国葬の歴史を振り返る:恩師吉田茂の弔いで合意形成に尽力した佐藤栄作首相
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暗殺された大久保利通の葬儀がルーツ
国葬とは、国家のために優れた功績があった人物が亡くなった時、その死を悼み、国の重大な儀式として国費で行われる葬儀である。死んで国葬で送られるのは、最高の栄誉と考える人も少なくない。
日本は明治維新で一つの国家としてのまとまりを見せる「国民国家」となった。その明治政府の最高実力者で首相役(内務卿)だった大久保利通が1878年(明治11年)、不平士族らによって暗殺された。前年には維新の立役者、西郷隆盛が挙兵した西南戦争が起き、当時の明治政府はかなり不安定だった。
政府側はリーダーを失った中で、残された伊藤博文(後に初代内閣総理大臣)らが、大久保の死を天皇や多くの国民が悼んでおり、明治政府に反抗すべきではないことを広めようと、巨費を投じて盛大な葬儀を企画する。大久保邸での葬儀には約1200人が集まり、これが「国葬のルーツ」になっていく。国葬は時の権力者側に何らかの思惑があり、政治利用されることがあると言われるゆえんでもある。
最初の正式な国葬は、1883年(明治16年)に行われた明治維新の元勲、岩倉具視の葬儀だった。太政大臣(内閣制度が発足するまでの明治政府の最高機関の長官)の決定により、国家の儀式として行われた。この後、明治政府の実力者を輩出した旧薩摩長州の元藩主らの国葬が続く。
1909年(明治42年)には、中国東北部のハルビン駅で銃撃、暗殺された前述の伊藤博文の葬儀が、国葬として実施された。会場の日比谷公園にはあふれ出るほど参列者が集まり、異国で倒れた明治政府の重鎮の死を惜しんだ。
それから3年後の1912年、明治天皇が亡くなり、大喪(たいそう=天皇の葬儀)が国を挙げて行われた。
大正天皇が亡くなる直前に制定された「国葬令」
大正時代の末期になると大正天皇の容態が深刻となり、政府は天皇や皇族の葬儀について手続きなどを規定した「皇室喪儀令」などの法整備を急いだ。1926年(大正15年)10月に同令などと共に制定されたのが、国葬の根拠法令となる「国葬令」である。大正天皇はこれらの法令制定の2カ月後に亡くなった。
国葬令は5条からなる短い法令だ。第1条が「大喪儀は国葬とする」。これで天皇、皇后、皇太后、太皇太后の葬儀は国葬となることが明記された。
第3条は「国家に偉功(すぐれた功績、貢献)ある者が亡くなった時は、特旨(天皇のお考え)により国葬を行うことがある」。そして第5条が「皇族ではない者の国葬は、内閣総理大臣が天皇の裁決を経て行う」と規定され、これで皇族以外の人でも、時の内閣の判断で国葬になる根拠が明記された。
東郷平八郎、そして大戦中の山本五十六の国葬
戦時色の濃い昭和には、二人の海軍の英雄が国葬となる。日露戦争を勝利に導いた連合艦隊司令長官、東郷平八郎の国葬が1934年(昭和9年)に行われた。さらに大戦中の1943年(昭和18年)には、同じく連合艦隊司令長官でハワイ真珠湾攻撃などを指揮し、ソロモン諸島上空で米軍機に撃墜されて戦死した山本五十六の国葬が行われた。山本の死は1カ月ほど隠されたが、戦時中の盛大な葬儀は戦意高揚にも利用された。皇族や華族でない平民が国葬にされたのは、山本が初めてだった。
戦後の1947年、新憲法の施行に伴い、国葬令は失効して、国葬の根拠法令がなくなった。その一方で、同年に制定された新しい皇室典範には、25条「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」と記された。「崩ずる」は亡くなることで、この条文を根拠に、天皇の葬儀が国の儀式「大喪の礼」として国葬で行われると解釈される。
それでは、天皇以外の国葬はなくなったのか。まだGHQ(連合国軍総司令部)による占領下だった1951年、昭和天皇の母である皇太后(貞明皇后)が亡くなり、その葬儀を国葬とするかが問題となった。国葬令が存在していれば、皇太后の葬儀は国葬だが、時の吉田茂内閣は国葬としなかった。ただし、葬儀費は皇室の私的予算(内廷費)からではなく、皇室の公的予算(宮廷費)から出すことにして準国葬の「皇太后大喪」を行った。
国葬は天皇だけ、と考えていた吉田茂
吉田首相は当時、「新憲法下では、国葬は天皇の場合だけに限られる」と考えていたという。ところが、その吉田が戦後初の国葬として送られる。
終戦の翌年(1946年)から1954年にかけ、首相を5次、計7年務め、日本の独立回復を実現させた吉田が、1967年10月20日に亡くなった。時の首相は、吉田が後進を育てた「吉田学校」の優等生で、吉田を終生の師と仰いだ佐藤栄作である。佐藤はかねて恩師吉田の葬儀を国葬で行うと決めていた。
その直接の動機になったわけではないだろうが、二人の”師弟関係”で有名なのは「造船疑獄」での出来事だ。逮捕寸前の佐藤(自由党幹事長、当時)を、首相の吉田が法相に「指揮権発動」を命じて救ったことがあった。
外遊先のマニラから国葬を指令した佐藤栄作
吉田が亡くなる2週間ほど前から東南アジア、オーストラリアなどを外遊中の佐藤は、訃報をフィリピンのマニラで聞いた。戦後の国葬は前例がないが、佐藤は熱い思いで異国の地から国葬実現に突き進む。日記にはこう記している。
「直ちに東京に電話して木村(俊夫)官房長官に、国葬の儀をとりはからふ様命ずる」
共同通信の配信によると、佐藤は吉田死去の連絡を受けた数時間後、自民党の園田直・衆院副議長にも電話した。「法的根拠のない国葬を超法規的措置で実施するには、野党の了解が必要だから、野党第1党の社会党を説得しろ」という内容だ。マニラからの指令を受けた園田副議長は、その日のうちに社会党の理解を得ることができた。(東京新聞2022年9月5日朝刊)
佐藤は外遊日程を切り上げ、翌21日夜に帰国。直ちに大磯の吉田邸に向かい、無言の恩師に取りすがった。
佐藤は週明けの同23日午前、臨時閣議を開き、吉田元首相の国葬を閣議決定する。息つく暇もなく佐藤は、吉田家の密葬であるミサに出席し、さらに喪服を着替えて、昭和天皇の滞在先の浦和に向かう。東南アジアなどの訪問と、吉田国葬について内奏(報告)するためだ。野党側は共産党を除き、吉田国葬について反対の大きな動きはなく、佐藤は吉田の死後3日で戦後初の国葬実施を決めることが出来た。
そして、同31日、東京・日本武道館で、皇太子夫妻(現上皇ご夫妻)ら皇族方、外国使節ら約5700人が参列して国葬が行われた。葬儀委員長の佐藤は追悼の辞を述べる。
「有史以来はじめての敗戦、占領軍の進駐という厳しい現実に、国民の大半が民族的誇りと自信を失わんとした時、先生は内閣の首班として、すべてを国家再建の一点に結集すべく努められたのであります。(中略)対日平和条約の締結と、わが国の独立回復は、戦後史上最大の治績であり、不滅の功績であります」
佐藤はこの日の日記にこう書いた。「先例もなく参考になる様な事もないので一寸心配したが、万事は厳かに行われた」。やり遂げた満足感が感じられる。弔問外交については、初めから大きな期待をしていなかったのか、「(午後)六時半から官邸で外国の連中のレセプション。これも万事OK。」と素っ気ない。
安倍元首相の国葬
佐藤の熱意なくしては、吉田の死後11日での国葬は実現しなかった。それから55年。安倍元首相が非業の最期を遂げたとはいえ、世論調査でも「国葬反対」の声が強く、国民の合意形成には至っていない。背景には、安倍氏の功績は賛否が分かれていることや、最近では旧統一教会との関係も取り沙汰されていることがある。
前例の佐藤は素早く野党の根回しをしてまで国葬への理解を求めたが、今回は葬儀委員長となる岸田文雄首相にその形跡が見られず、熱意の差が歴然としているようだ。
バナー写真:吉田茂元首相の戦後初の国葬(1967年10月31日、日本武道館)=時事