シリーズ・結党100年の中国共産党と日本: 日中戦争 戦後の政権奪取に向かう“大転換点”に

歴史 政治・外交

中国共産党にとって日中戦争の勃発は、当時苦境に陥っていた情勢を一変させる出来事だった。日本軍との戦闘、また国民党との関係悪化による数々の危機を乗り越えつつ、結果的に勢力拡大に成功した。

1937年7月7日の盧溝橋事件に端を発するその後の日中全面戦争は、中国に甚大な被害をもたらしたが、共産党にとっては起死回生の出来事となった。日中間の本格的な戦争が始まるまで、国民党との協力に向けた話し合いが進められていたものの合意に達しておらず、それまでの間、共産党は厳しい生存環境の中、西北地域の一隅に封じ込められていた。

「長征」の果てに

1930年から断続的に行われた5度にわたる国民党の囲剿(包囲殲滅)戦により、共産党は江西省の根拠地を放棄し、内陸奥地を転々とすることになる。最盛期には30万人を誇った党員も貴州省に到達した時には1万人にまで減少していた。その後、四川省北部の根拠地を離脱した部隊と合流したが、そもそも目的地も決まっていなかったため、南下するか、北上するかで意見がまとまらなかった。当時有力な指導者の一人であった張国燾は南下を主張して離脱し、新たに党中央を名乗り、共産党は分裂の危機に陥った。最終的に毛沢東、周恩来らの主力部隊は北上し、大雪山脈を踏破して1935年末に陝西省の小さな根拠地にたどり着き、「長征」を終えた。

陝西省に新たな生存空間を手に入れた中国共産党であったが、これまでの地味が肥えた土地とは違って、自給自足もままならないような痩せた土地で軍隊を維持しなくてはならなくなった。各地に散らばっていた軍隊は依然として北上の途中にあったが、早晩これらの軍隊をも養わなくてはならなかった。

二つの幸運

共産党にとって幸運であったのは、陝西省延安に到着したことによって、コミンテルン(共産主義インターナショナル)との連絡を回復できたことであった。中国共産党はコミンテルンの中国支部として成立したこともあり、成立から10年ほどは月ぎめの方法で資金援助を受け、基本的にコミンテルンの資金で組織を維持していた。その後は必要に応じて援助する方法に変わったが、それでも共産党の財政に占めるコミンテルンの援助は決して少なくなかった。中央根拠地を放棄して以来、共産党はコミンテルンと連絡が取れなくなっていたが、1936年6月に通信が回復した。地味の痩せた大地で部隊を養うことは容易ではなく、共産党はコミンテルンから約200万ドルの資金を得て、苦難の時期を乗り越えることができた。

もう一つ共産党にとって幸運であったのは、張学良率いる東北軍と協力関係を築けたことであった。満洲失陥の責任を取って下野し、外遊に出ていた張学良は、帰国後共産党討伐の任にあたることになり、35年10月には東北軍を率いて西安に移駐する。北上してきた共産党軍との戦闘によって麾下の東北軍3個師を失った張学良は、折からの日本の圧力による華北情勢の緊迫ににもかかわらず攘外(抗日)よりも安内(共産党討伐)に注力することに疑問を感じ始めていた。このころから張学良は共産党とのコンタクトを試みはじめる。その主な目的は抗日の後ろ盾としてソ連との関係を取り結ぶことにあった。

一方の共産党はコミンテルンの指示のもと、35年末には広範な抗日民族統一戦線を結成することを確認し、その後、張学良および東北軍との協力の可能性を模索する。36年4月に延安で張学良と周恩来が会談を行い、抗日のための協力について話し合った。会談では「内戦停止、一致抗日」が確認され、コミンテルンから張学良への支援も約束された。さらに楊虎城ならびに西北軍とも協力関係を取り結ぶことができた。これは困難に陥っていた共産党にとって、自らの安全保障環境を劇的に改善するものであった。

西安事件の意外な結末

しかし、一向に討伐が進まないことに業を煮やし、督戦のために西安にやってきた蔣介石を張学良・楊虎城が監禁するという西安事件が起き、共産党は難しい判断を迫られることになった。スターリンは共産党が抗日統一戦線を拡大することには賛成であったが、その時点において中国を指導するのは国民党政権であり、蔣介石であると考えていた。共産党は西安事件を平和的に解決するようコミンテルンから命ぜられた。

蔣介石が談判に応じなかった場合、共産党は東北軍とともに国民党軍の包囲と集中砲火を浴びることになるところであったが、共産党軍の指揮権を中央政府に渡す代わりに共産党討伐を停止するという条件で交渉は妥結した。

これは国民党にとっても共産党にとってもいわば口約束に過ぎず、国民党が共産党の政府および軍隊に対する経費について実際に約束した額を支出しなかったのと同様に、共産党も紅軍の指揮権を蔣介石にゆだねるつもりは毛頭なかった。したがって、実際に日中戦争が勃発するまで、「国共合作」の実現はじつにあやふやなものであり、共産党が自身の勢力を維持できるかどうかは非常に心もとない状況にあった。

日中戦争の勃発と共産党の拡大

しかし、日中戦争の勃発は共産党の置かれた環境を大きく変えることとなる。共産党は盧溝橋事件の報を受けて1937年7月8日付(実際の通電は10日)で抗日自衛と国共合作を各界に宛てて通電し、15日には国共合作宣言を発して自らの「ソヴィエト政府」の名称の取り消しと、軍隊の国民革命軍(国民党軍)への改編を宣布した。

事件勃発当初、情勢を深刻にとらえていなかった蔣介石は共産党に対して強気であり、共産党による軍隊の独立指揮権について認めない方針であった。しかし、7月末に華北での情勢が危機に陥ると、蔣介石は共産党軍の出撃と引き換えに共産党軍の改編(正規化)と共産党による独立指揮権を与えることに同意した。

さらに蔣介石は9月には、共産党軍の迅速な出撃を促すために、共産党およびその政権の合法化を意味する国共合作宣言を、共産党の案文どおりに発表することを認め、ここに共産党は自らを合法的に存在し、勢力を拡大することが可能となった。

ただ、共産党が支配する地域をどの範囲まで認めるか、またどの程度の経費を支給するか、といった細部については、年末の国共両党委員会に譲られた。国民党側はソ連の参戦を期待して交渉に臨むものの、それが難しいことが分かると、できるだけ問題の解決を引き延ばす方針を取ったため、共産党側も自活するほかなく、コミンテルンに対して財政援助を要望した。

コミンテルンから支給され、王稼祥がモスクワから持ち帰った30万米ドルの領収書。日付は1938年4月28日。毛沢東が署名している。
出典:В.Н. Усов. Советская разведка в Китае : 30-е годы XX века. Москва: Товарищество научных изданий KMK. M., 2007.
コミンテルンから支給され、王稼祥がモスクワから持ち帰った30万米ドルの領収書。日付は1938年4月28日。毛沢東が署名している。
出典:В.Н. Усов. Советская разведка в Китае : 30-е годы XX века. Москва: Товарищество научных изданий KMK. M., 2007.

共産党は日中戦争開始当初、自らの地位を合法化する必要から運動戦による積極抗戦を戦略方針とし、平型関(山西省)などで日本軍に打撃を与えた。しかし、軍隊の指揮権承認に続いて9月に共産党の合法化が予測されるようになると、蔣介石の容共に懐疑的だった毛沢東は日本軍との正面戦闘を避け、山岳部おける独立自主の遊撃戦により勢力の温存と拡大を図った。さらに入党者を大幅に増やすことにより党勢の拡大を目指した。これにより、日中戦争開始時に約3万人であった党員は40年には80万人を誇るまでに発展し、配下の軍隊も50万に達した。

自力更生で危機克服

1940年に入ると日本軍も中共軍の拡大に注目するようになり、華北を中心に掃討戦を実施するようになる。共産党も3年間の発展に自信を持つようになっており、戦局は「戦略防御段階」から「戦略対峙段階」へ移行したと捉え、大規模な破壊戦を実施した(百団大戦:100の団(聯隊)が参加したことから百団と名付けられた)。この作戦により、たしかに一定の日本軍の拠点や線路などを破壊することができたが、日本側を上回る損害を受けたのみならず、日本軍、国民党に共産党の実力を改めて認識する契機を与えてしまった。

これ以降、共産党は日本軍の掃討戦と国民党軍の封鎖に苦しめられ、根拠地は危機を迎える。さらに、41年1月には華中にいた共産党の新四軍が命令により揚子江以北へ移動中、国民党軍に襲撃を受けて壊滅的打撃を受ける皖南事件が起き、共産党を取り巻く環境は急速に悪化した。加えて、急速な党の拡大によって不純分子が党内に大量に入ってきたこともあり、根拠地は一種の恐慌状態に陥った。

こうした危機を克服するため、党内の思想統一を図り、不純分子を排除することを目的として整風運動を実施し、また行政と合理化と軍隊の民兵化により生産離脱人口を抑え、生産力を向上させる精兵簡政を行い、なんとか危機の時代を乗り切った。

42年後半ごろから太平洋における日本の劣勢が濃厚となり、中国に配置された精鋭部隊が南方等に転用され、分散配置された兵力は弱体化し、共産党が根拠地とする後背地の兵力は手薄となっていった。さらに44年に実施された大陸打通作戦により、華北の日本軍は国民党軍を壊滅させながら南下したため、華北には大きな軍事的空白が生じた。この間隙を縫って共産党は攻勢に転じ、鉄道沿線や小都市にまで根拠地を拡大し、日中戦争終結時には人口1億強を支配下におき、党員は121万人、軍隊は127万にまで増加した。また、華中では米軍との情報網の構築、偵察に協力し、米軍上陸時の共同作戦と米軍からの資材の提供などが話し合われた。

ソ連の庇護と終戦

共産党軍は太平洋戦争末期から徐々に分散遊撃戦から大兵力を集中する正規戦へと移行し始め、戦後の国共闘争に備えた。1945年4月にはソ連の対日参戦を見越して、共産党はソ連の作戦に呼応するとともに東北(満洲)の回復を準備するよう指示を出した。8月10日、日本の無条件降伏の報が伝わるや否や矢継ぎ早に命令を発し、日本軍の武装解除、都市や交通の要所の占領を命じるとともに、翌日には東北に部隊を進めるよう指示した。ソ連の庇護もあって、共産党は東北に足場を築くことができたことから、戦後の国共内戦において北を陣地として南に発展することが可能となった。

1945年8月10日発モスクワから中国共産党に宛てた傍受暗号電報。 延安の「日本人民解放同盟」などの状況に関する問い合わせ
出典:The National Archives, Kew. HW/17/42
1945年8月10日発モスクワから中国共産党に宛てた傍受暗号電報。 延安の「日本人民解放同盟」などの状況に関する問い合わせ
出典:The National Archives, Kew. HW/17/42

降伏時の日本軍の武装解除等について指示する延安総部の命令書(1945年8月10日付) 
出典:中国革命博物館(筆者撮影)
降伏時の日本軍の武装解除等について指示する延安総部の命令書(1945年8月10日付)
出典:中国革命博物館(筆者撮影)

日中戦争の勃発は、西北地域で苦境に陥っていた共産党にとってその環境を一変させる契機となり、戦後の政権奪取に向けた起死回生の転回をもたらした。ここで描かれた歴史は共産党の公式党史のような栄光に満ちたものではなく、共産党の発展が多くの偶然と幸運によってもたらされたことを示している。しかし、その偶然や幸運の一半は共産党自らの戦略判断によって引き寄せたものであり、華々しい公式党史とはことなるものの、苦難の末に勝ち取った成功の歴史でもあった。

バナー写真:延安時代の毛沢東(1945年8月)。前列左から朱徳、張治中(国民
党)、イヴァン・イートン大佐、後列右から毛沢東、ハーレー駐華米国大使
出典:Hoover Institution Archives, Stanford. Ivan Yeaton Papers, Box9

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