中国のシャープパワーから見る北大教授拘束事件
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2カ月以上も拘束、安倍首相が「懸念と憂慮」伝える
2019年9月8日、北海道大学法学部の岩谷將(のぶ)教授が、北京市内のホテルで中国当局に拘束された。教授は、日中戦争史を中心とする中国近現代史の研究者で、台湾や米国、そしてもちろん中国の文書館や図書館に所蔵されている史料を丹念に調べ上げる歴史研究者である。拘束のニュースは10月18日に日本のメディアが報道して周知の事実となった。当初、日本のメディアでは反スパイ法容疑などとされたが、中国外交部スポークスマンは国内法違反とだけ述べていた。
このことが内外に知られると、日本の諸学会、研究組織などが相次いで意見表明や抗議を発した。新しい日中関係を考える会、日本現代中国学会、アジア政経学会、そして日本国際問題研究所、中曽根・世界平和研究所などである。また、『朝日新聞』などの主要紙には研究者の意見記事が掲載され、『日本経済新聞』は社説で憂慮を示した。他方で、9月末、この問題が公表される前に茂木敏充外相から王毅外相に、また10月の天皇の即位の礼に際して来日した王岐山副首相、また11月にタイで行われた東アジアサミットに参加した李克強首相に対して、安倍首相が懸念と憂慮を伝えた。特に2020年春の習近平国家主席の来日を成功させるためには、本件を速やかに解決すべき、と日本側は求めたたようだ。
11月15日、2カ月以上にわたって拘束されていた同教授が解放されたと、日本の各種メディアが一斉に報じた。安倍首相と李克強首相との会談が功を奏したように思える。安倍首相が優先順位をあげて李首相に要求をしたのは、世論の動向、あるいは菅義偉官房長官や首相の側近などから強い希望、要請がなされ、それが首相を動かしたのだろう。いずれにせよ、習近平国家主席の訪日をほぼ5カ月後に控える状態で、日本の総理大臣や閣僚が相次いで要請し、日本国内で岩谷教授の拘束に抗議する雰囲気が広がることで事実上の釈放(保釈)に至ったと言える。釈放は、中国側としてはギリギリの判断だったようだ。中国側のメディアはこのことを国内で必ずしも報じていないからだ。報道しているものも外交部の言葉の引用ばかりだ。これは、釈放が「弱腰」だと国内からの批判にさらされる可能性があると当局が認識していることを示すのかもしれない。
中国側の説明が示す「価値観の相違」
事実上の釈放(実際には保釈)がなされた11月15日、中国外交部のスポークスマンは、今回の経緯について説明した。だが、この説明により、むしろ今後の日中間の交流への憂慮が広がるとともに、改めて日中間の価値観や秩序をめぐる相違が浮き彫りになった。
第1に、9月8日に中国の国家安全部部門がその宿泊しているホテルの部屋で、教授が集めた中国の国家機密にかかわる資料を差し押さえ、捜査を行ったところ、教授が中国の機密資料を有していたことが明らかになり、またこれまでも機密資料を大量に収集してきたことを教授が認めたという点だ。この証拠の押収と教授が認めたことによって、中華人民共和国刑法違反、反スパイ法違反だとの嫌疑がかけられたという。しかし、そもそも教授は中国社会科学院近代史研究所の招聘で訪中し、同研究所が手配したホテルに宿泊していた。では、当局は教授が何かしらのものを持っているとなぜ知ったのか。どのような経緯にせよ、招かれた先で拘束される可能性があるならば、外国の研究者、とりわけ中国を対象とする研究者は容易に訪中できなくなる。
第2に、国家機密とは何か。歴史研究者は内外で史料を収集する。また中国研究者は当然さまざまな資料を中国などで収集する。そしてその現物やデータを有している。そうした資料などについて、明確な基準もなく「国家機密」に該当すると当局に判断され、拘束されるとしたら、それは研究者にとっては大きな問題である。たとえ当局には分かっていても、研究者の側にとってその機密の基準、範囲が明確でなければ、訪中に際しては相当な慎重さが求められることになる。
第3に、中国当局に拘束された場合には弁護士を立てて自らを守ることも難しいし、領事接見も(一定の頻度で可能だが)必ずしも頻繁にできるわけでもない。「法」のあり方が中国と先進国とで異なることがこれらの背景にある。そして、たとえ釈放されたとしても、今回もおそらくそうであるが、一体何があったのか語ることは禁じられる事例が多い。それだけに、前例として経験が蓄積されることもあまりないのである。
尾行や監視、サイバー攻撃も
今回、岩谷教授は幸運にも釈放されが、日本の学界のみならず、社会の側の不安は消えないだろう。中国における反スパイ法などの適用範囲は依然不分明であり、日本人に限ってもこれまでに14名が拘束され、9名が起訴されている。また、起訴されても容疑が明確でない例は少なくない。そして、岩谷教授の釈放と相前後して、北海道教育大学の中国籍の国際政治学者が訪中後に数カ月、音信不通になっていることが判明した。これまでも、日本で教鞭をとる中国籍の研究者の中には、半年前後拘束された私立大学の教員を筆頭に、短期間拘束された国立大学、私立大学の教員がいたことが知られている。そして、現在も報じられてはいないが、連絡がつかなくなっている中国籍の研究者がいるとも耳にしている。
他方、日本以外でも米国、カナダ、オーストラリア、そして台湾などでの、研究者やビジネスマンなどが中国で拘束される案件が後を絶たない。この背景には、米中対立の下で米国が国内の中国人研究者に厳しく接していることもあるとされるが、原因はそれだけでないだろう。やはり、外国人や外国で仕事をする中国人が中国国内で多く拘束されていることの背景には、中国国内での社会管理、統制強化があると思われる。国内での管理、統制の標準を、国内に入った外国人や、外国で活動する中国人にも適用し始めているのだと考えられる。
無論、法的に中国国内の外国人もまた中国法に従うべきなのだが、従来、先進国とは異なる法体系や法解釈を行なっていた中国では、国内標準を直ちに国内に入った外国人に適用していたわけではない。それが昨今変化しているということだ。こうした点で、これらの問題は一国二制度が事実上の消滅へと向かっている香港問題と地続きなのである。
このような変化は、今回の教授拘束事件で突発的に生じたのではない。昨今、中国に入国した中国研究者は、従来以上の尾行や監視を受けたり、また何かしらの問題で中国に対して反対声明を出せばサイバー攻撃を受けるなどの被害があったりした。そうした面で多くの研究者が危機感を感じつつも、拘束という一線は超えないのではないかと思ってきた。だからこそ、この拘束事件が発覚した時に、自分が対象になっていてもおかしくない、と感じた研究者が少なからずいたのであり、そのような共感が広範な抗議活動へとつながったものと思われる。
融通無碍に解釈される「国家機密」?
現在の問題は、大学教員や研究者に限った話ではない。国家機密の内容は不分明であり、解釈権は中国側にある。その容疑がかけられる可能性は、研究者のみならず、ジャーナリストやNGO職員、政府関係者、そしてビジネスマンにも同様だろう。測量をしても、地質調査をしても、古本屋で本を購入しても、国家機密を持っているとか、スパイだとして疑われる可能性は否めない。無論、誰もかれもが対象になるわけではない。しかし一度広がった不安はなかなか拭い去れないのではないか。ここで、だから中国との交流を当面は止めるべきだ、というつもりはない。むしろ、中国との交流を妨げる障害として認識し、その障害を取り除く努力をすべきだと筆者は考える。
中国は、国際経済の領域では「自由で開かれた」国際経済貿易秩序の擁護者だと自らを位置付ける。この「自由で開かれる」という言葉の定義は西側諸国では異なるが、少なくとも表面的には既存の秩序と敵対していない。だが、国際政治面では異なる。国際連合については敵対しないが、米国を中心とする安全保障網や、学問の自由や言論、思想信条の自由を含む西側の価値観については明確に批判し、西側諸国との間に従前以上の大きな溝ができつつある。
今回の事件は、日本の中国研究にとっては大きな衝撃だ。事実関係、法の適用基準が明確にならないことがそれに拍車をかける。今後、中国の日本研究者が日本に来れば自由に研究活動ができて、資料収集も可能であるのに対して、日本の中国研究者は中国で自由な研究活動がしにくくなるだろう。あるいは、日本の研究者は中国に入るのなら、日頃の執筆、言論活動まで中国政府や共産党に寄り添わねばならなくなるかもしれない。
このような制度的な非対称性に基づく中国の外部への浸透、それこそが中国のシャープパワーである。中国から先進国には出やすく、先進国から中国には入りにくい。米国はこれを防ごうと「壁」を作ろうとしているが、その効果は依然分からない。中国は、先進国を始め多くの国や地域との間でこのような問題を起こしていくつもりだろうか。今後も継続すれば、中国と世界各国、とりわけ制度的対称性が強い先進国との関係性において次第に顕著になっていく可能性もある。日中関係においても、今後、この問題を適切に処理しなければ、学問の世界のみならず、ビジネスを含む各領域で同様の問題が発生するかもしれない。もしそうなれば、日中関係の屋台骨を揺るがしかねない。
バナー写真:即位の礼出席のために来日し、安倍晋三首相(右)を表敬した中国の王岐山国家副主席=2019年、10月23日、東京・元赤坂の迎賓館(時事)