アフガニスタン復興:日本にできることは何か
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2020年2月29日、カタールの首都ドーハにおいて、米国政府とタリバンは、米軍の撤収、タリバンが米国とその同盟国である北大西洋条約機構(NATO)諸国への脅威であるアルカイダ、イスラム国(IS)など「テロ組織」へ協力しないこと、そしてタリバンとアフガニスタン政府の直接交渉開始などを内容とする合意文書に署名した。前年に実施された大統領選挙に起因する同国内の混乱、タリバンによる攻撃の継続、アフガニスタン政府とタリバン間の交渉開始の条件である捕虜交換の停滞、そして新型コロナウイルスへの対応など、合意履行へ影響を与える不確定要素は少なくないが、米国にとってもアフガニスタンにとっても、18年間に及ぶ戦闘終結への一つの区切りとなった出来事である。
このような大きな節目の中で、「日本」の名前を見つけることは難しく、また大多数の日本人にとってアフガニスタンは「遠い国」であることは間違いない。しかし後で述べるように、日本あるいは日本人はこれまで同国との良好な関係を維持してきたことも確かである。
「難問」に挑んだ2人の日本人
緒方貞子氏と中村哲氏。日本とアフガニスタンとの関係を考える上で、この2人の日本人はとりわけ大きな存在である。しかし、緒方氏は2019年10月、中村氏は同年12月に相次いで亡くなってしまった。特に武装勢力によって銃撃された中村氏の死は衝撃的であった。少なからずのアフガニスタンの人々が日本人として名前を知る両氏がいなくなってしまったのである。その喪失の意味は極めて大きい。
長年、難民問題を扱う国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップを務めた緒方氏は、2002年1月の東京におけるアフガニスタン復興支援会議の共同議長を務めるなど、その後の国際協力機構(JICA)理事長時代も含めアフガニスタン支援に高い意欲を示してきた。中村氏は、1980年代前半から医師としてパキスタン、アフガニスタンの国境付近で活動してきた。その間、現地において生きる糧を得る手段である農業に不可欠な「水」の重要性を認識し、「百の診療所より一本の用水路」という信念を持って、非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の代表として自ら率先して大規模な灌漑(かんがい)施設を建設してきた。
筆者は、かつてその両名に直接話を伺う機会があった。緒方氏は度々アフガニスタンを訪れ、筆者も現地での会合などへ同行した。その際、「私には、UNHCR時代にやり残したことが二つあると思っています。一つはミャンマーのロヒンギャ問題、もう一つはアフガニスタンの難民問題を解決できなかったことなのです」との言葉に直に接し、アフガニスタンに対する緒方氏の思いの原点を知った。中村氏と直接お会いしたのは数回にすぎないが、危険を伴うアフガニスタンでの活動についてお話を伺った際、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」と普段は穏やかな氏が、その時だけ厳しい口調で語ったことを覚えている。
活動拠点が公的機関と民間組織という違いがあったにせよ、アフガニスタンという「難問」に向き合った2人の日本人亡き後、日本あるいは日本人ができることは何であろうか?
9.11後に本格的な支援を再開
2001年の米国同時多発テロ以降、米国や国連と協調して日本政府はアフガニスタンの復興を支援し、外交・政治的にも関与してきた。もちろん、政府関係者のみならず、中村氏をはじめとする多くの民間団体や個人がアフガニスタンとのつながりを大切にしながら、支援活動や同国の生活・文化などを紹介してきた。
両国の公式な外交関係は1930年に始まるが、その前後には農業技術や柔道指導のために日本人が派遣され、アフガン留学生の日本への受け入れも行われていた。第2次世界大戦中、当初中立を宣言していたアフガニスタンだが、英国とソ連からの要請もあって連合国側として参戦。敵国となった日本との関係は途絶したが、戦後は経済協力などを中心に良好な関係を続けてきた。
しかし、70年代半ばからのアフガニスタンの混乱は両国の関係にも影響を与えた。79年12月、ソ連がアフガニスタンに軍事介入し、その抗議として米国と足並みをそろえるように日本政府は翌年のモスクワ・オリンピックをボイコットする。そして89年2月にソ連軍が撤退した後、同国内のムジャヒディン(イスラム聖戦士)各派による紛争、タリバン支配へと続く不安定な時代の中で、アフガニスタンは、立ち入ることが難しい、日本からはるか遠いシルクロードの国となっていった。
そのような中でも、アフガニスタンの安定のために日本は対立するタリバンとムジャヒディン各派の対話の機会を提供する場を設けてきた。そして、2001年9月の米国同時多発テロとその後のタリバン政権崩壊を機に、同国との関係を修復し、支援活動を本格的に再開する。
前述のように日本政府は、02年1月にはカルザイ暫定行政機構議長(後の大統領)を招いてアフガニスタン復興支援会議を東京で開催し、新たな国造りへの支援を開始した。「武装解除、動員解除、社会再統合」(それぞれの英単語の頭文字をとってDDRと呼ばれる)プログラムでは、リード国として除隊兵士の社会復帰を促した。そのほかにも農業、教育、保健・医療、女性の地位向上、インフラ(カブール空港建設など)といった分野での支援を実施した。なお、日本ではあまり知られていないが、地方や海外からの移動で膨れ上がった人口に対応できなくなったカブール市に代わる、新たな首都建設計画の策定も日本の政府開発援助(ODA)によって行われた。また、アフガニスタンの行政官が日本の大学院へ留学する機会を与える奨学金制度も実施している。
民間ベースでも多くのNGOが人道、復興、交流の各分野に関わってきた。特筆すべきは、12年6月、同志社大学が、タリバン政権崩壊後初めて公式な場でタリバン代表団とアフガニスタン政府側の関係者が顔をそろえる国際会議を開催したことだ。また16年3月から20年3月まで、国際社会のアフガニスタン支援の調整・まとめ役である国連アフガニスタン支援団(UNAMA)のトップは、日本人として3人目の事務総長特別代表となった山本忠通(ただみち)氏が務めた。
日本ができる限界と可能性
これまで述べたように、日本とアフガニスタンの関わりは「薄い」ものではなかった。しかし、援助疲れや国際的なアフガニスタンへの関心低下もあり、金額で見た支援規模は日本だけでなく減少傾向にある。
こうした状況のもと、国際政治における影響力の低下や、かつてと比べ余裕のない経済力から考えれば、日本がアフガニスタンの安定のために貢献できる選択肢は限られている。そのような中で重要なのは、月並みではあるが、支援の継続であろう。しかし、残念ながら治安や経済状況の改善が見られないことに加え、政府内に見られる汚職や腐敗といった問題から、対アフガニスタン支援の効果と有効性について懐疑的な意見があるのも確かだ。さらに中村氏の殺害に見られたように、日本人が現地に滞在し支援することにも厳しい制約がある。
それでも地道な支援を続け、対立する各派との橋渡しを行っていくことは、日本だからこそ可能で、国際社会のみならずアフガニスタンの人々もそうした役割を果たすことを期待している。地理的に遠く離れており、欧米諸国のように相互の権益に直接関わる事態がなかったことが幸いしてか、アフガニスタンの人々の日本に対する印象は決して悪くない。そのような立ち位置を有効に使い、アフガニスタンの安定へ貢献することが、南アジア、中央アジア、そして中東地域の安定へ寄与することになるのである。
バナー写真=日・アフガニスタン首脳会談。アフガニスタンのガニ大統領(右)と握手する安倍晋三首相=2019年10月23日、東京都港区の迎賓館(時事)