「若者の政治参加」に関する不都合な真実:低投票率を嘆く前に

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日本の10代、20代の投票率は40%前後と、諸外国と比べてかなり低い。80%を超えるデンマークのような国から見たら、仰天するに違いない。なぜ日本の若者は選挙に行かないのか? 学生とともに政治活動へのコミットメントを続けてきた筆者が考える。

筆者は、投票行動の専門家でもなければ、若者論に通じているわけでもない。しかし、選挙が近づくと、地元メディアから「若者の投票」について取材を受けることが多い。おそらく、これまで学生と共に、現実政治に多少なりともコミットしてきたからであろう。

例えば、勤務校の島根大学には「ポリレンジャー:若者の手で政治をよくし隊!」(以下、ポリレンジャー)というサークルがあり、筆者は2009年の設立以来顧問を務めてきた。直近では、2021年の衆院選に合わせて、本学学生を対象とした「オンライン模擬投票」および「入口調査」を実施した。前者は、実験的に投票をネットで行うのみならず、独自のオルタナティブな投票様式を用意することで、ちまたの投票率を上げる論議に一石を投じるものだ。後者は早い話、「出口」調査である。ただし一般のそれとは異なる。学生が有権者と直接対話する経験そのものにより重点を置いた。「(政治参加への)入口」調査と称するゆえんである。

2013年参院選の際、学生たちが松江市内で実施した「出口調査」(筆者撮影)
2013年参院選の際、学生たちが松江市内で実施した「出口調査」(筆者撮影)

また、筆者主宰の行政学ゼミは社会問題の解決実践を志向しており、「マニフェスト大賞」を受賞したこともある。ポリレンジャーの活動、さらに松江市議会とコラボした実践的な主権者教育が評価されたためだ。

本稿は、このような立場からしたためた文章であって、厳密な学術的知見に基づくものではない。学生との活動を通して得た雑感が現実を動かす一助になれば幸いである。

「うっせぇわ」は抗議ではなく拒絶

若者の低い投票率をどうすればいいか? 取材で決まって聞かれる問いである。だが、筆者はいつからか強い違和感を抱くようになった。

そもそも、この問題設定がおかしくないか。

選挙に行かないやつが悪い。これが大前提なのだろう。だから「もろもろ問題を抱えた若者に、いかに投票させるか」が問いとなる。しかし通常、オモロくもない漫才を見た客に、なぜ笑わないのかと詰問しない。対して、この低投票率問題、大人を「棚に上げて」論ずる傾向にある。若者というよりもわれわれの姿勢にこそ問題があるのではないか。そう言えば、取材はほぼ選挙の時のみ、多様であるはずの若者をひとくくりにして論じがちでもある。

唐突だが、Adoの歌う「うっせぇわ」という曲に注目したい。2020年10月YouTubeに投稿されると急速に拡散、いまや再生回数2億を超える人気曲である。歌い手は、当時、現役女子高生。すごみのある声と圧倒的な歌唱力で、「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と若者の不満や怒りを歌い上げ、世代を超えて注目を集めた。だが、われわれは勘違いをしてはいけない。音楽評論家の鮎川ぱて氏によれば、その主旋律は「抗議」ではないという。大人への「断念と拒絶」なのだと。抗議はコミュニケーションの一類型だが、断絶には接点そのものがない。実に深刻である。

かかる洞察は、政治参加の文脈においても等閑視してはなるまい。もはや若者の眼中にすらない大人が、上から目線で説教を垂れても、あるいは訳知り顔で寄り添わんとしても、スルーされるのがオチである。では、どうすればいいか。

妙案はない。まずは、大人自身、自らの「棚卸し」から始める他ないのではないか。そもそもわれわれは、どれほど切実にこの問題に向き合ってきただろうか。口先だけではなかったか。その証拠に…。この証拠はすぐ後に述べる。差し当たり、それらを一括して欺瞞(ぎまん)と呼ぼう。若者は大人の背中に数々の欺瞞を見透かしてきた。低投票率はその現れと言ってよい。

本稿は、自省を込めた詫(わ)び状である。なお、若者と同じく大人もまたいろいろである。実直な人もいれば、責めを負わされるべき環境にない人もいる。文脈に応じて読み解かれたい。

ブラック校則はそのままに、「良識ある公民たれ!」

まずは、主権者教育の半端さを認めなければならない。なるほど、選挙権年齢が18歳に引き下げられた頃、教育関係者は主権者教育にそれなりに力を入れもした。が、結局一時のブームに終わっている。加えて、「中立」を言い訳に現実の政治と距離を置く学校現場の姿勢は、生徒の政治的活動を実質的に禁止した文部科学省の「昭和44年通知」が見直された後でさえ、相も変わらず、である。

いい例が模擬投票だろう。実施の時期は授業進行の都合に任せ、清き1票の先は「リンゴ党の坂本龍馬」など、まるでリアリティがない。模擬とはいえ、せめて実際の選挙期間中に、リアルな政党・候補者の中かから選ばせたいものである。

学生たちを主権者として扱ってこなかった教師の姿勢も反省すべきである。普段の学校生活においては、彼/彼女らに「社会の形成者」(教育基本法第1条)たる地位を認めてこなかった。例えば、コロナ禍での修学旅行。ほぼ教員だけでその可否を決めた学校も少なくあるまい。学生の感覚から乖離(かいり)したブラック校則が昭和の意識そのままなのもそれを物語っている。

例えば、総務省のとある研究会は、こんなことを言う。「学生たちは社会に参加し、自ら考え、自ら判断する主権者たれ」と。やたら学校が学生の地域活動やボランティア活動を推奨するのもそのためであろう。だが、社会は学校の外にあるのではない。学校こそが社会である。校則などの身近で重要な「社会問題」にかかる意思決定から排除しておいて、なにが「良識ある公民」(同法第8条)の育成だろう。主権者教育を授業の中に閉じ込めてはならない。

蛇足。筆者の住む松江市は全国で唯一原発のある県庁所在地である。2022年1月から3月にかけて、その松江市と周辺3市(米子・境港・出雲)で、原発の再稼働を問う「住民投票条例」の直接請求が行われた。いずれも集まった署名数は法定数をはるかに超えた。だが、4市長の意見書は請求者の意思に反したもので、議会も条例案を否決した。政治家はいつも「市民が主役」とうたい、「参加を歓迎する」と繰り返す。にもかかわらず、である。主権者軽視が平然と行われる。学校はこうした社会の縮図なのであろう。

政治に無関心でも無関係ではいられない

「地方自治は民主主義の学校である」。英国の法学者・政治家ジェームズ・ブライスがこう喝破したことを、われわれは後進にしばしば伝えてきた。だが、惜しむらくは原文にはある一語を見落としていた。「実践(the practice)」である。いや、看過ではなく実態に欠けていたと言うべきか。19世紀末、ブライスがアメリカ民主主義の原点をみたのは、清掃、道路整備、牧場運営などにおいて住民が互いに議論し作業分担をする「実践」の中、だった。

翻って今の日本。町内会に加入したくないがためにマンション住まいを選ぶ者がいるという。PTAの役員決めは「お葬式」とも揶揄(やゆ)され、当たってしまった親たちはさながら罰を受けるかのようである。子どもたちは、そんな親を見て育つ。無論、町内会にもPTAにも問題はある。が、だからこそ学びの効果は大きいとも言える。「学校」が必要なのは子どもばかりではない。

筆者の若かりし頃は、およそ1990年代と重なる。当時、衆院選における20歳代の投票率は30%内後半。実は、今とさほど変わらない。また、最も投票率が低い世代が20歳代であるのは、半世紀の間ずっと同じである。いつか来た道…。若者を責める資格はあるのか、謙虚に自問する必要があろう。なお、今でも「子育て世代」で投票所に足を運ぶのはおよそ2人に1人である。

さらに反省の弁を続けなければならない。大人はよく「人でなく、政策で選べ」と言う。だが実際はどうか。「世話になった」「仕事上、断れん」「あのタレント候補、ファンだし」…。確かに思い当たる。実際、ポリレンジャーの学生が「入口調査」で有権者から直接感じたのも、大人もそう熟考して投じているわけではない、という事実であった。さまざまなしがらみは容易に多選を許し、浅慮の「風」頼みは不安定な政治を生み出してきた。その責任は誰にあるのだろう。率先垂範とは大人のための言葉である。

以上、やや自戒が過ぎたかもしれない。大人もあれこれ模索してきたことを急いで追記しよう。例えば、ネット投票や被選挙権年齢の引き下げへの提言は、そんな取り組みの一環である。専門家の中には、若者の声を代表する「青年区」や親に子ども分の投票を認める「ドメイン投票」を提案する者もいる。さらにマニアックなところでは、自分の1票を政策別に分割したり、人に委ねたりすることを可能にする仕組みも提唱されている。

とはいえ、いずれも実現できていないのであるから、偉そうな顔はできない。結局わびる他ない。いやこの際、開き直ろう。大人にはやはりそう期待しない方がよい。正直言えば、元来、大人だからといって常に模範的であるわけでもない。スルーやむなし、とも思う。

けれども、最後にこれだけは伝えておきたい。政治への関与を諦めるな、と。なぜなら無関心であることはできても無関係ではいられないからである。日常生活に関わる政治は、常に「うっせぇ」ものなのである。

バナー写真=松江西高において実施された「憲法改正国民投票」の模擬投票の様子(筆者撮影)

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