拠出総額約3兆6600億円: 対中国ODA 42年の歴史に幕
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ODAは事実上の戦後賠償
日本が中国に対して行なっていたODAが2022年3月末、42年間の歴史に幕を下ろした。ODAは中国の経済発展を支えて日中の結びつきを強めた半面、援助を続ける必要性や中国政府が国民への周知を怠っていることなどを巡って批判も受けてきた。
外務省国際協力局と国際協力機構(JICA)によると、42年間で、日本が低金利で長期に資金を貸す「円借款」が約3兆3165億円、無償でお金を供与する「無償資金協力」は約1576億円。このほか日本語教師派遣などの「技術協力」約1858億円を合わせて拠出した総額は、約3兆6600億円にのぼる。円借款については、中国から予定通りに利子を含めて返済されており、最後の返済期限は2047年という。
対中ODAが始まったのは1979年。同年9月に訪日した谷牧副総理が日本政府に対し、8件のプロジェクトからなる総額 55.4億ドルの円借款を要請。日本は中国が78年に改革開放政策に踏み切ったことを踏まえ、79年12月に大平正芳首相が訪中し、「より豊かな中国の出現がよりよき世界につながる」と述べ、79年度から支援を開始。これが中国に対して西側から初めて供与されるODAとなった。
日本が踏み切った背景には、中国が戦後賠償を放棄した「見返り」との性質もあったとされる。大平元首相の孫で、一般社団法人日中健康産業振興協会副会長の森田光一氏によると、首相は当時、娘婿で元運輸大臣の森田一氏(光一氏の父)に「対中ODAには戦争の償いという意味合いがあり、中国が戦後賠償を放棄する代わりに日本が経済援助をするものである。ただし、いずれ中国は経済大国となり、日本を凌駕(りょうが)するだろう。そうなれば日中外交は相当難しくなる。日本はその覚悟を持って支援しなければならない」と話していたという。
日本政府が単なる途上国援助ではなく、事実上の戦後賠償と位置づけ、改革開放政策の後押しが、アジアひいては世界の安定につながると考えていたことがうかがえる。
大平元首相の予言どおり、中国は飛躍的な成長を遂げ、2010年には国内総生産(GDP)で日本を抜いて世界第2位の経済大国となった。さらにアフリカなどに戦略的な開発援助を始め、右肩上がりで軍拡を進めるなど、軍事大国の道も歩み続けている。日本政府が発展途上国を脱した中国に「(途上国支援の)一定の役割を終えた」として無償資金協力に終止符を打つのは06年。07年には円借款を打ち切った。
しかし、それ以降も技術協力は続けた。21世紀には日本への影響も懸念される大気汚染を中心とした越境公害や感染症、食品の安全など中国との協力の必要性が認められる事業や中国進出日本企業が円滑に活動するため中国の法律に関する事業などで支援が続けられた。
国際空港や総合病院建設にも貢献
援助の内容は、80年代初期は港湾や発電施設などインフラ支援が主で、90年代からは地下鉄建設や内陸部の貧困解消、環境対策など、時代が進むにつれて変わっていった。特に80年代には円借款による鉄道、空港、港湾、発電所、病院などの多くの大規模インフラが日本の支援で整備され、改革開放政策を支え、近代化に貢献。中国が経済成長し、世界第2の経済大国となる道筋をつけた。
84年、北京に建設された中日友好病院がその一つだ。81年から83年度まで無償資金協力として約165億円が投じられ、最新の医療器材が導入され、81年から92年、94年から95年まで医師、看護師、臨床技師らへ医療技術を移転し、医療サービスも日本式となる近代的総合病院を建設した。03年の重症急性呼吸器症候群(SARS)発生時には、重症患者受け入れ指定病院となり、08年の北京五輪では政府公認の指定病院となるなど中国を代表する総合病院となった。
90年代には、新たな開発課題として北京国際空港を整備した。93、95、96年に300億円の円借款を投じて国際線、国内線用の旅客ターミナルビル、貨物ターミナルビルを新設し、旅客処理能力が300万人から3600万人となり、世界有数の国際空港に生まれ変わった。
また、感染症対策として世界保健機関(WHO)が定めた「西太平洋地域(日本や中国、フィリピンを含むアジア太平洋の37の国と地域)」におけるポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)の撲滅にも日本のODAは寄与している。この西太平洋地域におけるポリオの患者総数の実に85%を中国が占めた時期があったが、90年から日本が技術協力を行ない、93年から無償資金協力など7億円が供与されたことで、中国はもちろん、西太平洋地域全域でポリオは撲滅された。
2000年代には、日本の技術による内陸部の社会開発支援として重慶のモノレール建設がある。93年に技術協力として山が多く起伏の激しい重慶市の公共交通機関としてモノレールを提案。01年に271億1千万円の円借款を供与して日立製作所が市中心部約13.5キロにモノレールを完成させ、交通渋滞と大気汚染が著しく改善された。
21世紀の技術協力に、国境を越えて飛来する微小粒子物質PM2.5の大気汚染問題がある。12年から16年に汚染排出源の中国の鉄鋼業3社に対して、日本企業が日本の計測器を使用した大気中の窒素酸化物を総量規制する改善法を指導、実現した。
また、86年から2015年度末までに中国全32州に医療・保健、農業などで約830人のボランティアを派遣、草の根レベルで技術協力事業などを進め、相互理解も進んだ。
しかしながら、支援で建設された施設のほとんどで日本側が働き掛けるまで中国政府は日本の支援について国民に周知していない。北京国際空港など一部では、日本の援助を示す銘板が掲示されているが、大部分で日本の表示がなく、「日本の貢献を知る中国の一般国民は少ない」。戦後賠償の代替と捉えた中国政府が「日本の支援は当然」と周知しなかったことが原因とされる。
日本では、日本から援助を受けながら、その一方で他の途上国に戦略的な支援を行った中国に、「日本の支援が中国の市民に知られていない」との不満が高まった。日本のODAが改革開放政策を支え、中国の近代化に貢献したことを日中両国の国民が正しく理解しなければ、真の日中友好は生まれないとの懸念からだ。
安倍元首相の決断で歴史に幕
ズルズル続いた支援の終了を決断し、終止符を打ったのが安倍晋三元首相だった。2018年10月、公式訪中した安倍氏は、日中平和友好条約発効40周年行事で、「中国は世界第2位の経済大国に発展し、(ODAは)その歴史的使命を終えた」と述べ、18年度から始まる技術協力の新規案件を最後に終了する意向を伝えた。この18年度の案件が22年3月で終わり、対中ODAは完全に終了した。
安倍氏は、「新たな時代にふさわしい新たな次元の日中協力の在り方について大所高所から胸襟(きょうきん)を開いて議論したい」と未来志向を語り、日中関係安定化に意欲を示し、ODAに代わり、第三国での開発について中国と協議する「開発協力対話」の発足を目指すと述べた。第三国での開発協力は中国が提唱する経済圏構想「一帯一路」への協力にも映り、中国の李克強首相は、「日本の積極的な参加を歓迎する」と呼びかけた。
日本側は、「一帯一路ではなく、個々のプロジェクトで協力する」(外務省幹部)との立場を表明。安倍氏が掲げた「自由で開かれたインド太平洋戦略」と一帯一路は安全保障面で対抗する側面もあり、そのバランスを取る思惑から一帯一路への関与は否定した。
外務省国際協力局によると、習近平国家主席と首脳会談で次のようなやりとりがあった。
「安倍総理(当時)からは、対中ODAの新規供与終了を踏まえ、今後は開発分野における対話・人材交流や地球規模課題における協力を通じ、両国が肩を並べて地域・世界の安定と繁栄に貢献する時代を築いていきたい旨を述べました。これに対して、習主席からは、日本のODAによる貢献を高く評価する旨述べた上で、こうした協力について前向きな発言がありました」
習氏から日本のODAへの高い評価と前向きな発言を引き出したことは、安倍氏が対中外交で遺(のこ)した功績の一つと言っていい。だが、習氏の具体的文言はつまびらかにされていない。事実上の戦後賠償である日本のODAが中国の経済発展に貢献した事実を中国の国民が正しく理解しない限り、日中友好親善は実現できない。そのためにもいつか習氏の言葉も明らかにされることを願わずにはいられない。
バナー写真:日本の対中国ODAで整備された施設前で地元幹部(左)に感謝される丹羽宇一郎駐中国大使(当時)=2011年06月24日、中国新疆ウイグル自治区アトシュ市(時事)