病床9割減でも医療崩壊はなかった:財政破綻した夕張から学ぶこと

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2007年、北海道夕張市は財政破綻した。これに伴い市内に1つしかなかった病院が閉院となり、診療所に縮小された。高齢化率日本一の夕張市で病床が10分の1になり、専門医もいなくなり、「医療崩壊」に直面したのである。しかし死亡率が急激に悪化する事態にはならなかった。一体、何が起きたのか?

新型コロナ肺炎の流行で「医療崩壊」という言葉がマスコミで取り沙汰されているが、私は今回の騒動のはるか以前から医療崩壊についての情報を集め研究していた。なぜなら私は2007年に夕張市が財政破綻し、同時に「医療崩壊」とマスコミで騒がれた当時の市立診療所で院長を務めていたからである。

そこで見えてきた「医療崩壊」の本質は、今報道で訴えられている「医療崩壊」とはかなり色合いの違うものだった。夕張市の医療現場で患者さんたちに教えられ、さらに日本全国・世界全体のデータを俯瞰(ふかん)してみると、現在盛んに報道されているような表層的な問題の裏に、「死生観」や「主体的な人生の選択」といった、多分に文化的な要素が大きく絡んでいることが分かったのである。

「プライマリーケア」にシフトすることで打開

夕張市の医療は、市の財政破綻で激変した。それまで市内に唯一存在したベッド数171床の市立総合病院が財政破綻により維持できなくなり、19床の市立診療所となった。高齢化率日本一なのに、ベッド数だけで言えば約9割減という破格の減少ぶりだ。同診療所の初代院長となった村上智彦医師(私の師匠筋にあたる)は、その難局をそれまで市内でほとんど行われていなかった「プライマリーケア」にシフトすることで切り抜けようとした。プライマリーケアとは患者の相談を受けて初期診断を行い、必要なら適切な医療機関につなぐ総合医療である。専門医療とは異なり家庭医的な役割を担い、生活改善の指導や病気の予防を行う。

つまり、手術や高度な治療が必要な患者は遠方の病院に迅速に搬送するが、そうでない多くの高齢者がかかる慢性疾患や老化現象に対しては、在宅医療や訪問看護・介護など、病院の外で対応できる医療を整備したのである。これは、「高度な医療を諦める」といった話では決してない。医療崩壊後にベッドが19床しかなくなったから「あぶれた患者が在宅へ押しやられた」と考えたら大間違いだ。私が勤務している間に、19床のベッドが一度も満床にならなかった事実がそれを証明している。

焼酎だらけの部屋で迎えた静かな死

高齢になれば誰しも足腰が弱くなる、物忘れも激しくなる、飲み込みが悪くなって肺炎を繰り返すこともあるだろう。そして残念だが、そうした高齢患者の慢性疾患は多くの場合、医療での治療は困難である。そんな人生の終末期を迎えるに当たって、最期の時間をどうやって過ごしたいのか。病院で静かに療養したいのか。それとも自宅で自由な時間を過ごしたいのか。それはその人の人生の選択であり、決して医療者が考える「医学的正解」だけで判断してはならない。

例えば夕張にはこんな方がおられた。90歳代でアルコール中毒の男性。肝臓も肺もボロボロで体はもうとっくに限界のはずなのに、自宅で朝から焼酎を飲んでいる。彼はそれまで何とか外来に通ってきていて、診察室ではそれなりによそいきの顔を繕っていた。

しかし、訪問診療に切り替わって私が自宅に足を踏み入れた瞬間、その焼酎だらけの部屋を目の当たりにすることになった。もちろんこれは医学的に言えば完全にアウトだ。おそらく財政破綻・医療崩壊前の病院の医師であれば、「何をしてるんですか! 今すぐ入院!! お酒もやめて治療しましょう」と告げていただろう。お行儀のいい患者さんなら医師の言葉にはまず逆らわない。そのまま入院して、酒を断つ。これが医学的な「正解」である。しかし、そこに「その人の人生の選択」や「医師・患者間の信頼関係」はあるのだろうか。

彼はこう言った。「酒をやめるなんて冗談じゃない。 90歳超えてんだから検査したら何かあるに決まってる。血なんか採らなくていい。入院もしない。じゃ、何かい? 酒やめて検査して入院したら、ピシャッと治って元気に100メートル走れるようになれるのか? そんなことできるなら、やってみなよ。俺は酒もやめないし、どこにも行かない。最期までここにいるよ」

そして彼はそのまま自宅でちびちびと焼酎を飲みながら、静かに亡くなった。

彼だけではない。多くの患者と膝と膝を突き合わせ、腹を割って対話を繰り返すと、「最期まで自宅で好きに暮らしたい」「病院で自由を奪われてまで生きたくない」といった本音を聞くことになる。だったら、彼らの生活を支える在宅医療・訪問看護・訪問介護などをしっかり整えればいいだけの話である。それが、最初にお話ししたプライマリ・ケアへの医療体制のシフトだったのである。

医療体制転換の結果は、絶大なるものだった。在宅医療の患者数は100人を超え、救急車の出動回数も最も多い年に比べ半減した。全国的に見れば高齢化に伴い出動回数が右肩上がりに増えているのに、半減するというのは驚くべきことだ。前述の90歳代の男性のような「人生の選択」をされる方が増えたのだから、それも当然だろう。彼は最終的に救急車を呼ぶという判断をしなかったし、それを見守る家族、また医療従事者も彼の選択を優先することをいとわなかった。こうした医療に変わった結果、当然ながら年間診療費も減った。

また、ベッド数が9割減って高度医療ができなくなったにも関わらず、なんと市民の死亡率(標準化死亡比)の急激な悪化も見られなかったのである。この事実には現場で医療に携わるわれわれも非常に驚いた。これは、高齢者に対する病院での高度医療提供が必ずしも高齢者の健康に寄与していないことの表れかもしれない。

コロナ禍で見直したい高齢者医療の在り方

今回のコロナ禍に伴う医療崩壊を考えてみよう。日本の人口あたり病床数は世界一で、欧米の5倍だ。また、今回のコロナ禍で日本は感染者数・死者数も欧米の10分の1といった幸運に恵まれている。それにもかかわらず医療崩壊をきたしているのである。ここに日本医療の大きな問題があるように思う。

新型コロナの重症例・死亡例はほとんどが高齢者である。これだけコロナ禍が騒がれているが、日本での未成年の死亡例はいまだゼロだ。

高齢者の新型コロナ肺炎患者はすべて有無を言わさず入院治療という処置になってはいないだろうか。夕張市の高齢者のように、「人生の選択」を自分で決めることができているのだろうか。そのような人生の選択より、医者が決める「医学的正解」の方が優先されてはいないだろうか。

安全・安心を求めすぎると、高齢者は容易にカゴの中の鳥になってしまう。これはコロナ以前からの大きな問題だったが、今回のコロナ禍で問題はより深刻化したと言えるだろう。今、多くの高齢者が「コロナ予防」の名目のもと、施設や病院から一歩も出られず、誰とも会えずに軟禁されているのではないか。

もちろん焼酎を飲みながら自分の部屋で亡くなった90歳代の男性と、コロナで入院する高齢患者を一律に論じることはできない。後者には感染のリスクがあり、同居家族がいる場合などは病院で治療しなければならないだろう。しかし高齢者に対する医療という観点から考えた場合、そこには一脈通じるものがあるように思えてならない。

夕張市で起こった医療崩壊は、結果としてそれ以後の救急の出動を半減させる成功例となった。医療崩壊ゆえの病床削減が、結果として「人生の選択」を考えるきっかけを患者側に与え、それが最期まで生き生きとした自分の人生を送る選択につながり、救急件数を減らしたのだ。今回のコロナ禍を奇貨として、今後の高齢者医療の在り方を考え直す機運が高まっていくことを私は切に願っている。

バナー写真=北海道夕張市の財政破綻を受けて総合病院から診療所となった夕張市立診療所(2007年5月13日撮影 時事)

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