アベノミクスに「常態化」のリスク:居心地いい 金融緩和
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政治主導のマクロ経済運営
安倍政治といえば、憲法改正への執念、日米安保体制の強化、地球儀を俯瞰(ふかん)する外交、そしてアベノミクスの4本柱が思い浮かぶ。
いずれも膨大な検証を要するテーマだが、このうちアベノミクスが前の3つと異なるのは、それまで テクノクラートに任せてきたマクロ経済政策の分野に政治家が旗を立て、自らレールを敷いたことにある。しかも、その路線はポスト安倍の2代の政権に引き継がれ、現在も継続している。
もともと政治主導で進む外交安保と異なり、マクロ経済政策には高度な専門知識が求められる。このため、アベノミクスの評価は国内でも真っ二つに分かれ、今なお激しい論争が続く。筆者自身、現在の異次元緩和が正常化されるまでアベノミクスの総括はできないと考える一人だが、とりあえず今日に至るまでの経緯と実績を振り返ってみたい。
緒戦で円安・株高の大戦果
アベノミクスは「大胆な金融緩和」「機動的な財政政策」「民間投資を喚起する成長戦略」からなる「3本の矢」で構成されている。だが、提唱者である安倍の頭には、そもそも「無制限の金融緩和」しか存在しなかった。思い切った量的緩和を行えば物価が上がり、高い経済成長が実現すると信じていたのだ。
しかし、この「一本足打法」に不安を抱いた財務省は、以前から温めていた財政政策と成長戦略を加えた3点セットに切り替えるよう安倍と財務相の麻生太郎を口説く。安倍はしぶしぶこれを受け入れたが、それでも自説を曲げることはなく、黒田東彦という理解者を得て「異次元緩和」へと突き進んでいった。
つまりアベノミクスの本質は政治主導の大規模緩和であり、他の2つは安倍にとって「付け足し」に過ぎなかったのだ。
かくして首相肝いりで始まった異次元緩和は、緒戦において赫赫(かくかく)たる戦果を収める。円相場は政権発足前の1ドル=78円程度から5カ月ほどで100円台に下落し、平均株価も8600円台から1万5000円台に急騰した。安倍が「バイ・マイ・アベノミクス(アベノミクスは『買い』だ)」というフレーズを発したのは初年度の秋である。
だが、指揮官の黒田が「2年を念頭に置いて必ず達成したい」と宣言したにもかかわらず、2%の消費者物価上昇率はなかなか達成できない。焦った日銀は、2014年秋に第2弾の量的緩和、16年2月にマイナス金利を導入するが、2%は逃げ水のように遠ざかっていった。そして同年9月、マイナス金利の欠陥を補うため、長短金利を同時に制御する「イールドカーブ・コントロール」という政策にたどり着いた。
この複雑な政策体系は、コロナ対応などの名目でこのあと修正が施されるが、基本的な枠組みとしては現在に至るまで変わっていない。
2%達成できず積極財政に軸足移す
安倍は2018年の春、黒田を再任する際に2%目標の達成時期にはこだわらないという考えを伝え、日銀を驚かせた。いつまでたっても達成できない目標を掲げ続けるのは政治的に好ましくないと判断したからだが、このあたりから物価に対する安倍の関心は急速に薄れ、第2の矢である財政政策へと軸足が移っていく。
財政出動にかける安倍の意欲は、その後のコロナ危機でますます拍車が掛かり、一律10万円の給付金に代表される「大盤振る舞い」が次々と打ち出された。健全財政を訴えた財務官僚は遠ざけられ、もともと先進国で最悪だった財政状況は、さらに深刻度を増した 。
だが、それでも安倍財政が回り続けたのは、①2度の消費税率引き上げを実現させた②アベノミクスで税収が回復したからだ-というのが官邸側の解説だが、実態は日銀のイールドカーブ・コントロールの力によるところが大きかった。
長期金利をゼロ%に固定できれば、国債の発行金利を低位に抑えることができ、どんなに国債を出しても利払い費を抑制することができる。事実、アベノミクスが始まってから21年度までに国債発行残高は300兆円も増加したが、国債費は5000億円ほどしか増えなかった。このため、安倍も安倍以降の内閣も財源をほとんど気にせず 大規模な財政出動ができるようになった。
安倍の積極財政論は退陣後にさらに勢いを増し、インフレにならない限り通貨発行権を持つ国家が財政赤字で破綻することはないと主張する「MMT(現代貨幣理論)」に限りなく近づいていく。安倍政権で閣僚を務めた自民党幹部は「安倍さんは首相のころから心情的にはMMT派だった」と語る。
こうして振り返ると、アベノミクスは初期の量的緩和から長短金利操作へと脱皮し、それが国家財政を支えるという構図に変形したことが分かる。アベノミクスの本質である「大胆な金融政策」が、図らずも「機動的な財政政策」を可能にしたのだ。
その結果として、日本経済にどんな変化が生まれたのか。
政治的成果あるも成長力は低下
まず超円高が是正され、企業業績は回復し、株価の上昇が資産効果を生んだ。雇用の回復もアベノミクスの成果の1つと言われている。確かに、13年からの9年間で就業者は433万人増加し、雇用・就職環境の好転が若年層の自民党支持を伸ばしたとされる。いずれも政治的には大きな成果である。
ただ、増加分のうち6割は非正規形態の就労増加だったため、パート・アルバイトの短時間労働が増えた結果、労働生産性はむしろ低下した 。
アベノミクスが採用されたこの10年間の実質成長率は平均0.6%程度(22年度は政府見通し)にとどまる。これはデフレ期とされた2003年度から12年度までの平均値(0.63%)とほとんど変わらない。前半の5年間に大きく伸び、後半の5年で失速するというサイクルも同じだ。
また物価上昇率で比較しても、安倍政権発足からウクライナ・ショックが起きるまでの消費者物価指数の平均上昇率は0.6%程度。ここから2度の消費増税の押し上げ効果と、教育無償化などによる物価押し下げ効果の双方を除くと、実力ベースの平均値は0.4%に過ぎないとの試算結果もある。結局、「ゼロ%近傍」で推移してきた日本の物価基調はアベノミクスでは変えられなかったことを意味している。
他方、アベノミクスの「代償」は決して小さくない。
路線転換に高いハードル
まず、日銀が巨額の資産を買い入れたことで国債や上場投資信託(ETF)市場は中央銀行の管理下に置かれ、経済の変調を伝えるシグナル効果は麻痺しつつある。長引く緩和で銀行経営は圧迫され、金融システムは再びむしばまれている。財政規律は完全に弛緩し、国債の格下げが長期金利の急騰を招き、財政が突如危機に陥るリスクもある。
何より懸念されるのは、長期の金融緩和が潜在成長力を削ぎ、「静かな退潮」を引き起こしつつあることだ。コロナ後も日本経済だけが大きくリバウンドしていない実態がその可能性を物語っている。
ただ、それでも為政者たちは財源を気にしないで済む現状に「居心地の良さ」を感じ、一日も長く異次元緩和が続くことを願っている。そこに予期せぬ「安倍ロス」の要素が加わった結果、路線転換に対する政治的ハードルは高くなるだろう。
このところの海外勢による国債の空売りは、市場が長短金利操作の持続性に疑念を抱き始めたものとして注目されている。日銀は膨大な国債買い入れでこれを押さえ込んでいるが、今後も市場の反乱を押さえつつイールドカーブ・コントロールを続けられるのか、そして混乱なく手仕舞いできるのかについて、確たる見通しを持つ当局者は一人もいない。
元首相が残した異形の政策は、その出口戦略を語るより、むしろ「常態化」がもたらすリスクを真剣に議論すべき時期に入ったようである。
(敬称略)
バナー写真:講演でアベノミクスの「3本の矢」を強調する安倍晋三元首相(時事)