日英の緊密な関係の根底にある皇室と英王室の絆 |「新・日英同盟」の行方(6)
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英王室公文書館が開示した友好関係
欧州連合(EU)から離脱した英国は、かつてないほど日本との関係を重視する姿勢を示している。2021年9月には、最新鋭空母「クイーン・エリザベス」打撃群を日本に寄港させ、日本近海で自衛隊、米軍などとの共同演習を実施。その背景には継続的な軍事関与による対中抑止での連携強化があるのはもちろんだが、両国の皇室と王室の交流が果たす役割を見逃してはならない。
日英は立憲君主制の島国で、皇室と英王室の交流は約150年の長きにわたっている。特別の友好関係を証明する資料について、ウインザー城にある英王室文書館に問い合わせた。同館所蔵の国王ジョージ6世の個人秘書のファイルのうち、1940-41年にジョージ国王から昭和天皇に送った、神武天皇即位から2600年にあたる「皇紀2600年」や三笠宮結婚への祝電と、昭和天皇の叔母で恒久王妃昌子内親王(つねひさおうひ まさこないしんのう)の逝去に対する弔電、さらに、それぞれに昭和天皇からジョージ国王へ打たれた返電が開示され、親密な関係にあったことが裏付けられた。
英王室文書館から新たに開示されたのは以下の通り。
① 1940年2月11日、皇紀2600年に対するジョージ国王から昭和天皇に打たれた祝電(ドラフト)と同12日の昭和天皇からジョージ国王へのお礼の返電
② 1940年3月9日、明治天皇の第六皇女で、竹田宮恒久王の妃である恒久王妃昌子内親王の逝去にあたり、ジョージ国王から昭和天皇あての弔電(ドラフト)と同11日、昭和天皇からのお礼の返電
③ 1941年10月22日の三笠宮の結婚にあたり、ジョージ国王からの祝電(ドラフト)と同日、昭和天皇からのお礼の返電
この中で③の三笠宮の結婚の祝電は、日本が真珠湾攻撃とマレー作戦を敢行して太平洋戦争が勃発するわずか2カ月前であることが注目に値する。干戈を交える直前まで王室と皇室が「親戚」のように親しく交流していたことを示している。
家族の絆と温かみを学ばれた昭和天皇
皇室と英王室との交流は1869年、ビクトリア女王の次男、アルフレッド王子の来日から始まる。戦争の一時期を除いて、日本の天皇家は英国王室をお手本に歩まれてきた。
最も親しく交流したのが昭和天皇であった。皇太子時代の1921年、皇室で最初に英国を訪れた。3月3日に横浜から英国で建造されたお召艦「香取」で出港、欧州5カ国を歴訪して半年後、帰国された。最初に、最も長く滞在したのが英国だった。第一次大戦が終わって3年後のことで、地中海のマルタではドイツとの戦闘で亡くなった日本海軍兵士の墓に参拝した。
当時、エリザベス女王の祖父、ジョージ国王は55歳、皇太子は旅行中に20歳になったばかり。国王は慈父のような物腰で、同じ馬車でパレードされるなど温かいおもてなしを受けた。この訪英を通じ、裕仁親王は国民とともにある英国王室の近代的な家族の絆と温かみを学ばれた。79年、那須御用邸で、「ジョージ5世から立憲政治のあり方について聞いたことが終生の考えの根本にある」(『昭和天皇実録第十七』)と振り返っている。
また、元読売新聞記者の村尾清一氏が旧制第三高等学校同窓生の講演集「神陵文庫」に寄せた「皇太子の結婚」によると、昭和天皇が還暦を迎えられた61年に記者会見で、「60年の生涯で一番楽しかった事」として、「20歳の時にイギリスに行った、その時にバッキンガムの宮殿でジョージ5世が3日間泊めて、後のエドワード8世になった英国皇太子と一緒に立憲君主のあり方を手に取って教えてくれた。(中略)ジョージ5世を『第二の父』と思っている」と述べられた。昭和天皇はジョージ国王を「第二の父」と慕い、英王室を「第二の家庭」と思い、終生、親近感を抱いていた。
『英国王室史事典』(森護著 大修館書店)によると、ジョージ5世は「内閣に対する『良き助言者』という立場を貫き、近代史上希に見る、成功せる立憲君主としての名声を不動のものとした」とされる。政府に直言し、積極的に政治介入した「君主」だった。
君主は象徴であると同時に、政治に介入する「警告する権利」もある立憲君主論をジョージ5世から訪英中に学ばれた昭和天皇は、「警告する権利」を発動されたのだった。
皇室のライフスタイルの英国化
またこの訪英は、皇室のライフスタイルにも大きな影響を与えた。帰国後、1923年からロンドンのサビル・ロウにある名門高級紳士服店で礼服を仕立て、和装から洋服に切り替えた。朝食も味噌汁、ご飯よりもハムエッグにトーストを好み、戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローサラダにトーストと英国生活を取り入れられた。
さらに男系嗣子を増やすための側室制度を廃止し、「一夫一婦制」を確立した。万世一系の皇統のなかで、昭和天皇が「一夫一婦制」を持ち込まれたのは、訪英を通じ国民と共にある英王室の近代的な家族の絆と温かみを学ばれたためとされる。寝具も布団からベッドへ。専任の養育係による育児が廃止され、親子同居となった。こうしてファミリーとしての皇室が国民の間で定着することになった。
ロシアを共通の敵と考えた両国は、1902年に軍事同盟を結び、2年後の日露戦争に勝利した。ただ、その後、日本の台頭を警戒した米国が日英同盟に疑心を膨らませ、英国に同盟廃棄を迫った。国際連盟規約作りで、英国は日本が求める人種差別撤廃提案に賛同せず、日本側に対英不信が生まれた。皇太子は帰国後の21年11月、摂政となり、翌月のワシントン会議で日英同盟の廃棄(23年)が決まる。それから20年後の41年、4年間にわたる太平洋戦争での死闘が勃発した。約3週間に及ぶ皇太子の英国滞在は日英関係の分岐点となった。
日英和解の道を切り拓いたロイヤル交流
皇室・王室の交流が復活したのは大戦後である。英国では、日本軍の捕虜になった元兵士らを中心に日本への不信感が消えなかったが、風穴を開けたのが、王室と皇室だった。
日本の主権回復(1952年)の翌年、19歳の皇太子だった上皇陛下が初の外国訪問として、エリザベス女王の戴冠(たいかん)式にご参列された。帝王学をハロルド・ニコルソンの『ジョージ5世伝』から学んだ上皇陛下を老宰相チャーチルが賓客として遇した。反日報道を展開した大衆紙の社主らを招いた歓迎昼食会では、上皇陛下の飾らぬお人柄が英国側に伝わり、日英関係は改善に向かった。
71年に昭和天皇が半世紀ぶりに英国を訪れた際、大戦中、部下を戦死させ、マレー沖海戦で日本に戦艦を撃沈された王室メンバーのマウントバッテン卿が晩餐会を欠席したが、45歳のエリザベス女王が「我々はいつも平和で友好的な関係であったかのようなふりはできません。しかし、不幸なことが二度とあってはならないと決意させるのも、またこの過去の経験です」と述べ、窮地を救った。75年に国賓として初めて訪日した女王が天皇家と家族ぐるみのお付き合いを続けられ、日本で大歓迎されたことは言うまでもない。
98年、上皇陛下が訪英の際、橋本龍太郎首相が大衆紙サンで「反省とおわび」を表明すると、英政府が捕虜に特別慰労金支給を決めた。和解が始まったのは、「98年の上皇陛下の訪英が重要な役割を担った」(デービッド・ウォーレン元駐日大使)との指摘もある。
皇室と王室の強い絆が戦争により生じた不信を新たな信頼に変える契機となった。上皇陛下は2012年にも訪英、女王即位60周年祝賀行事に出席された。天皇陛下が留学先に選んだのも英国だった。オックスフォード大学ではテムズ川の水運史を研究され、学生寮に寄宿し、パブでビールを飲み、自由な生活も楽しまれた。15年には、天皇皇后両陛下が来日したウィリアム王子と懇談され、18年には長女の愛子さまが私立イートン校サマースクールに参加された。王室と皇室は三代にわたり、家族ぐるみの付き合いを結ばれている。
皇室・王室の交流は両国の和解の進展に役割を果たしたと言える。二国間に政府同士の関係とは異なる位相で外交チャンネルがある意義は小さくないだろう。
皇太子だった昭和天皇が英国のワイト島に到着して100年目となる2021年。新型コロナウイルス感染拡大が収束すれば、22年には、天皇皇后両陛下が初めての外国訪問として英国を訪問される。東西の海洋国家の日英が新たな同盟を模索する今、皇室と王室の新たな交流がその紐帯(ちゅうたい)となるだろう。
バナー写真:バッキンガム宮殿での晩さん会に臨まれる(左から)エディンバラ公、エリザベス皇太后、皇后さま、昭和天皇、エリザベス英女王(ロンドン)1971年10月5日 時事