ。
もはや大関でも簡単に勝ち越すのが難しい時代に
大相撲の番付は、前の場所で優勝した力士がいきなり横綱になったりはしない。いわば日本風の味付けをまぶしたランキング制度と言ってもいい。
特に江戸時代の番付は、前場所の成績を基に作成されたわけではなく、大関、関脇、小結の三役は東西に1人ずつ、計6人という人数がきっちり守られていた。巨大な体の持ち主は、相撲未経験でも客寄せのために大関に据え、1人土俵入りだけを行わせる「看板大関」という制度まであった。かなり興行色が強かったのは間違いない。
それが明治時代に入って、西洋からスポーツという概念が導入されると、本場所の成績を基に番付が作られるようになった。当然、3人目、4人目の大関が誕生する半面、1909年に横綱が地位化されると大関が1人以下になることもあった。
プロ野球でもイチローのように7年(大リーグを入れると8年)連続で首位打者を獲るような、傑出したバッターは存在する。その一方、首位打者のタイトルを獲得しながらも、その後のシーズンでは打率2割台の不振に陥る選手は多い。
相撲もたかだか3場所程度の好成績が、その後のハイアベレージを保証するものではない。イチローのような飛び抜けた成績を続けられる力士ばかりを選ぼうとしていたら、番付制度は持たない。
関脇以下は完全なスポーツと考えても問題ない。しかしながら、勝ったり負けたりするのがスポーツだとすると、常勝が求められる横綱・大関制度は、スポーツの概念とは相いれない部分があるのは確かだ。
現在、角界には体格に恵まれ運動神経の発達した好素材がなかなか集まらず、慢性的な人材不足に悩まされている。一方で、SNSなどで誰でも発信できる時代となり、力士気質にも変化が見られる。現役の力士は過去のどの時代よりも真摯(しんし)に相撲と向き合い、取り組んでいるのもまた事実である。逆に言えば、大関といえども簡単に勝ち越すのは難しい時代とも言える。
今後も時代を担うような強豪力士が出てくることは間違いない。その半面、現在のように番付崩壊の危機に陥る機会も増える可能性は高い。
大相撲はスポーツと文化がうまく融合した世界的にも誇るべき興行だが、両者のバランスを取るのは実に難しい。いかに次世代に国技を継承させていくべきか。この課題に応えるためにも、大関制度、そしてそれにつながる横綱制度をもう1度見直す必要がある。
バナー写真:125年ぶりに「1横綱1大関」となった大相撲初場所の新番付。東横綱の照ノ富士は、番付上では大関も兼務するため「横綱大関」と併記され、本来ならば東大関である貴景勝は西に回った 共同