象徴天皇:時代とともに移り変わる国民統合の意味
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コロナ禍での五輪開催については、中止すべきだという意見も多かった。その中では、オリンピック名誉総裁である天皇に反対の意見を表明してほしいとの声もあった。しかし、「象徴」である天皇にそうした政治的とも言えるような発言をする権限はない。それゆえ西村泰彦・宮内庁長官は、天皇が感染拡大状況を心配しているようだと自分は「拝察」しているとの発言をし、天皇の懸念を世間へと匂わせた。このように、象徴天皇という存在は微妙なバランスの上に成り立っているのである。
「象徴」の始まりは昭和天皇の戦後巡幸
戦前の大日本帝国憲法においても、「絶対性を有した“万世一系”の天皇」と「憲法に基づいた統治権を持つ天皇」が並立しており、やはり天皇は微妙なバランスの上にいた。さらに江戸幕府を倒すため国内向けに展開された論理。国際社会と同じように法に従って統治を行う対外向けの論理。この2つの論理が、いずれも明治国家を運営していくためには必要だった。そして戦前日本においては、さまざまな局面で2つの論理が使い分けられ、時期によってどちらかに比重が置かれていくことになる。
20世紀に入ると、日本は萌芽(ほうが)的な大衆消費社会へと突入していく。都市化が進み、新聞や雑誌などのメディアが発達する中で、ヨーロッパからはデモクラシー思想も流入してくる。それに伴い大衆の意思を重視した政治システムの構築が目指され、天皇の意思をできるだけ排除した政党内閣制が成立する。メディアもデモクラシーの潮流にふさわしい皇室の在り方を求め、報道していく。つまり、大日本帝国憲法の対外向け論理の比重が高まったのである。しかし、昭和期になるとそうした論理に対する反動が起き、国内向けの論理が優勢になり、一挙に戦争へと突き進むこととなった。
敗戦後、こうした近代日本の天皇制は作り替えられるかに見えた。連合国内では昭和天皇の戦争責任を問う声が高まり、天皇制存続も危ぶまれる状況にあった。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の考えは異なっていた。今後の日本が連合国に反抗しないような形で「民主化」することを目指したGHQは、すでに占領前から研究を進め、占領政策をうまく遂行するためには天皇制の存続が絶対に必要であると考えた。
しかし、そのままの形では連合国内の世論を納得させることはできない。それゆえ、いわゆる「人間宣言」を天皇が発するように求めるなど、天皇制の「民主化」をアピールしようとした。そうした最終的な形こそ、日本国憲法に定めた「象徴」概念であった。天皇の行為を憲法上は国事行為のみに限定することで、天皇制が戦前とは異なることを国際社会に示したのである。
日本側としては、敗戦後も20世紀初頭の天皇制に近い形での論理へ移行することで対応できないかと考えていた。しかし、最終的にはGHQによる日本国憲法案を受け入れざるを得ず、天皇は「象徴」という存在となった。象徴は極めて曖昧な概念である。解釈によって、日本側が考えていた方向へと持っていくこともできる。戦後の天皇制は、そうした模索の道だったと言ってもいい。
その1つが、敗戦直後から始まった昭和天皇の全国巡幸である。そもそも、天皇が国内を旅することは日本国憲法のどこにも書かれていない。つまり天皇の「国事行為」ではない。天皇の旅は、象徴としての地位にあるからこそ行う「公的行為」と現在は解釈されている。GHQは巡幸によって天皇と人々の触れ合いが行われ、それによって「民主化」を国際社会にアピールできると考えた。同時に、敗戦後に荒廃した人心を収めるためにも天皇は全国を旅する必要があると思っていた。
つまり天皇の権威を認め、それを利用しようとしていたのである。これは日本側も同様の考えを有していた。双方の思惑が一致して昭和天皇の巡幸は実施された。戦前の教育を受けた人々はそれを権威的な行為として受け止めたが、メディアは天皇制の変化を示すものとして積極的に報道し、こうした天皇制の在り方を歓迎した国民も数多くいた。つまり、天皇の権威・権限を拡大するために巡幸は実施されたが、受け止める側はむしろ戦後の民主化に向けての変化として認識したのである。そして当然のことながら、こうした双方の認識に齟齬(そご)が生じることが多々あった。
ミッチーブームが去り、「象徴天皇制」の在り方を模索
このような「象徴」に関する模索はその後も続けられ、受け止められ方も時代状況によって変化していく。1950年代になると明仁皇太子が青年となって表舞台に登場し、同時期に行われた日本の講和独立に伴う「再出発」と結びつけられていく。皇太子は戦争のイメージもなく、清新な青年としてメディアの中で盛んに取り上げられ、皇太子への期待感は一気に高まっていく。
1958年、皇太子と正田美智子との婚約が発表され、翌年にかけてミッチー・ブームが起こった。元皇族との婚姻が予想されていた中、「平民」出身者との婚約は人々を驚かせた。しかも日本国憲法に規定された両性の合意に基づく「恋愛」とうわさされたことで、象徴天皇制をより身近に感じさせる出来事となった。高度経済成長によって勢いづいていたメディアはこぞって彼らのエピソードを拡散していく。この時期、女性週刊誌の創刊やテレビの家庭への浸透など新しいメディアが続々と登場し、それがブームに拍車をかけた。そうして日本国憲法に基づいた戦後の民主的な価値観が人々に定着し、高度経済成長の発展の中で「象徴」としての皇太子像が受け入れられていった。
当時、政府は「象徴」の解釈を広げ、天皇を国家元首に近づけることを目指していた。とはいえ、結局、「象徴」から「元首」へと文言を変えることはできなかった。それは、ミッチー・ブームに見られるように、「民主化」を経験してそれを理想化した人々の間では戦後に生まれた「象徴」というイメージが定着し、権威的ではない天皇の姿が求められていたからである。こうした天皇像の定着には、先述したようにメディアの影響も大きかった。
しかし、ミッチー・ブームの渦中にあって、明仁皇太子・美智子皇太子妃はその役割を演じつつ、やや戸惑っていたのではないか。実際、あれだけ熱狂的なブームも時がたつと急速に冷めていく。そのため、皇太子らは次の「象徴」に向けてその在り方を模索するようになる。そもそも日本国憲法や皇室典範において皇太子や皇太子妃の職務に関する規定はないため、自分たちで考えていかなくてはならなかった。
その結果、考えられたのが、「社会的弱者との関わり」であった。彼らは福祉施設を訪問し、入居者と積極的に触れ合った。また、昭和天皇の代理として諸外国を訪問した際、戦争の記憶に対しても関わろうとした。このように自ら模索を繰り返すことで、来るべき象徴天皇像を作り上げようとしたのである。皇太子は、ヨーロッパ的な立憲君主制と日本の伝統的な天皇制を融合させ、「国民と苦楽を共にする」ことが天皇のあるべき姿だと捉えた。そして「象徴」という概念はそれを体現するのにふさわしいと考えた。
「平成流」の延長線上にある天皇の行動
とはいえ、1960年代後半以降、こうした皇太子・皇太子妃の模索は必ずしもメディアでは大きく取り上げられなかった。長い皇太子・皇太子妃時代、メディアや国民には天皇制への飽きのような感情が生じていた。経済成長や自分たちの生活への関心が高く、象徴天皇制への関心は低かった。
それが変化したのが、1989年の即位である。これによって、象徴天皇制への関心が一気に高まった。そして即位後も、明仁天皇・美智子皇后は「象徴」としてどう振る舞うべきか模索を続け、慰霊の旅などを続けた。それが「平成流」としてメディアでも注目されるようになり、人々にも天皇・皇后の行動や思想がより鮮明に印象づけられるようになる。戦争体験世代が減少する中で、第2次世界大戦の記憶に触れるイメージは、象徴天皇の理想的な姿として多くの国民から共感を持って迎えられた。
また、平成に入って大きな自然災害が頻発したこともあり、それまで社会的弱者との関わりを続けてきた天皇・皇后は、その延長線上で被災地訪問も積極的に行った。福祉施設の訪問なども継続し、分断する社会の、特に弱者とも言える人々に目を向けた。「国民と苦楽を共にする」という考えの実践であり、これも「平成流」として定着していく。そして天皇による旅は、昭和天皇の巡幸とは異なる形で受け止められていった。国民のことを思い、その苦労を分かち合うために天皇がやって来る──そうしたイメージが共有され、令和へとバトンタッチされていった。
現在、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、天皇が「おことば」を発してさまざまな行動をするのは、平成流の延長線上にあるとも言える。冒頭に述べた「拝察」発言は、オリンピックに反対する人々への配慮から、感染拡大を懸念するために述べられたものであった。一方、オリンピック開催のために準備してきた人も多い。彼らへの配慮から名誉総裁としての務めを果たし、開会宣言も行った。現在のような分断が進む日本社会において、天皇は国民を統合するための「象徴」として自ら動いているとも言えるのである。
バナー写真:愛知県あま市の七宝焼アートヴィレッジで、地元の小学生の体験教室を見学される天皇、皇后両陛下=2019年6月1日(時事)