論考:東京五輪の課題

世界に広がる「反五輪運動」の根底には何があるのか :東京五輪の課題(12)

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東京五輪の開幕が間近に迫っても、開催を不安視する声はなおも消えない。国内だけでなく、海外でも「反五輪運動」が起き、運動家たちが国境を越えた連帯を求めている。訴えているのは、新型コロナウイルスの感染対策に対する不満だけではないようだ。反対する根底には、どんな問題意識があるのだろうか。

「ノー・オリンピック」の同時デモ

五輪開幕1カ月前となる6月23日、東京都庁前には大勢の人だかりができていた。大会の中止を求める抗議活動だった。主催したのは「反五輪の会」や「『オリンピック災害』おことわり連絡会」など国内の8団体。2024年開催地のパリや28年の開催が決まっているロサンゼルスの住民とも連絡を取り合い、「NOlympic Day」の同時デモを行った。

この日は、1894年6月23日に国際オリンピック委員会(IOC)が設立されたのを記念した「オリンピックデー」だった。例年はコンサートやジョギングのイベントなどが各地で行われるが、今年はコロナ下で開催されなかった。そんな中、「ノー・オリンピック」の集会が実施されたのだ。PRチラシには「やらせるものか『犠牲の祭典』」「オリンピックは私たちを殺す!」などの過激な言葉が並んだ。

抗議集会で、主催者の女性はマイクを手にコロナ下で強行開催される五輪を批判した。国立競技場建設のために転居させられた都営霞ケ丘アパートの住民や、「復興五輪」を掲げながら10年たっても終息しない原発事故の被災地の例を挙げ、「今、聖火リレーが商業主義全開で全国を回っている。世界中、日本中の仲間たちとともに『オリンピックやめろ』の声を上げてきたい」と訴えた。

住民運動が結びつく時代

五輪開催に反対する運動は、これまでにも数々の例がある。有名なのは、1976年冬季五輪の開催が決まっていた米コロラド州デンバーのケースだ。環境破壊や過剰な税負担に対する反発が広がり、住民投票で開催反対が多数を占めた。その結果、4年前に大会の返上が決まり、オーストリアのインスブルックで代替開催されることになった。

98年長野冬季五輪でもアルペンスキーの男子滑降コースが、自然保護団体からの批判を受けて、志賀高原の岩菅山から白馬の八方尾根に移った。その後も、スタート地点を国立公園内の特別地域に設置できるかどうかをめぐって国際スキー連盟と組織委員会の意見が対立し、大きな問題となった。

近年の五輪招致では、住民の反対を受けて立候補を断念する都市も相次いでいる。24年夏季五輪ではハンブルク、ローマ、ブダペストが撤退した。ハンブルクでは住民投票で反対が多数を占め、ローマは市長の交代で招致をとりやめた。ブダペストも反対派の声が大きなうねりになったとされる。いずれも巨額の財政負担に対する懸念が背景にあった。

このように、環境保護や財政問題の観点から反対運動が起きるケースは以前から見られる。だが、今回は複数の五輪にまたがる各国の反対運動が連帯の動きを見せているのが特徴といえるだろう。

3年後のパリ五輪をめぐっては、パリ郊外のオーベルヴィリエにある労働者向けの菜園が、五輪の練習用プールの建設のために取り壊されることになり、抗議運動が起きている。この菜園は1世紀近い歴史があり、貧しい人々が食費を浮かすために野菜を植えているのだという。東京での集会ではそうしたパリの現状が伝えられた。

ロサンゼルスでは東京五輪の中止を求める集会が開かれ、「NOlympics LA」という組織が声明を発表した。「東京2020オリンピックは反道徳的であり、コロナが何であるかを知る前からたくさんの人々の生活を台無しにしてきた」と指摘した上で、米国での現状にも触れ「オリンピックがいかに貧しい人々、アフリカ系アメリカ人やラテン系アメリカ人、その他の生活援助の行き届いていないコミュニティにどのような影響を及ぼしたかを私たちは知っている」と訴えた。

日本と連携して反対行動を起こしている団体は、パリやロサンゼルスの他、18年平昌冬季五輪が開かれた韓国にもある。彼らは大会の中止だけでなく、五輪そのものや国際オリンピック委員会(IOC)の廃止を求めている。

SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)によって簡単に世界が結びつく時代だ。各国の運動が連帯し、拡大しやすくなったということだろう。それだけに住民運動が大きな力を持つようになってきた。

五輪に反対する人々にはどんな思いがあるのか。世界各地で起きる現象を結びつければ、そこには共通項があるようにも思える。

「祝賀資本主義」による巨大化

米国の政治学者、ジュールズ・ボイコフ氏は著書『オリンピック 反対する側の論理』(作品社、井谷聡子/鵜飼哲/小笠原博毅監訳)の中で、「さまざまな社会運動と連携するオリンピック反対運動」を取り上げている。

黒人差別撤廃運動の「BLM(ブラック・ライブズ・マター)」やセクハラなどの性的被害を告発する「#Me Too(ミー・トゥー)」など、市民運動が活発に展開される米国。その背景には、人種や民族、性別による差別、階級の抑圧といった社会の不公正があり、反五輪運動に携わる人たちも、そうした問題への共通意識を持っているようだ。

日本の反五輪運動に加わったグループの中には、女性差別の撤廃運動に関わる団体もある。抗議集会には、原発問題や医療体制について語る人たちも参加していた。

ボイコフ氏は、五輪を取り巻く現在の状況を「祝賀資本主義」という言葉で表している。五輪のような祝賀行事に乗じ、商業主義や国家主義が利益や利権を求めて資金をつぎ込む。その結果、祝祭ムードでお祭り騒ぎが加速し、大会がますます巨大化していく。

だが、そこには差別を受ける人々や貧困層など社会的弱者に対する配慮が欠落している。それが五輪の現状かもしれない。東京ではコロナで国民の生活が制限される中、IOCに巨額の利益をもたらす大会が、感染拡大の不安を尻目に強行開催されようとしている。ボイコフ氏は厳しい論調でこう書いている。

「コロナウイルスによって引き起こされた東京オリンピックの延期は、五輪に批判的な人々が長い間訴えてきたことを白日のもとにさらした。オリンピックは、特定な階級を、他の階級を犠牲にして、優遇していることを、だ」

「世界宗教」ではなくなった五輪

57年前の前回東京五輪で日本選手団団長を務めた大島鎌吉氏の言葉が思い出される。モスクワ五輪のボイコットが起きた1980年7月の「月刊陸上競技」に書き残していた、大島氏の五輪思想ともいえる文章だ。

「オリンピックは大宗教団体である。オリンピック宗の本尊は『フェアプレー』。世界共通の理念である」

大島氏は五輪について、仏教やキリスト教、イスラム教をも超越した「世界宗教」だという信念を持っていた。世界中の人々が信じるものはフェアプレー、つまり公正さだという考えだ。そんな精神が今の五輪に少しでも残っているだろうか。

五輪憲章は「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」と定めている。

この条文こそ、五輪の真髄であるべき理想だ。さまざまな立場を越えて世界の人々が結びつく。今回の東京五輪もそれを意識して「多様性と調和」を大会ビジョンに掲げたが、その意義が伝わってこないのは残念だ。

東京都に緊急事態宣言が発令されることになり、首都圏の4都県と北海道、福島では無観客開催が決まった。感染が広がる地域では公道で聖火リレーを実施できず、各地のパブリックビューイングも相次ぎ中止になった。祝祭ムードが打ち消され、虚飾を脱ぎ捨てた五輪に我々は何を見るのか。生身のアスリートの戦いから何が伝わってくるのか。

バナー写真:6月23日、東京都庁前で行われた「ノー・オリンピック」のデモ集会で、PRチラシを掲げて抗議する人々  AFP=時事

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