「日本版CIA」をつくろうとした政治家・緒方竹虎

政治・外交 歴史

日本に対外情報機関の設置が必要だと言われて久しい。近年、日本を取り巻く東アジアの安全保障情勢が緊迫度を増すにつれ、その必要性は益々高まっている。そんな中、改めて注目を集めているのが「日本版CIA(中央情報局)」をつくろうとした緒方竹虎。急逝によって頓挫したが、国民の生命・財産、国土を守るため、日本のインテリジェンス機関設立に奮闘した緒方について、『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』(PHP新書)の著者、江崎道朗氏が解説する。

GHQによって解体させられた対外情報機関

「情報機関の設置が必要だ」

2021年4月27日、動画番組に出演した安倍晋三元首相は首相在任中の2013年に成立した特定秘密保護法によって米国や豪州などとの情報のやりとりが可能になったとした上で、対外情報機関の必要性をこう訴えた。

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本は、米軍を中心とする連合国軍最高司令官総司令部(General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)に占領された。連合国軍は撤底した検閲を敷いた上で、陸海軍や対外情報機関を廃止させるなど、日本を非武装化した。

しかし49年10月の中国共産党政権の樹立、翌年6月の朝鮮戦争の勃発を受けて米国は対日占領政策を転換し、50年8月、日本に再武装を指示した。その指示を受けて日本は警察予備隊(現在の自衛隊)を創設した。

そして日本が独立を回復した直後の52年から53年にかけて、米国のCIAと連携してソ連や中国、朝鮮半島に関する情報収集を行う「日本版CIA」をつくろうとした政治家がいた。緒方竹虎という。

自由主義の信奉者

緒方は1888年生まれで、東京高等商業学校(現在の一橋大学)、早稲田大学を経て朝日新聞社に入社し、ジャーナリストとして頭角を現す。英国に留学して憲政(constitutional government)と労働運動を学び、ソ連主導の共産主義とイタリア主導のファシズムを厳しく批判し、自由主義を守ろうとした。

第二次世界大戦後の1952年に政治家に転じ、吉田茂首相の跡を継いで自由党の総裁となった緒方は55年に保守合同を主導し、現在の自由民主党をつくった。

この緒方と対外情報機関について描いた『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』をこのほど上梓した。近年、日本でも対外情報機関を創設しようという動きが生まれており、その運用について歴史的な総括をしておくべきだと考えたからだ。

戦前の日本のインテリジェンス能力は決して低くなかった。問題はその情報が国策に活かされてこなかったことだ。この「国家戦略(国策)と情報(インテリジェンス)」という課題に戦時中、正面から取り組んだのが緒方だった。

緒方は戦時中の1944年7月、日本の情報機関のトップとも言える「情報局総裁」として小磯國昭内閣に入閣した。その際に痛感したことは「政府に生きた情報がほとんど入ってこない」ということであった。まともな情報が入らぬまま、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦において日本は敗北を続けた。

その理由は、それ以前の政権、つまり近衛文麿、東條英機両内閣において情報機関の運用に失敗していたからであった。

省庁の縦割り意識がもたらした弊害

戦前の日本では、外務省、内務省、陸軍、海軍などにそれぞれに情報機関があったにもかかわらず、相互の連携はほとんどできていなかった。そこで1940年12月、第二次近衛内閣は内閣情報部を情報局に格上げし、各省の所管に属していた情報・宣伝に関する事務の一切を情報局に吸収した。

だが、実際はこれら事務・権限の統合がきわめて不十分だった。それは官僚特有の省庁縦割り意識からであった。そのため、戦争遂行に関する基本的な情報さえも共有されず、間違った情報がまかり通った。

たとえば、企画院の勅任調査官、田辺忠男はこう証言している。

前年(引用者注:1942年)三月から五月にかけて閣議決定された第二次軍需産業生産力拡充計画、南方開発計画等が、きわめて杜撰(ずさん)なもので、基本的な数字そのものに正当な根拠が欠けていること、またその結果、「昭和一八年以降、南方資源の入手とともに、軍需品供給は拡大する」という企画院総裁の閣議における言明は、全くの空言にすぎないこと。

すなわち、「軍需産業生産の拡充こそ戦時内閣最大の責務」であるとする田辺の立場からすれば、東條内閣にはおよそ近代戦遂行能力が欠落しており、このまま事態を推移するにまかせれば、敗戦は必至と断ぜざるをえぬということであった

(室潔『東條討つべし―中野正剛評伝』朝日新聞社、1999年、114〜115頁)

点検・監視の機能不全

軍需生産や資源は、戦争遂行のためにきわめて重要だ。にもかかわらず、基本的な数字そのものに正当な根拠を欠く杜撰な計画が立てられ、閣議で通ってしまう状態だったのだ。

なぜ、そんな杜撰な情報分析がまかり通ってしまったのか。当時の日本には、陸軍、海軍、そして政府・企画院がそれぞれの情報を突き合わせて分析・検証する仕組みがなかったのだ。

しかも議会やジャーナリズムによる点検・監視機能も働いていなかった。政府や軍の戦争計画や情勢分析がきちんと検証できていれば、これほどいい加減な戦争計画は許されなかったに違いない。

だが、1930年代後半から近衛文麿、東條英機首相らは、政府批判を嫌い、情報局を「言論統制機関」として使い、議会もジャーナリズムも、政府と軍による戦争計画を批判できないようにさせられていたのだ。

自由主義をめぐる二つのグループの存在

もともと日本では、言論の自由は保障されていた。明治時代の1890年に大日本帝国憲法を制定し、言論の自由を保障するとともに、議会制民主主義制度を採用した。以後、短期間ながらも、大正デモクラシーと呼ばれるような二大政党による憲政が行われた。

ところが1917年のロシア革命の成功とソ連の成立を受けて、国際共産主義活動への警戒が強まる中、戦前の日本では「共産主義反対」や「皇室尊崇」を掲げる政治勢力も勢いを増していく。その勢力には言論の自由や自由主義をめぐって二つのグループが存在した。

一つは、日本を守るためには言論の自由を抑圧することも辞さない全体主義者たちだ。彼らは37年のシナ事変以降、自由主義を目の敵にして言論の自由を抑圧し、統制経済を支持して経済界を官僚の支配下に置こうとした。

もう一つは、憲政と言論の自由、そして資本主義を守ろうとした自由主義者たちだ。

戦時中、帝国憲法で保障された言論の自由を抑圧し、統制経済を強め、憲兵隊などを使って政敵を逮捕・弾圧した東條首相は愛国者ではあったものの、残念ながら前者の代表格と言わざるをえない。

この東條首相の下で、内外の情報を広く集め分析する情報機関である「情報局」は、本来の役割から離れ、言論弾圧の道具として使われてしまった。

一方、緒方竹虎は戦前・戦中、そして戦後も憲政と言論の自由、そして資本主義を守ろうとした自由主義者であった。よって緒方は戦時中の44年、小磯内閣で情報局総裁に就任するや、言論の自由を回復する方向へと政策を転換すると共に、陸軍、海軍と官邸とが一堂に会して情報を共有・分析する仕組みを構築しようと奮闘し、軍部の反対を押し切って終戦を模索した。

急逝で未完に終わった構想

45年8月15日、日本は戦争に敗北した。日本が敗戦に追い込まれたのは、言論の自由を抑圧し、憲政とインテリジェンス(情報)を軽視したからではなかったのか。こうした痛苦な反省に基づいて緒方は敗戦直後の45年8月17日、東久邇宮内閣の下、書記官長兼情報局総裁に就任し、憲政と言論の自由を取り戻そうと奮闘した。

そして52年、吉田茂内閣で官房長官に就任し、ソ連や中国の脅威に対応すべく、自由と民主主義を基調とする政治体制の下で海外の情報も広く集め、国策と連動する「日本版CIA」の創設を目指したのだ。

緒方が手始めにつくろうとしていたのは海外放送や海外通信の傍受による情報「収集」組織だったが、将来は公然・非公然の両分野で情報活動を拡大するつもりだと米側に伝えていた。だが緒方は1956年1月28日に急逝し、その志は未完に終わった。

あれから65年がたち、再び日本を取り巻く国際情勢は緊迫の度を増している。

日本は現在、自由で開かれたインド太平洋構想を掲げている。この構想をさらに推進するためにも日本は対外情報機関を創設し、外交や経済だけでなく、インテリジェンスの面でも欧米やインド太平洋諸国と連携を強化すべきなのである。

バナー写真:緒方竹虎 1955(昭和30)年11月15日撮影 共同

『緒方竹虎と日本のインテリジェンス』

江崎道朗著
PHP新書
新書判:416ページ
価格:1320円(税込み)
発行日:2021年7月15日
ISBN:978-4-569-84992-8

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