政治的駆け引きが勃発。無観客のツケは誰が払うのか?:東京五輪の課題(13)
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「小池知事が決定した」との衝撃発言
5者協議が行われたのは、7月8日夜のことだった。菅義偉首相が東京都に緊急事態宣言の再発令を発表した後だ。協議は午後8時から始まり、続いて関係自治体の知事らを相手にオンラインでの会議が開かれた。記者会見で「首都圏の1都3県が無観客」と正式に発表されたのは午後11時半を回った頃だった。
茨城県は学校連携の児童・生徒のみとし、自転車ロードレースが通過する山梨県も沿道での観戦が自粛されることも発表された。その後には北海道と福島県も知事が無観客開催を表明した。結局、チケットを購入した入場者が入るのは、宮城県のサッカーと静岡県の自転車だけだ。
全体状況が固まった3日後の11日、NHKの「日曜討論」が放送された。テーマは「4回目の緊急事態宣言 対策は? 東京五輪・パラは?」。討論者として招かれた五輪の責任者は、組織委の武藤敏郎事務総長だった。
冒頭、武藤氏は滑らかな口調で無観客開催決定の経緯を説明した。
「(緊急事態宣言で)大変厳しい状況になったと思います。それを踏まえて小池(百合子)知事は東京では完全に無観客にするという決定をされました。国と組織委とIOC、IPCを含めて合意をしたわけでございます」
これまで、だれが無観客の決断をしたのかは明らかになっていなかった。ところが、武藤氏は「小池知事が」と明言したのだ。発言の意図がチケット収入の不足分をだれが埋めるかという点にあることは容易に想像できる。さらに財政の問題について、加藤勝信・内閣官房長官が釘を刺すように言った。
「無観客ということになれば、チケット収入が減じることになる」と述べた上で説明したのは、2013年のIOC総会に提出された立候補ファイルの記述だ。そこにはこう記されている。
「万が一、大会組織委員会が資金不足に陥った場合は、IOCが大会組織委員会に支払った前払金その他の拠出金のIOCに対する払い戻しを含めて、東京都が補填することを保証する。また、東京都が補填しきれなかった場合には、最終的に、日本国政府が国内の関係法令に従い、補填する」
加藤官房長官は用意していたこの文面を、IOCに絡む部分のみ省略して読み上げた。つまり、このことを言及することによって、無観客で組織委が資金不足に陥るのだから、赤字分はまず東京都が責任を持って埋めるということを強調したかったのだろう。
武藤氏も「チケット収入はもともと900億円を想定していましたが、この結果、ゼロではないが、ほんの何十億円程度に激減することは間違いない。予定通りに昨年夏に行われていれば、黒字になることは間違いないと自信を持って言えたが、今回はさすがに収支が整わない」と打ち明けた。
この討論の場に東京都の関係者はいなかった。しかし、政治的な駆け引きがすでに始まっているのかもしれない。今回はその一端が表面化したともいえる。収支をめぐって東京都と国がどんなせめぎ合いを見せるのか、大会終了後も注目していく必要がある。
なぜ観客制限の決定は遅れたのか
海外客の受け入れ断念が決まったのは、3月20日の5者協議だった。組織委はこの時、「変異株の出現を含め、厳しい状況が続いている。国境をまたぐ往来が厳しく制限されている。この状況で、夏に海外から日本への自由な入国を保証することは困難」との声明を発表した。極めて現実的な判断といえた。
問題は国内の観客の扱いだった。プロ野球やサッカー・Jリーグでは、政府方針に従って制限付きで観客を入れている。3度目の緊急事態宣言の際も「収容定員の50%以内で最大5000人」という制限が設けられていた。組織委としては、有料入場者による収入だけでなく、スポンサー関係で入場する観客の存在も無視できなかった。このため、五輪も国内スポーツイベントに準じる方針で調整が進められていた。
ところが、そこに待ったをかけたのが尾身茂氏ら感染症の専門家グループだった。政府のコロナ対策分科会の会長でもある尾身氏は、あくまで「専門家有志」として提言を発表した。
「2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会開催に伴う新型コロナウイルス感染拡大リスクに関する提言」と題された文書が政府と組織委に提出されたのは、開幕まであと1カ月あまりに迫った6月18日のことだ。そこには尾身氏ら26人の専門家が名を連ねた。政府が諮問した組織ではなく、あくまで独立したグループとしての見識を示した形だ。
「本大会は、その規模や社会的注目度が通常のスポーツイベントとは別格であるうえに、開催期間が夏休みやお盆と重なるため、大会開催を契機とした、全国各地での人流・接触機会の増大による感染拡大や医療逼迫のリスクがある」
この文章がポイントだった。五輪は「別格」であると表現することで、国内のスポーツイベントの基準は当てはまらないと指摘したのだ。その上で、「当然のことながら、無観客開催が最も感染拡大リスクが少ないので、望ましい」と提案した。
都議選の結果も影響か
それでも、組織委をはじめとする主催者側は、なかなか無観客に踏み切れなかった。チケット収入の不足をだれが補うのかという問題が棚上げされていたからだ。そんな折、東京都議選が告示された。与党第1党であり、小池知事が特別顧問を務める「都民ファーストの会」の苦戦が予想されていた。
都民ファーストの会は選挙公約に「東京五輪・パラリンピックの無観客開催」を掲げる賭けに出た。小池氏は観客問題について、態度を表明していなかったが、世論の風向きを読んだのだろう。そして迎えた7月4日の選挙当日、都民ファーストの会は予想を覆して善戦し、自民党に次ぐ第2勢力に踏みとどまった。
それから4日後、東京都にとっては4度目の緊急事態宣言が発令された。さすがに小池氏も無観客開催を判断せざるを得なかったに違いない。当初は4月末までには国内観客の上限を決めるはずだった。しかし、決定は大会2週間前までずれ込み、チケットの払い戻しを中心に大会準備に大きな支障が出た。
「1年延期」の政治判断が混乱招く
振り返れば、延期となった五輪準備の混乱は、政治の責任にほかならない。いまだコロナの終息は見通しが立たないが、ワクチン接種が進んだ欧米プロスポーツの状況を見る限り、「もし2年延期されていれば、五輪も……」と考えざるを得ない状況だ。
1年延期を主導したのは、安倍晋三前首相だった。周囲からは2年延期を勧める意見もあったといわれているが、安倍氏は1年延期にこだわった。今年9月末の自民党総裁任期を意識し、首相としての花道を五輪で飾ろうとしたとの見方が根強い。その後には衆議院議員が任期満了を迎える。五輪で盛り上がった国内ムードに乗じて総選挙を戦えば、自民党が勝利できるとの目算もあったはずだ。
だが、政治判断のズレが、今の混乱を招いたように思えてならない。皮肉なことに安倍氏は体調不良で首相の座を退き、もう五輪に関わる立場にはない。組織委会長だった森喜朗元首相も女性蔑視発言で辞任し、実質的な責任者の相次ぐ「退場」で大会運営には舵取り役がいなくなった。これも観客制限の判断を遅らせることになった一因だろう。
政治家が先頭に立って突き進んできた東京五輪。延期が決まった後、安倍氏や菅首相らが声高に語っていた「人類がコロナに打ち勝った証しとして、完全な形で開催する」という言葉には、今やむなしさだけが残る。
英国ではサッカーの欧州選手権決勝やテニスのウィンブルドン選手権が満員の観客で埋まり、米大リーグ・大谷翔平の「二刀流」で熱狂するオールスター戦の模様がテレビを通じて日本に伝えられた。
ワクチン接種がまだ全世代に行き渡らない状況で、日本は感染急拡大の不安を抱えながら五輪本番に突入する。次々と来日する外国の選手団は隔離状態で選手村に押し込まれ、日本の状況を世界に伝えようとする海外メディアの取材も制限されている。大会を盛り上げる関連イベントの大半も中止になった。
23日午後8時から開会式は始まる。歓声なき無観客の国立競技場を各国選手団が入場行進する。日本という国の姿が、世界にはどう映るのだろうか。
バナー写真:開会式を待つ国立競技場。観客席の斬新なモザイク状のデザインは、遠目に見ると、無人でも満員状態に感じられる 撮影:天野久樹