シリーズ・結党100年の中国共産党と日本(5): 改革開放とは何であったのか
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鄧小平が設計した「再建計画」
中国を文化大革命(文革)のカオスに陥れた毛沢東が1976年に死去すると、中国共産党は、文革からの脱却に着手した。その重責は、毛亡き後の党内権力闘争を制した鄧小平が担うこととなった。
鄧小平は、文革によって一時的に失脚するまで国務院副総理として終身総理の周恩来を補佐し、共産党内では中央政治局常務委員として党中央の最高意思決定に携わっていた。このため、周恩来および毛沢東が相次いで死去した後の党と国家の建て直しを託せる人物として党内の期待が彼に集まった。
また、鄧小平は、内戦期に中国人民解放軍の第2野戦軍の政治委員をつとめ、1970年代には解放軍の総参謀長をたびたびつとめた経歴も持っており、その豊富な軍歴をつうじて解放軍の重鎮たちと太いパイプを築いていた。そのことは、鄧小平が1981年に解放軍全体を統括する共産党中央軍事委員会(中央軍委)の主席に就任することを可能にした。
毛沢東時代の中国は、もともと米国を主要敵とみなしていたが、ソ連におけるスターリン批判(個人独裁批判)の展開ならびに集団指導体制への移行は、毛沢東にとって自身の個人独裁を脅かす動きにみえた。そこで毛は、中国国内で集団指導体制への移行を進めようとした劉少奇をはじめとする党内勢力を1965年以降の文革で一網打尽にすると同時に、ソ連との対決姿勢を鮮明にし、さらにソ連からの重圧に対抗することを目的として、1972年に米国および日本との関係を劇的に改善した。
このような前史があったため、鄧小平が策定した中国再建計画は、日米をはじめとする西側諸国との経済関係を活用して国力を増強し、ソ連の脅威に対抗することを基本指針としていた。従来の計画経済を大幅に見直し、市場経済の論理に適合した政治・経済体制の確立に向けて改革を進め、西側諸国に中国市場を開放して投資を積極的に呼び込み、停滞が続いた中国の経済を離陸させる。鄧小平が導入を進めたこのような趣旨の路線は、やがて「改革開放」とよばれるようになった。
改革の展開とその限界
中国経済を離陸させるには、当時まだ極めて低い水準に留まっていた基本的な交通インフラ(鉄道の電化、高速道路・港湾・空港の整備)の建設から始めなければならず、それには膨大な資金が必要となった。そこで「改革開放」路線は、西側諸国からの大規模な借款に頼ることになった。その実に6割以上が日本からのものだった。
借款の導入と同時に経済建設の予算を確保する上で重要な課題となったのは、米ソ両超大国と対立していた間に兵力が600万人にまで肥大化した解放軍の予算、すなわち国防費の削減であった。中央軍委主席の座に就いた鄧は、中国が日米同盟と結びついた以上、ソ連が中国を攻撃する可能性は大幅に軽減したという対外認識を示しつつ、大物軍人の支持を取り付けて兵力を約半分に減らす荒療治を断行し、国防費の大幅な削減に成功した。
社会主義の看板を掲げる国が、不倶戴天の敵であるはずの資本主義の国々と結びついて市場経済を導入するという「改革開放」は、中国経済を発展させる手っ取り早い方法であった。しかし、それは同時に、共産党による一党独裁の正統性を根幹から揺さぶることとなった。
「生産手段の公有化」という社会主義の原則に基づき企業・土地・インフラ・資源を共産党が独占したままの状態で市場経済を導入すれば、共産党の一人勝ちとなってしまい、ただでさえ文革で共産党への信頼を失いかけていた民衆が、共産党への不満を爆発させかねなかった。そこで鄧小平に抜擢された党総書記の胡耀邦と国務院総理の趙紫陽は、党と企業を切り離し、党の権限に大きな規制をかける改革を展開しようとさまざまな手を打った。
ところが、経済特区に指定された地方の党委員会を先駆けとして、1980年代を通じて西側諸国とのビジネスで巨万の富を手に入れた党内既得権益集団が急速に膨張し、胡耀邦らの改革に頑強に抵抗するようになった。市場経済の導入に懐疑的だった党内保守派も胡耀邦に対する批判を展開した。このため、胡の改革にはブレーキがかかり、党幹部が権限や国有資産を駆使して特権的に富裕化する「権力と資本の癒着」という光景が顕在化した。
共産党幹部の富裕化がもたらした貧富の格差の拡大は、一般民衆の強い不満と反発を招き、80年代半ばには中華人民共和国において未曾有の規模の「民主化」運動が盛り上がることとなった。それに理解と同情を示した胡耀邦を鄧小平が罷免したことにより、「改革開放」は本来の軌道を大きく外れていくことになる。
天安門事件と「改革解放」の変容
失脚した胡耀邦が1989年に失意のうちに死去すると、一時的に沈静化していた「民主化」運動が一気に再燃し、北京市の天安門広場で最大で100万人を超える民衆が鄧小平のガバナンスに異議申し立てをおこなった。中央軍委主席の地位にあった鄧小平がこれを「反革命動乱」と認定して、解放軍による鎮圧を命じたため、89年6月4日に流血の惨事、すなわち天安門事件が発生した。
中国国内から沸き起こった「民主化」要求を共産党が武力で弾圧したことに対して西側諸国が一斉に制裁を発動したことは、その後続いた湾岸戦争(90年)、ソ連崩壊(91年)、そして第3次台湾海峡危機(1995年、96年)といった事件とあいまって、中国共産党の対外認識を根本的に変えることとなった。これらの事件以降、共産党政権は国内からの「民主化」要求ならびに米国を筆頭とする旧西側諸国、特に日米同盟を政権存続にとっての主たる脅威と認識するようになる。
旧西側諸国との経済関係を土台とした「改革開放」は、1989年に破綻に追い込まれてもおかしくなかった。しかし、中国の経済発展に伴う中間層の拡大によって民主化が不可避的に進展するという認識に傾斜した米国政府が、中国を封じ込めるのではなく、積極的に国際市場に組み入れることに主眼を置いた「関与」政策を打ち出し、日欧がそれに追随したため、「改革開放」は命脈を保った。
ただし、鄧小平から江沢民に引き継がれた90年代以降の「改革開放」は、当初の内容から大きく様変わりすることとなった。共産党が旧西側諸国から借款と投資を受け入れつつも、前述した脅威への対抗策を積極的に講じるようになったからである。
その策の一つが、日米欧の社会で信奉されている普遍的価値観への中国民衆の共鳴を阻止し、「権力と資本の癒着」に起因する民衆のフラストレーションの矛先を国外に逸らすことを目的とした排外的ナショナリズムの発揚である。もう一つが、国防費を大幅に増額する形で推進した解放軍の大々的な軍備増強、すなわち軍拡である。
軌道修正に失敗、毛沢東時代に逆戻りか
中国共産党が日米欧との貿易を通じて経済を発展させつつ、中国国内で日米欧、特に日米を仮想敵とするプロパガンダを展開し、日米同盟を念頭に置いた軍拡を続けた結果、「改革開放」は日米欧が想定していたものとは大きく異なる展開をみせるようになる。
日米欧では、中国との経済的相互依存が中国との信頼醸成を促し、安全保障面での緊張緩和をもたらすという期待が強かった。ところが、共産党が上記の二つの対抗策を講じたため、現実には中国と日米の間では、経済的相互依存が深まるのと並行して中国国内において反日・反米感情が高まり、外交面での対立が慢性化し、安保面での緊張が高まるというジレンマが表面化した。
江沢民の後を継いだ胡錦濤の政権(2002年〜12年)は、日米との衝突軌道に乗ってしまった「改革開放」の軌道修正を行うために、国内改革に真摯に取り組もうとする姿勢をみせていた。しかし、富の再分配の強化、排外主義からの脱却、法律を遵守した形での集団指導体制の徹底を掲げた改革は、再び党内の既得権益集団の抵抗にあって頓挫してしまう。そして、その既得権益層に担ぎ出されて習近平が政権トップの座に就くと、「改革開放」は加速度的に形骸化した。
習近平政権では、排外主義および自民族優位主義の発揚が一段と強化され、習近平を祭り上げる個人崇拝のプロパガンダも展開されるようになり、日米欧に対して「変わるべきは中国ではなく、日米欧の方だ」という強硬姿勢が外交の基軸に据えられた。これは、中国が米中接近前夜の毛沢東時代に逆戻りしたような現象といえる。この現象に触発される形で、米国は、17年末に長年維持してきた対中「関与」政策の放棄を宣言した。これにより、鄧小平が導入した「改革開放」の存立基盤が根底から揺らぐこととなった。
排外主義やめられずに「破綻」
「改革開放」とは、端的にいえば、米国を基軸とする国際秩序との共存のなかで中国の富強を図る試みであった。それは、経済発展の面で注目すべき成果をあげたが、既存の国際秩序との共存という点では2010年代に破綻を来し始めたといえる。
「改革開放」の揺らぎは、経済発展に伴い肥大化した中国共産党内の既得権益集団が自己の特権的地位にメスを入れる改革を拒み、それによって生じた中国社会の亀裂を排外的情念で埋め、排外的気運の高まりが必然的にもたらす国際社会との摩擦を経済制裁や軍事的恫喝でしのぐという近視眼的な対症療法を選択したことに起因している。
バナー写真:上海中心部で警備にあたる中国の武装警察官。この日は共産党創建100周年の前日で、「光のショー」が行われた=2021年6月30日(AFP=時事)