人種差別への抗議はタブーか、五輪憲章に見直し論議も:東京五輪の課題(7)
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NFL選手の抗議行動も影響か
ハイチ出身の父と日本人の母を持ち、3歳から移民国家である米国で育った大坂が、人種差別への抗議意思を持つことは自然のことかもしれない。日本育ちのアスリートに比べ、その意識が高いのも当然だ。
それに加え、米国のスポーツ界を取り巻く環境にも目を向ける必要がある。大坂の行動が変わったのは、2019年に米国のスポーツ用品メーカー「ナイキ」とスポンサー契約を結んでからだという声が少なくない。とりわけ関係が深いと考えられるのは、ナイキが支援するアメリカンフットボール選手の一件だろう。
それは2016年8月のこと。アメフットの米国人スター選手、サンフランシスコ・フォーティナイナーズ(49ers)のクォーターバック(QB)、コリン・キャパニックが、試合前の米国国歌斉唱の際に起立を拒否し、片膝をついて人種差別に対する抗議の姿勢を示した。この行動が話題になった。
他にも彼に同調する選手が次々と現れ、トランプ米大統領が「国歌に不敬な態度を取るような選手はグラウンドからつまみだせ。オーナーはそんな選手をクビにしろ」と、演説の中で激高したほどだ。キャパニックはそのシーズンをもってチームとの契約を終了し、翌年から自由契約となった。だが、3年以上たった今も所属するチームは決まっていない。
そんな中、ナイキは18年、プレーできない状態が続くキャパニックをあえてCMに起用した。キャパニックの写真には「何かを信じろ。そのためにすべてを犠牲にするとしても」(Believe in something, even if it means sacrificing everything.)というキャッチコピーが記された。
大坂がナイキと契約した年に発表されたCMも、キャパニックの広告と同様、メッセージ性の強いものだった。
映像の中では、黙々とショットの練習を続ける大坂に、報道陣の質問が浴びせられる。
「日本人かアメリカ人か、自分をどちらと感じますか?」
「日本語で答えてください」
「またこの後もカツ丼食べますか?」
大坂は黙っておいてとばかりに人差し指で口を押さえ、サーブを放つ。そこに表示されるのは「世界を変える。自分を変えずに」(Don’t change yourself. Change the world.)という言葉だ。
キャパニックと大坂のCMには、スポーツは人種や国籍を超越したものであるという主張が込められているように思える。差別問題とは距離を置きがちな日本企業に比べ、ナイキはアスリートを通じて企業としての意思を示し、ブランド価値を高めているようだ。
差別問題はJリーグや戦前の日本でも
米国だけでなく、欧州のサッカー界などでもアフリカ系の選手たちに対して心ない言葉がスタンドから投げ掛けられることは多い。近年のJリーグでも人種や民族差別につながる問題が起きている。
思い出されるのは、14年に浦和レッズのサポーターが客席入り口に「JAPANESE ONLY」と横断幕を掲げた例だ。外国人排斥の意味が読み取れる言葉だけに、大きなニュースとなった。最終的にJリーグは浦和に対し、その後のホームゲームで無観客開催を科した。チケット収入がゼロになる厳しい制裁だ。
このような差別問題は他のクラブでも起きており、日本のスポーツ界の周囲でも排他的な考えがじわりと広まっているように見える。もはや海外の出来事ではなく、身近に存在するということだ。
戦前の日本スポーツ界にも差別はあった。有名なのは、1936年ベルリン五輪マラソンに日本代表として出場した孫基禎(ソン・キジョン)、南昇竜(ナム・スンリョン)の朝鮮出身選手をめぐる問題だ。当時、朝鮮半島は日本の統治下にあった。
同五輪の入場行進でトラブルは起きた。日本選手団は背の低い者から順に並んでいたが、孫らの後ろにいた陸軍騎兵隊所属の馬術選手から「なぜわれわれが朝鮮人の後ろを歩かねばならんのだ」という声が飛んだという。
その時、日本選手団の旗手を務めていた陸上三段跳びの大島鎌吉(のちの64年東京五輪で日本選手団団長)が「ふざけるな。ここはオリンピックの舞台だ。平和の祭典だ。朝鮮人も日本人もない。気に入らないならこの場を去れ」と馬術の選手を怒鳴りつけたという逸話がある。
レース本番で孫は金メダル、南は銅メダルを獲得したが、朝鮮の新聞「東亜日報」は表彰台に立つ孫の写真を勝手に修正し、胸の日の丸を白く消して掲載した。「日章旗抹消事件」として大問題となり、東亜日報は停刊処分を受け、記者は投獄された。
戦後、南はボストン・マラソンに出場するなど競技を続けたが、孫は自分の行動が朝鮮と日本をめぐる民族問題に発展することを恐れ、二度と競技者に戻ることはなかった。
だが、孫はベルリン五輪の時に受けた恩を生涯忘れず、戦後も大島と交流を続けた。孫の自伝『ああ月桂冠に涙』(講談社)には「ベルリン・オリンピック陸上選手団の大島鎌吉主将には、当時から今日まで変わらぬご交誼(こうぎ)をねがい、国境を越えたスポーツの友情の尊さを教えられた」と書き残している。
物言わぬ日本の選手たちと政治との関係
では日本で今、同じように人種や民族差別の問題が起きた場合、国内のアスリートたちはどんな態度を見せるのだろうか。
SNSで簡単に発信できる時代だ。それなのに、社会問題に対する日本選手たちの主張があまり表に出てこない。スポーツは政治と距離を置くべきという考えが日本では根強く、ひたすら競技に打ち込むことが美徳とされる風潮が続いてきたからだろう。
政治との関係でいえば、80年モスクワ五輪では、米国に追随する日本政府の方針に従い、日本オリンピック委員会は不参加を決めた。政府は選手強化費の補助金打ち切りをほのめかし、大会をボイコットするよう圧力をかけた。そうした過去は、今もスポーツ界のトラウマになっているに違いない。
今回の東京五輪に向けても、政治主導で進められる国家プロジェクトを前に日本のスポーツ界は沈黙しているかのようだ。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う健康や安全の確保にも、競技者側からの発信は少なく、政府や組織委員会任せにしているように映る。
だが、海外のアスリートたちが社会問題に対して積極的に行動しているように、五輪のホスト国である日本の選手たちも、堂々と自らの考えを表現すべきではないか。グローバルな世界で活動するスポーツ選手だからこそ、特に人種や民族の問題には、しっかりとした意見を発信してほしい。
五輪憲章が求める本質とは何か
五輪憲章の第50条では「五輪の用地、競技会場、またはその他の区域では、いかなる種類のデモンストレーションも、あるいは政治的、宗教的、人種的プロパガンダも許可されない」と明記されている。
競技会場で、選手たちが政治的行動を取れば、あらゆる混乱が予想できる。世界が注目する五輪の舞台だ。国威発揚を求める国家に操られ、政治宣伝に利用される選手が出てきてもおかしくはない。
だが、BLM(ブラック・ライブズ・マター=黒人の命は大切だ)運動が広がりを見せる中、この第50条を撤廃すべきだという意見が世界的に強まっている。10月初めに来日した世界陸連のセバスチャン・コー会長は「選手が表彰台で片膝をつくことを望むなら、それを支持する」と述べ、「アスリートは世界の一部であり、自分たちが生きている世界を反映したいと思っている。私にとって、それは完全に受け入れられることだ」と語った。
人種差別は、政治的な問題というよりも、全世界が根絶を求める普遍的な人権問題として考えなければならない。その意味では、五輪憲章の「根本原則」に示されている次の条文を取り上げて議論すべきだ。
「この五輪憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」
グローバル化の反動で排他主義が広がり、コロナ禍における移動や交流の制限で世界の分断が加速している。五輪はその溝を埋める役割を果たせるのか。スポーツを通じ、世界の多様性を認め合う本質的な五輪の価値を改めて考えたい。
バナー写真:テニスの全米オープンで、警官に殺害されたジョージ・フロイドさんの名前が入ったマスクを着けてインタビューに応じる大坂なおみ(ゲッティ=共同)