コロナの言葉:感染は「収束」か「終息」か、はまった官製語「3密」

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2019年末から、世界は突然、正体不明のコロナウイルスに襲われ、われわれは丸腰のまま、マスクを着け、手を洗い、家に閉じこもるほかなくなった。数カ月後、コロナの様子をうかがいつつ、おずおずと外に出始めた。だが、今もって中途半端で、憂さは晴れない。それが「日常」になった。コロナにまつわる多くの言葉が生まれ、消費された。言葉は未来に不案内な社会とわれわれの気分を映し出す。

カタカナ語の効用

「ロックダウン」(都市封鎖)、「オーバーシュート」(感染爆発)、「クラスター」(集団感染)…。コロナ第1波に見舞われた半年前、感染者が急増した東京都では、小池百合子知事が記者会見でカタカナ語を連発した。批判もあったが、耳新しい言葉は「非常事態」を浮き出させ、切迫した「新たな脅威」に輪郭を与えた。もし、かっこ内の陳腐な日本語訳だったら印象はずっと薄かったはずだ。

「東京アラート」というバタ臭い言葉も大阪・通天閣の電飾と比べればずっと都会的だし、「夜の街」は職業差別や偏見を伴う微妙なニュアンスを丸めて消したし、「ウィズコロナ」は「不便な日常を甘受してそれぞれ工夫せよ」という道徳教育を施した。いずれも小池知事が広めた。それは、危機感を刺激し、政府の尻をたたいた。

語学に秀でた小池氏は言葉の感覚に鋭敏なのだろう。16年の都知事選当選の余勢を駆って地域政党に冠した「都民ファースト」。議会を支配する自民党都連に「既得権益をむさぼる守旧派」の烙印(らくいん)を押し、オセロゲームのように一瞬にして多数派を形成した。

「ワイズ・スペンディング」(賢い支出)もそう。ともに「じゃ、ファーストでないのは」「じゃ、ワイズでないのは」という問い掛けを含んでいるのがミソだ。「ワイズ…」の生みの親、ケインズも苦笑いだろう。

新奇な言葉は、上滑りしなければ衝撃と訴求力を喚起する。上滑りするかどうかは表現者の「それらしさ」による。コロナ激震地・東京ではかなり奏功したかに見える。実際、改正新型インフルエンザ特措法では罰則で外出禁止や営業休止を強制できないが、見事に威令は通じた。

非常事態という切迫感をあおり、日本人にも強いムラ社会由来の「同調圧力」「相互監視」にスイッチを入れた。一方でカタカナ語の刺激には耐性が付きやすいのも事実。タイミングと状況適合性が肝だ。

上出来の官製新語「3密」

そうなると、つい比較してしまう安倍晋三前首相。記者会見では身振り手振りの原稿読みスタイルで、語り口は朗々。でも響かない。自分の言葉らしくないからだ。間を挟んでほぼ9年、何度も聞いた式辞の類。

特に毎年8月の広島、長崎両原爆記念日には「核廃絶」に腰の引けた官僚原稿を読み、終戦記念日には右派政治家らしく歴史色蒼然の表現を織り交ぜたが、事大主義と“浮いた感”が残った。周到で深みのある両市長の平和宣言、天皇のお言葉と比べられ、毎度毎度、痛々しかった。

コロナではどうか。各国首脳とも暗中模索で知恵を巡らせるのは同じだが、首尾はいろいろ。現段階までは感染者数や死者数など多くの点を諸外国と比べれば、日本の状況は軽微の部類に入るだろうが、その本当の理由はまだ分からない。無論、本人の造語ではないが、広い意味で前首相との関連で記憶されるのは、「アベノマスク」や「一律給付」(10万円)、そして「3密」だろう。

この中で「3密」は感染拡大対策が本格化する3月初め、専門家の意見に基づいて厚労省が考案したらしい。「密集場所」「密閉空間」「密接場面」を戒め、共通の「密」で短くくくった官僚のコピーライター的才能は出色だ。疫病対策の簡潔な生活ルールは今も経費不要の有力手段である。

7月には世界保健機構(WHO)も「crowded places」「close-contact settings」など「3Cs」として国際的に推奨した。SNS上では3密を「集・近・閉」と漢字3文字で表すものも出た。コロナ発生元、中国の国家主席に重ねた言葉で、嫌中派諸氏はにんまりだろう。

ところで、「3密」には何やら仏教教義的なムードが漂うな、と思ったら、広辞苑にはちゃんと「三密」の項目があり、「密教で、仏の身・口(く)・意のはたらきをいう。人間の思議の及ばないところを密という…」(第6版)と解説されている。挙動のつかめないコロナは仏か。不思議というほかない。「3密」は今年の新語・流行語大賞の有力候補らしいが、広辞苑編集部は次期改訂で新語登録するのだろうか。

「シュウソク」の決め手

コロナ関連語でメディアの記者や編集者を悩ませたのが「シュウソク」だ。同音異義の「収束」と「終息」である。字義は前者が「おさめる」と「たばねる」、後者は「おわる」と「やむ」「やすむ」で、それぞれ「事態・状況が安定・縮小の方向に移る」と「事態・状況が終わる」という意味だ。「息」の「自」は「鼻」の古字で、「心」(胸)から鼻に空気が通る、即ち「呼吸」を表すという。「やむ」の字義は「息災」で納得するし、「やすむ」の字義は「休息」で分かる。

この「シュウソク」、話し言葉ではどちらなのか、文脈やニュアンスで決めねばならない。例えば、安倍前首相は5月25日の緊急事態宣言解除の会見で「わずか1カ月半で今回の流行をほぼシュウソクさせることができた」と語り、翌日の新聞はそろって「収束」だった。当時の状況は「終息」でないのは明らかで、あくまで「一段落」にすぎないからだ。

しかし、仮に「コロナが『シュウソク』して、東京五輪が…」となると、「収束」も「終息」もあり得る。そこはコロナや五輪をどう考えているか(状況認識)と言葉の内容をどう捉えているか(言語認識)などによる。

世間一般の共通理解は、「収束」はプロセスの一地点であり、「終息」は特定のポイント、あるいは事態は「収束」し、やがて「終息」する、という辺りか。「収束」を他動詞、「終息」を自動詞とするものもあるが、実態はそれほど厳密ではない。NHKの放送文化研究所、毎日新聞などメディアは読者の疑問、関心に応えて2つの「シュウソク」について解説していた。

これは実感だが、最近は「収束」と丸めてしまう使用例が減り、「感染者を抑える」「感染拡大を防ぐ」など具体的な表現が増えたようだ。経験的にコロナの正体がある程度つかめ、冷静さを取り戻し、新たな生活習慣になじんだためだろう。相手の素性が皆目分からないと、恐怖心は思考を止め、単純化する例と言える。

やり切れない「社会的距離」

最後に、個人的に違和感のある言葉。分かるようで分からない「ソーシャル・ディスタンス」(social distance)の訳語、「社会的距離」である。

英語の「social」はラテン語の「socius」(「仲間」)に由来するという。当事者2人にもう1人加われば「仲間」であり、それは最小単位の「社会」でもあるというわけだ。このことを反映して「social」には一般的に「社交の」と「社会の」という訳語がある。

「social dance」が「社会的ダンス」ではなく、「社交ダンス」「ソシアルダンス」なのはその一例。現代のSNS(social network system)も登録会員同士(つまり、仲間うち)のコミュニケーションだから、意味からすれば「社交の」の訳語がふさわしいということになる。

もう一つ、ややこしいのは「社会的距離」という訳語が個人・集団間の理解や親しさなどによる親密度を表す社会学の専門用語でもあるということだ。

こうして考えると、「ソーシャル・ディスタンス」が人と人との距離を保つという意味なら、明らかに「社交」の訳語が妥当する。「社交的距離」、あるいは「対人距離」くらいだろうか。理由は定かではないが、WHOも途中から「physical distance」(物理的距離)と言い換えている。

もっとも、日本ではコロナ感染者やその家族、感染を媒介した飲食店、そして医療関係者やその家族にまで差別や偏見が及び、コロナとは別に大きな問題になっている。自らに及ぶ感染の危険を指標に特定の集団を切り分け、異なる態度を取ることはまさに社会学でいう「社会的距離」にも通じる。まさか、そうした現象を見越して「社会的距離」という訳語が充てられたわけではないだろうが、それはそれで怖いことである。

バナー写真:記者会見する小池百合子都知事(時事通信)

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