
新政権を揺さぶるIOC幹部の「コロナに関係なく」発言:東京五輪の課題(6)
政治・外交 スポーツ 東京2020- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
コーツ副会長の意図を読み解く
自民党総裁選の告示を前にした9月7日、IOC副会長、ジョン・コーツ氏の発言がAFP通信から配信された。コーツ氏は東京大会の準備状況を監督するIOC調整委員会の委員長を務めている。AFPの電話インタビューにこう答えたという。
「大会は新型コロナウイルスに関係なく行われ、来年の7月23日に開幕する。東京五輪はコロナウイルス感染症を克服した大会となり、トンネルの終わりに見える一筋の明かりになるだろう」
「コロナに関係なく」とはどういう意味なのか。世界では感染拡大が続いている。ワクチンの治験では副作用も確認され、開発には時間がかかる見通しだ。にもかかわらず、状況がどうであれ開催するというのは、選手や観客の健康、安全を軽視した無責任な姿勢と言わざるを得ない。
IOCのトーマス・バッハ会長は、9日の理事会後の記者会見で「全ての参加者の安全を確保することが原則であり、コーツ氏も含め、IOC関係者の誰もが全力を尽くしている」とフォローした。だが、コーツ発言には別の意味も込められているのではないか。
組織委員会が契約する日本国内のスポンサーの大半は、今年12月末で契約が切れる。現在、契約延長の交渉が続けられているが、開催の見通しが不明確な今、協議は難航しているとみられ、収入確保のメドも立っていない。
これに対し、コーツ氏が組織委に「助け舟」を出したという見方だ。「必ず開催する」というIOCのお墨付きを与えることで、協賛会社との交渉をスムーズに進める狙いがあるのかもしれない。
さらに別の視点からも分析できる。大会が中止となれば、さまざまな補償や損失が予想される。その場合、IOCは中止を決定したという責任を単独では負いたくない。そもそも延期を求めたのは日本政府だ。来年の開催可否についても、日本側の決断を求めているという意味にも受け取れる。
すなわちコーツ氏の言葉は、「政権が交代しても責任を放り出すことは許されない」という菅新首相へのメッセージなのではないか。
延期を申し出た首相はもういない
開催都市契約によれば、中止の決定権限を持つのはIOCだ。契約は、IOCと東京都、日本オリンピック委員会(JOC)で結ばれ、これに基づき組織委が設立されている。だが、契約条項にない「延期」を決定づけたのは日本政府であり、当時の安倍首相だった。
3月24日、安倍氏は首相官邸に東京都の小池百合子知事と、組織委員会の森喜朗会長らを呼び、IOCのバッハ会長に直接電話をかけて「来年夏まで」と延期を要請した。政界からは、2021年9月の自民党総裁任期を意識し、安倍氏が五輪を長期政権の「花道」にしようとしているとの指摘も出た。
判断に迷っていたIOCにとっても渡りに船だったろう。この直前、世界のアスリートや各国のオリンピック委員会からは、大会開催に対する抗議の声が次々と上がっていたからだ。
本来、開催国の政府は大会の当事者ではなく、開催都市を後方支援する立場にある。しかし、五輪の規模が肥大化するにつれ、国家の関与度は大きくなっている。
安倍氏は常に前面に出て東京大会を主導してきた。13年のIOC総会では、原発事故後の福島の状況について「アンダー・コントロール(制御されている)」と安全を強調して開催権を勝ち取った。16年リオデジャネイロ五輪の閉会式でも任天堂のゲームキャラクター「スーパーマリオ」に扮(ふん)して登場するなど、目立った動きを見せた。
しかし、日本側の「キーパーソン」は、持病である潰瘍性大腸炎の再発によって首相の座から降りる予想外の展開になった。IOCは「日本の責任者は誰なのか」と不安を抱いているに違いない。
赤字を補填するのは東京都か政府か
安倍首相が辞任表明した翌週、政府は五輪本番に向け、新型コロナウイルス対策の調整会議の初会合を開いた。東京都や組織委員会も加わり、感染防止対策や大会関係者の入国制限の緩和などについて話し合った。
だが、この会議が開催の鍵を握ると考える関係者は少ないだろう。感染防止対策はもちろん重要課題だが、問題はむしろ、数千億円にも上るという延期費用の確保が見通せない点にあるからだ。
延期決定から半年近くがたった。ところが、無観客にするのか、観客数を制限するのか、フルの観客で実施するのかさえ決まっていない。観客の問題が定まらない限り、すべての準備計画は具体化せず、予算も組めない。
観客を制限すれば、900億円を見込む組織委のチケット収入は減り、すでに購入した人への払い戻しの手数料なども発生する。とはいえ、予定通りに大観衆を集めても、感染防止対策や出入国管理に巨額の資金が必要になる。
組織委は緊縮財政を想定し、大会の簡素化を検討している。IOC側からは観客減の可能性は示唆されているものの、無観客試合や開・閉会式の大幅縮小は認められないとの意向が伝えられているという。経費削減にも限界があるようだ。
組織委が資金不足に陥った場合は、東京都が赤字を補う決まりになっている。しかし、都は9000億円以上蓄えていた「財政調整基金」を、コロナ対策で9割以上使ってしまった。このため、都が穴埋めできない時は、日本政府が補填(ほてん)する。IOCに提出した「立候補ファイル」には次のように明記されている。
「東京都が補填しきれなかった場合には、最終的に、日本国政府が国内の関係法令に従い、補填する。この資金不足に対するメカニズムは、万が一、2020年東京大会の全面中止または一部中止等が発生した場合においても、同様に機能する」
IOCに対して、政府の財政保証を確約したのは首相だった安倍氏だ。いわば、最後の責任を取る「保証人」だったのだ。
菅政権に開催可否の決断ができるのか
安倍氏は首相退陣の記者会見で、自らが率いるはずだった東京大会の開催について、こう話した。
「スケジュールに沿って、しっかりと準備を進め、開催国としての責任を果たしていかなければならない。当然私の次のリーダーも、その考え方のもとに目指していくのだろう」
内閣官房長官として、安倍首相の参謀役を務めてきた菅氏は、「(大会を)なんとしてもやり遂げたい」とスポーツ紙の合同インタビューで語ったという。だが、自民党総裁選に向けて発表した政策には五輪・パラリンピックについての記述は一切見当たらず、IOCとの接点もないに等しい。
政界では、菅新首相がさっそく衆院解散・総選挙に打って出るのではないか、という観測が広がっている。コロナの状況次第だが、10月25日や11月1日の投開票と日程を挙げるメディアもある。
河野太郎防衛相は、オンラインの講演会で「10月中にはおそらく衆院の解散・総選挙が行われる。来年に延期された東京五輪・パラリンピックを考えれば、解散・総選挙を行う時期は限られる」と述べた。
つまり、菅政権の浮沈を占う今後の政治日程と東京大会の開催可否はリンクしているということだ。もし中止が決まれば、政権へのダメージは計り知れない。ならば、開催可否が決断される前に解散・総選挙に持ち込んだ方が得策という計算も成り立つ。そのタイミングを菅首相がどう判断するか。
海外からは「違う種類の大会を」の声も
英国からは気になるニュースが飛び込んできた。世界陸連の会長であり、IOC委員のセバスチャン・コー氏が、BBC放送のラジオ番組で、「(延期開催の)確実性はない」と述べ、東京大会を来年実施できない場合について言及した。
「違う種類の大会の創設について、少しばかり型にとらわれない発想をする必要があるかもしれない」
コー氏がイメージする「違う種類の大会」が、どんな代替イベントなのかは分からない。だが少なくとも、陸上界のトップはコロナ時代に即した新たな競技会の必要性を考え始めているということだ。
感染拡大が収束しない限り、世界の人々が一堂に集まる大会の開催は難しい。ならば、「分散型」も検討の余地があるということか。9月上旬にはIOCの本部があるスイス・ローザンヌで、陸上の棒高跳びのみを行う国際試合が観衆の上限を1000人に限定して開かれた。当日はバッハ会長も観戦したという。
スポーツを通じて国際平和を求める「五輪運動(オリンピック・ムーブメント)」は、世界中から競技者と観客が集まってこそ実現できる。だが、オンラインの技術を使えば、たとえ競技会場を分散しても、世界各地を結ぶ「祭典」を開くなどして、別の可能性が広がってくるだろう。
コー氏は、東西冷戦で参加国が分かれた1980年モスクワ、84年ロサンゼルス両五輪に出場した陸上中距離の金メダリストだ。8年前のロンドン五輪では組織委の会長も務めた。今春のコロナ禍においては「選手の安全が犠牲になってはならない」と語り、世界陸連会長の発言が延期の流れを作ったとも言われている。
対照的に、日本ではスポーツ界から積極的な意見の発信は少なく、政治頼みの構図は以前と変わっていない。「選手不在」で物事が決まっていく五輪やパラリンピックのあり方が問われている。今こそ、JOCをはじめスポーツ界が声を上げるべきだ。
政治の事情に従って出場の道が閉ざされた時、泣くのは選手たちだ。日中戦争拡大による40年東京五輪の返上や、冷戦下での80年モスクワ五輪不参加も政治主導だった。そんな過去を繰り返してはならない。
バナー写真:国際オリンピック委員会(IOC)のジョン・コーツ調整委員長(時事通信)