熊本県知事はなぜ脱ダムを放棄したのか
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民主党政権下で決まった川辺川ダム建設計画の凍結
東の八ッ場(やんば)ダム(群馬県)とともに、白紙撤回で注目を集めた川辺川のダム建設計画が再び動き出した。蒲島郁夫知事が12年前の脱ダム宣言から一転、ダム建設容認に舵(かじ)を切ったからだ。
大きく動いたのは、2020年11月19日のことだ。熊本県議会本会議場で開かれた全員協議会で、演台に立った蒲島氏は議員らを前にこう語り始めた。
「12年前、同じ議場において私自身が決断した問題に再び向き合うことに重大な責任と運命にも似た使命感を持ち、この場に立っている。現在の民意は命と環境の両立と受け止めた。これこそが流域住民に共通する心からの願いではないか」
川辺川ダム計画の白紙撤回を取り下げた瞬間だった。
12年前に決断した問題とは、2008年9月、知事選に初当選してから半年後の定例県議会で宣言した川辺川ダム計画の白紙撤回の表明である。蒲島氏の白紙撤回を受け、当時の民主党政権は翌09年、川辺川ダム建設計画の凍結を決定。「コンクリートから人へ」というスローガンを掲げ、その象徴として、川辺川ダムと八ッ場ダムの建設計画の凍結に踏み切った。
蒲島氏は当時、「現在の民意は川辺川ダムによらない治水を追求し、今ある球磨川を守っていくことを選択しているように思う。ダムによらない治水対策を極限まで追求したい」と述べていた。
だからだろう。19日の議会後、記者会見で蒲島氏は「信念をもって政治家として一度決断したことを自分の手で変えなければいけないというのは本当につらい」とも語っている。
球磨川氾濫の被害拡大で変わった風向き
白紙撤回を取り下げた蒲島氏の動きは素早かった。ダム建設を表明した翌日の11月20日、東京・霞が関で赤羽一嘉国土交通相と面会し、流水型ダム建設を含めた「緑の流域治水」への協力を要請した。
流水型ダムは環境保全を強く意識して流域治水を図るものだ。ふだんは川の水を堤体下部の穴から下流にそのまま流すが、大雨が降った際には流量を調節して川の氾濫を抑える仕組みだ。当初計画されていた貯水型ダムに比べて清流を保護しやすく、環境への負荷が小さいのが特徴で、蒲島氏が目指す「緑の流域治水」を具体化する計画案である。
赤羽氏は「全面的に受け止めたい。スピード感を持って検討に入らせていただく」と満面の笑みで応じている。
しかし、そのわずか4カ月前のこと。7月3日夜から降り始めた豪雨による被害が出始めた5日、報道陣に球磨川の治水対策を問われた蒲島氏は、「私が知事の間は川辺川ダム計画の復活はない。改めてダムによらない治水を極限まで検討する」と明言していた。
これに反発したのが自民党県連だ。ベテラン県議が県幹部に「被害の全容も分かっておらず、まだ人命救助の段階だ。ダムの是非に触れるには早すぎる」と電話でクギを刺したという(熊本日日新聞2020年12月2日付電子版)。
蒲島氏は翌7月6日、報道陣に対し「どういう治水対策をやるべきか、新しいダムのあり方についても考える」と語った。川辺川ダム計画の復活はないと明言した翌日、今度は一転して、12年間も封印していたダム建設容認に突然含みを持たせた蒲島氏。県トップの発言の大きな転換は、被害の甚大さに動揺を隠し切れなかったことを物語っていた。
実際、それを裏付けるように、河川の氾濫による被害が判明し始めた後の記者会見で蒲島氏は、「惨状を目の当たりにし、改めて自然の脅威を痛感した。ダムによらない治水の検討を進める中で、このたびの被害が発生し、65人の尊い命が失われ、2人の方が行方不明になったことに、知事として重大な責任を感じている」と語った。
難航を極めたダムによらない治水
では、過去最大級の被害をもたらした球磨川とはどんな川なのか。同川は、熊本県を流れる日本三大急流の一つで「暴れ川」の異名を持つ。川辺川はその支流だ。球磨川は過去何度も豪雨に襲われ、そのたびに流域の住民は大きな被害に悩まされてきた。
記録が残っている江戸時代以降の球磨川の主な水害には、1669年8月に死者11人、浸水家屋1432戸がある。現代では1965年7月3日未明に発生した洪水による死者6人、家屋損壊・流失1281戸、床上浸水2751戸などの被害があった(国土交通省河川局調べ)。
球磨川の上流に位置する川辺川では1950年代から治水ダム建設構想が浮上し、65年の「七・三水害」を受けて建設計画が具体化する。だが、上流の五木村をはじめ、流域の市町村では直後から反対運動が起き、蒲島氏が知事に就任した2008年になっても賛否をめぐり世論は二分していた。
ダム計画の白紙撤回を表明した蒲島氏だが、「ダムによらない治水」は難航を極めた。国や流域自治体との協議では、川底の掘削や川の拡幅工事、遊水池の整備などが検討されたが、治水効果が限定的で具体的な着工には至らないまま年月だけが過ぎ去った。
2019年6月、国と県がようやく提示したのが、非現実的な10案だった。川岸から離れたところに堤防を作り直して川幅を広げる引堤(ひきてい)や堤防のかさ上げ―といった選択肢が組み合わされた案である。
だが、費用が最も少ない堤防のかさ上げでも2800億円かかる上、工期は約95年、工期が最短の45年で済む放水路の整備は逆に5700億円から8200億円と巨額費用のかかる内容だ。引堤に至っては、約200年という気の遠くなる工期となっていた。
各方面から向けられた無為無策への批判の声
翌2020年3月、蒲島氏は熊本県政史上初となる4選を果たすが、「ダムによらない治水は県民の声。私が知事である限り極限まで考えていく」と述べたものの、具体策を示すことはなかった。そこに起きたのが、同年7月の豪雨による水害だったのである。
蒲島氏の対応について、橋下徹元大阪府知事は「ダム建設中止という政治判断には行政の裏付けが必要だが、それがなかった。12年経ってもダムによらない治水対策がきっちりと講じられないまま、今回、球磨川流域が氾濫してしまった。これは最悪だと思う」と語っている。そして、「政治が行政計画を否定するのであれば、それに代わる行政計画を必ずつくらなければならない。こうした政治と行政の役割がしっかりできていない中での政治判断は、単なるパフォーマンスで終わってしまう」と指摘している(PRESIDENT Online 2020/07/08 )。
流域の首長からも「結論も出せず、空白の時間だった」という声のほか、経団連幹部からも「ダム工事の着工直前に知事が代わって建設をやめた。一種の人災だ」との声が上がった。
蒲島氏への風当たりが強まる中、国土交通省が10月、川辺川ダムが計画通りに建設されていた場合、流域の浸水被害を6割減らせたとの試算を公表した。この科学的な調査結果が引き金となったのだろう。蒲島氏は「ダムなし治水の実現は遠い」として、ダム建設容認に大きく傾いていったのである。
政治家は歴史法廷の被告人
10月中旬以降、住民らの意見聴取会を30回にわたって開催して、「現在の民意」を探ってきた蒲島氏の背中をさらに後押ししたのが、同月下旬に共同通信が報じた世論調査結果だった。ダム反対が34%で、賛成29%と数字の上では賛否が拮抗(きっこう)していたが、蒲島氏が着目したのは、賛成と答えた人のうち6割超の人が「豪雨後に必要性を感じるようになった」と答えた点だ。
ダム建設容認を議会で表明する2日前、蒲島氏はNHKのインタビューにこう語っている。「7月の豪雨で状況が一変し、その変わり果てた姿に驚愕(きょうがく)して、二度とこのような洪水を生じさせてはならないというのが私の正直な感情の変化だ。大きな災害で何もしないという選択肢はない。その選択が正しいかどうかは歴史が判断することだ。政治家は歴史法廷の被告人というのは中曽根康弘元首相の言葉だが、まさにその通りだ」と語っている(NHK政治マガジン12月2日電子版)。
「ダムか非ダムか」という二項対立ではなく、「命も環境も」大事にすると宣言した蒲島氏。だが、環境アセスメント実施や漁業権の問題など難題が山積している。今後、流水型のダム建設計画をどう軌道に乗せるか。白紙撤回から有効な対策を講じられなかった12年間。この空白が問いかける意味は重い。
バナー写真:川辺川へのダム建設に関し、要望書を赤羽一嘉国土交通相(右)に手渡した熊本県の蒲島郁夫知事 2020年11月20日 時事